読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

知の逆転

2013年05月01日 | サイエンス

知の逆転

インタビュー・編 吉成真由美


 超豪華なシンポジウムというか、神々の共演というか。

 ジャレッド・ダイヤモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、そしてジェームズ・ワトソンのインタビュー数である。

 たとえ名前に覚えがなくても、「銃・病原菌・鉄」の人、「生成文法論」の人、「妻を帽子とまちがえた男」の人、「人工知能の父」、アカマイ社の代表取締役、「DNA二重らせん」を発見した人、と書いていけば、その超ド級具合がわかるかもしれない。(白状すると、僕はアカマイ社のトム・レイトンは、まったく知らなかったのだけど)。

 いわば最先端の科学者たちにこれからの世界や教育などについてインタビューしている。
 彼らのコメントはなかなか興味深く、またタイトルの「知の逆転」にあるように市井の一般論をひっくりかえすよう鋭い指摘も多い。
 本書は一人の発言にコミットしてもよいし、ある共通の課題に対し、それぞれがどう答えているかを横串で比較してもよい。


 僕がひとつ気づいたのは、あろうことか、みんな民主主義、あるいは集合知的なものを信用していないということである。
 「みんなの考えは案外正しい」なんてウソだ、ということである。

 ジャレッド・ダイヤモンドは「個人の優れた判断力は、民主主義のための必須条件ではない。」という。「民主主義プロセスでは困難だが、世界の生活水準が均一にならないと世界秩序は崩壊する(この場合、アメリカや日本は今より生活水準を落とすことになる)。選択の余地はない。」と警鐘を鳴らす。民主主義と安定的生存の相いれなさを指摘しているのである。

 ノーム・チョムスキーは「民間ビジネスは実は政府の介入を望み、完全な市場原理主義は実は社会を破たんする」という見解を示す。なるほどその通りだなあと思う。我が日本でも、実際は政府が肩入れしたり規制や保護をかけているものはたくさんある。だが、本当に市場原理に任せると絶対に破滅するとし、ここに民主主義の限界を見ている。インターネットによる情報アクセスのオープン化も、「垂れ流しの情報があってもそれは情報がないのと同じ」と喝破し、「理解あるいは解釈の枠組み」を持っていなければならない、とする。

 また、人工知能のマービン・ミンスキーも「集合知」に懐疑的な発言をしており、「多くの人が大賛成した場合のほとんどは、大惨事になるか、文化が崩壊するか、大衆をうまく説得するヒットラーのような人物があらわれる」と指摘して、「科学の叡智はいつも個人知能によってもたらせた」と言う。(ポピュラリティに流されて「犬のロボット」をつくって喜んでいてけっきょくフクシマに送り込めるロボットをつくれなかったロボット業界に痛烈な批判を浴びせている)。

 ジェームズ・ワトソンは「総意というのは往々にして間違っている。あくまで「個人」が際立つ必要がある。科学を促進させるということは、とりもなおさず「個人」を尊重すること」と言って、「国富論」を引き合いに「文明の大きな進歩というものは「個人」が生み出すもので、「政府」からはけっして生まれてこない。だから集団の一員ということではなく、独立した「個人」というものが尊重されなければならない」としている。

 要するにみんな近いことを言っていて、目先の利潤や生存に左右されがちな民主主義的意思決定の限界が、いま先進国を中心に襲っており、これを超える強力な決断は、理解や解釈を備えた個人の判断力にならざるを得ないというものである。ただ、そのちょっとした判断で簡単に文明は崩壊する。まじかよ。


 つまり、宗教とか集合知とか空気とか、外部に理由と結果を求める限り、間違った未来にいきやすい、ということなのである。(なんとここに上がる人はみんな「宗教」に懐疑的である)。個人の理解力と決断力と実行力こそが、未来を切り開き、社会を伸展させるのである。


 さすが知の巨人たちは違うなあと思うわけだが、なかなかわれわれ一般人にはだまって拝聴するしかないようなところもある。

 だが、ここでオリバー・サックスの発言がなかなか生きていく上で示唆にとむ。
 こういう個人の力を引き出すにはどうすればよいか。一部の超優秀な人間がトップランナーで走って、あとは暗愚な大衆であれ、ということか。
 それに対して、サックスは「人はみんな脳(思考)の傾向が違うものである」と指摘している。その脳の傾向は遺伝で決まるということでもなくて、環境と育ちが充分に作用する。遺伝的要素を持っていたとしてもそれを引き出すのは環境的要因だということである。
 で、個人が遺伝的に持っていた脳の良さをもっとも引きだすのはやはり教育であり、「教育におけるもっとも大事なことは先生と生徒のポジティブな関係」ということになる。この意味するところは、先生と生徒は脳が違うのだから、先生の「脳」のようになれ、といってもなれない。先生は、生徒の「脳」のポテンシャルを引き出すことに情熱を傾けなければならない。
 さらに、このネット全盛の時代にあって「没頭する時間」と「音楽に身をゆだねる時間」が脳には必要とのことである。

 こうすることで、己のパワーは無限のポテンシャルを持つ。その自分に自信を持って、理解と決断と実行をはかったその最大の例が、アカマイ社のトム・レイトンということになるだろう。

 

 などなど。本書はいろんな縦軸、横軸で読めそうである。
 おりをみて、もういちど読み返して、また別の補助線や対角線をみつけてみたい。


 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

統計学が最強の学問である

2013年04月21日 | サイエンス

統計学が最強の学問である

西内啓

 

 売れているようだ。そんなに統計がはやっているのだろうか。例のビックデータというやつのせいか。

 僕は、ここでも書いたけど、いぜん統計解析を仕事にしたこともあって、ここに出てくるようなロジスチック回帰とか、重回帰分析とか、カイ二乗検定とか、いちおうは通過している。
 いちおう、というのは決して何かの資格を持っているとかいうことはなく、単に現場で無理やり覚えさせられたに過ぎない。だから、正確に理解していたとか、計算のアルゴリズムをしっかり勉強したとかあ、S言語を習得したかというとまったくそんなことはない。

 当時はまだビックデータはもちろん、データマイニングなんていうコトバも流通していなかった。
 ただExcelで使える統計解析ソフトはあった。顧客からPOSデータとか通行量データとか、お客さんのアンケート結果なんかもらってはせっせと入力してぐるぐると解析ソフトをまわしていた。

 統計というのは実に地味な仕事である。そもそも統計というのはリスクヘッジの権化なのであって「今までこうでした。だから次もこうでしょう」ということをやる分野である。だから実に夢がなかった。

 で、この仕事からおさらばしてしまったわけだが、その後、グーグルのベイズ理論に基づいたページランクというアルゴリズムが着目されたり、データマイニングが話題になり、そしていまやビックデータである。

 本書でも指摘されているが、ビッグデータだろうと、サンプリングデータだろうとあまり違いはない。少なくとも違いがないことのほうが多い。
 ビッグデータの本質は、何万人のデータベースができたということではなくて、ライフログというところにある。購入履歴とか閲覧履歴のような、本人が気づかないうちにあちこちで残した痕跡からある種のパターンを見抜くのである。だから、ライフログされあれば、サンプリングで構わない。
 重要なのは、これまでアンケートとかせいぜいレジでのPOS管理システムくらいでしかとれなかったデータが、ライフログとしてかなり細かいところまでとれるようになったからだ。最近はさらに、携帯電話やスマホに仕込まれているGPSデータを使って、移動パターンまで採取しているようで、大きなお世話もいいところである。

 というわけで、トムクルーズ主演の映画「マイノリティレポート」みたいなことがほんとうに現実化しつつある昨今で、個人的には辟易気味なのだが、統計というビジネス分野がトレンドなのは間違いないだろう。とはいいながら、統計そのものは完全競争産業に近いところもあって、だから小さなプロダクションみたいな会社にどんどん外注されていくわけで、コールセンター業務みたいに、そのうち中国やインドの企業とかに丸投げされてしまいそうな予感もある(もうされている?)。

 そんなわけで僕は統計というものは実に野暮で無粋なイメージ(トラウマともいう)があるのだけれど、ゆいいつ面白いなと思ったのは、本書でも紹介されているテキストマイニングである。
 これは、文章の書かれ方や頻出する単語の特徴をつかまえて、なんらかの傾向を読みとるもので、自由回答記入のアンケートとか、コールセンターの問い合わせ内容とかを分析する際に用いるのだけれど、計量文献学的な世界では急にミステリー小説の謎解きみたいなカタルシスが出てくる。
 本書では、シェークスピアとベーコンの文章の書かれ方の相違をみてこの2人が別人であることを示すエピソードが出ているが(この2人は同一人物という説がある)、僕が見聞きしたのは、源氏物語の五十四帖をしらべてみると、いくつかのグループができあがり、別人か、あるいは相当の年月の隔離があって書かれ、それが必ずしも五十四帖通りの時系列にならない、という話だったり、宮沢賢治の小説に出てくる色彩語の頻出パターンから、彼の色彩空間感覚を再現してみると意外にも白色系統が多いという試みだったりする。こういうのは“知の探究”のようで楽しい。

 ようするに僕は統計がキライなのではなく、統計で武装してビジネスをやりぬいていこうという気概が無い、つまりそもそも仕事が好きでないというだらしのない結論になってしまった。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経度への挑戦 一秒にかけた四百年

2010年09月15日 | サイエンス
経度への挑戦 一秒にかけた四百年

著:デーヴァ・ソベル
訳:藤井留美


 ずいぶん前に、「うんちく」が流行ったことがあって、山田五郎が科学技術に関する「うんちく」ということで、ニュートンの万有引力研究もハレーの天体観測もガリレオの振り子実験もすべては大航海時代に大洋の真ん中で正確に時を刻む時計をつくろうとしたため」というようなことを述べていた。うろ覚えなので、細部がだいぶ間違っているはずだが、おおよそこのようなことだった。
 で、その「うんちく」に関してはそれっきりだったのだが、「正確に時を刻む時計への研究が科学技術の発展をもたらした」という文脈だけが頭のかたすみに残ったまま、数年が過ぎた。
 先日、書店でたまたま本書「経度への挑戦」を目にして、ピンときたのである。


 正確にいうと、こうことだ。
 海洋上で船が現在位置を知るには(地図上のどこにいるのかを知るには)、自分の今いる緯度と経度がわからなければならない。緯度というのは南北の縦軸のどこに位置するかで、これは北極星の見える角度から比較的容易に算出できるらしい。
 いっぽう、経度を知るのは困難だそうで、陸上では天体観測を何時間もかけることでなんとか可能だったが、足元が揺れ、気象が不安定な海上ではほぼ不可能だったそうだ。
 とはいうものの、航海中の船が現在地を見誤ることは、重大な海難事故に直結しやすく、実際に位置の判断を見誤って多数の死者を出す事故が頻発したため、経度を知る方法を確立することは悲願といってもよかった。

 そこで、イギリス政府は「経度法」という賞金制度を制定した。いろいろ細かい条件がついているのだが、要は正確に経度をはかる方法をつくった人に莫大な賞金を与える、というものである。

 この賞金をめぐっては、大きく2つのアプローチがあった。
 1つは、天体観測を精緻化させ、そこから現在の位置を導き出す方法で、月の運行や木星の衛星食をつまびらかに観察する。これの難点は、海上だと足元がおぼつかない、最終的な答えを導き出すのに何時間もかかる、計測者にはかなり複雑で高度な知識が求められる、などあるのだが、さまざまな試行錯誤の末、最終的にはかなりいいところまできた。これは「月距法」と呼ばれている。当時のグリニッジ天文台の台長ネヴィル・マスケリンが、この手法での権威となった。

 もう一方が、本書の主人公、ジョン・ハリソンがやり遂げた方法である。
 「経度」を知るには、海上にいる自分が今何時何分なのかが正確にわかればいいのだそうである。そこからいろいろ逆算すれば経度もわかる、ということらしい。
 ただ、この「何時何分」というのはかなりの正確さを求められ、だいたい12時15分くらい、などというわけにはいかないらしい。手元の小さな誤差が最終的に位置を割り出すときに大きな誤差になるからである。
 だが、当時の時計は正確でなかった。「ぜんまいをまいている間は秒針が止まっている」なんてのも、経度測定のためにはアウトなのだが、それに対して当時の時計は「規則正しく遅れる」どころか、船の揺れや温度・湿度で不規則に遅れたり早まったりする。したがって、正確にいま何時何分かを図ることはできず、よって経度もわからない。
 当時の常識では、「海上で正確に動き続ける時計」というのは、永久機関か錬金術かのようなファンタジーだったようである。
 それをジョン・ハリソンは実現させてしまった。「機械式時計」の誕生である。

 だが「月距法」こそが唯一の方法と主張するマスケリンとその周囲の勢力により、ハリソンとハリソンの時計はなかなか正当に評価されず、あまつさえ誹謗中傷さえ行われた。開発した時計を分解させたり、没収したりもした。支持者の地道な運動によってジョン・ハリソンの業績が認められ、賞金が支払われたのはハリソンが晩年になってのことだった。

 本書は、ハリソンがメインなので、そんなハリソンを悲劇の主人公として描かれ、マスケリンはかたき役となっているわけだが、さてマスケリンの主張は本当にただの誹謗中傷か、というと必ずしもそうでもないように思う。

 確かに経度法の賞金の対象としては、ハリソンの開発した機会式時計は十二分に合格していたわけで、ここだけみればマスケリンは難癖をつけたことになる。

 だが、この経度法設立の背景にあったのは、航海中の船が自分の場所を見失わないようにするためだった。つまり方法の普及と汎用性が求められた。マスケリンの主張は主にこの部分にあることがわかる。この問題意識そのものは極めて正しい。

 月距法に比べてハリソンの機械式時計が持つ長所は、誰でも使える、曇り空でも使える、すぐに結果がわかる、というところにある。この点で、月距法は太刀打ちできない。
 だが、ハリソンが開発した時計は、とにかく精緻極まりなく、複製をつくることが極めて困難だった。かなり腕のいい他の職人が1個の複製をつくるのに4年かかる、というシロモノだった。材料もダイヤモンドとか特殊な木材など、希少なものを使っていたので、すこぶる高価なものになった。あまつさえ、ハリソンは設計図をなかなか公開しようとしなかった。

 つまり実用的という面では月距法もハリソンの機械式時計もどちらもまだまだ問題があったのである。

 したがって、航海技術の向上という意味では、本書では最後の2章で触れられているのみなのだが、その超精密で高度なハリソンの機会式時計の仕組みを、「量産化」させたジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウの2人だ(「クロノメーター」の特許争いは現在に至っても結論が出ていない)。これによって、大海に散った様々な船が時計を手に経度を知り、安全な航海ができるようになったのである。

 「量産化」というのはまさしく「民主化」であって、自動車のフォードの例を持ち出すまでもなく、時代を変える。もちろん、量産化の前には、ハリソンのような技術革命がある。一方で、量産化には量産化の技術というものが別にあって、こちらも同じくらい重要だと、本書を読んで図らずもそんな感想を持った。
 つまり、本書はハリソン偉人伝ではあるのだが、「月距法」のマスケリンや、量産化にこぎつけたジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウのはたらきがあって現在の航海法や時計がある。ある業績を一個人に集約して英雄視されることは往々にしてあるものだが、科学技術の発展というのは決して一個人の叡智で終わるものではないのだなあ、などとたぶん著者の思惑とは違う感銘を受けてしまったのであった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか

2010年09月02日 | サイエンス
アフォーダンス入門    知性はどこに生まれるか

佐々木正人

「アフォーダンス」という言葉をちらちら聞くようになったのは今から10年くらい前だっただろうか。どちらかというとデザイン論としての文脈で引用されることが多いように思ったもので、当時、無印良品から壁掛け式のCDプレーヤーが発売されたとき、これこそアフォーダンスと思ったものだった。

ギブソンの提唱した「アフォーダンス」はもちろんこれよりずっと広義の概念である。だからこそわかるようでわかりにくい。なんとなくぼんやりとは言いたいことはわかるのだが「とある主体がふるまいを規定するのは、主体それ自身に内在しているのではなく、内部と外部の両方の関係性によって初めて成される」とでもいえばいいのだろうか。「歩く」という行為は、人間の足の筋肉機関だけに依存するのではなく、足元にある大地そのものの機能性、それは地面の弾力とか広さとか傾斜とか、さらにはその地の空気抵抗とかも含めたフィードバックの中で初めて「歩く」という行為が達成される。

だが、最近やたらにいわれる「クラウド・コンピューティング」という概念。主にコンピュータ関連のサービスやビジネスで引用されるが、実は「アフォーダンス」というのは、人間(だけではなく、動物も植物もすべてなのだが)がそこに存在し、さまざまな所作によって生きているのは、「環境」がもつ様々なリソースを「クラウド」として使っており、実は人間自身の内部ではまったく完結していないのだ、と考えるとなんとなく腑に落ちる。クラウドコンピューティングというシステムが、ソフトとハードとコンテンツあるいはデータのありかを、内部外部の区別の意味をなくしているように、アフォーダンスというのは、存在と機能と便益の関係、つまり有効な行為をなす「知性」は、もはや内部や外部の境界なくして一体のところに存在するものとして考える。本書は内部と外部の相互のフィードバックが所作を規定するさまざまな事例が載っている。

これを逆転させると、「クラウド・コンピューティング」というのはアフォーダンスの関係になっている、といえる。
コンピュータネットワーク環境がついに知性を遍在させることに成功したのである。それまでもネットワーク環境というのは情報のリソースになりえたのだが、それはあくまで書庫としての役割でしかなかった。あるいは電話の代行でしかなかった。
だが、クラウドによって、知識処理がネットワーク環境に委ねられるようになると、その処理はクラウドが持つ環境要素に依存することになる。速度も精度も安定度も依存することになる。mixiでサーバがダウンして大騒ぎになったことがあったが、これも織り込み済みになる。クラウドコンピューティングに関する限り、リアル環境とコンピュータネットワーク環境が等価になったわけだが、そう考えるとたしかに本当に大丈夫なのか、と思ってしまう。
クラウドコンピューティングに関してはセキュリティについてずっと問題視されているが、これまでのプロバイダとかソーシャルメディアの供給会社と異なり、世界システムそのもののセキュリティが問われているわけで、単にバグだダウンだと言っているわけにはいかない。

高橋源一郎の小説「ペンギン村に陽は落ちて」は、「現実」と「夢」が相互作用し、ついには境界がなくなっていく話だが、リアルとネットワークの境界がなくなった時、小説が予言するような黄昏と昇華は起こるのだろうか。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は、なぜ約束の時間に遅れるのか 素朴な疑問から考える「行動の原因」

2010年08月20日 | サイエンス
人は、なぜ約束の時間に遅れるのか 素朴な疑問から考える「行動の原因」

島宗 理

 本書の主題は「行動分析学」と「視考術」である。

 「行動分析学」というのは、人の行動(言動だけでなく、判断や思考も含む)を促す要因をきょくりょく外因に求め、「あの人はB型」だからとか「あの人は九州人だから」は言うにおよばず、「あの人はまじめだから」とか「あの人は几帳面だから」といった性格にも起因させない考え方である。これの根底は「人々の行動はすべて外的環境要因が決定する」というテーゼにある。

 だから、「約束の時間に遅れる」のは、いろいろ間接的要因あるが、もっともダイレクトなのは「そもそも出かける準備に取り掛かるのが遅い」ためであり、出かける準備が遅くなるのは、「準備から、待ち合わせの時間に到着するまでの見積もり時間」を見誤るためであり、「見誤ってしまう」のは、「そもそも正確に見積もらなくてもこれまでなんとかなる人生だった」からで、「なんとかなった」のは、「その人が生まれ育って経験値を重ねたところが正確でなくても許されるところだった」からで、その地がなぜ許されるところだったかというと、「もともと自家用車社会で、公共の交通機関で移動して待ち合わせるという社会システムがないところで」と、まるで反芻する牛のように、どこまでも外的要因をさかのぼっていくのである。

 で、このずるずる考える外的要因を視覚的に整理するのが「視考術」なのであった。


 なるほど理にかなっているが、この考え方を人生すべてに応用させると、とにかく窮屈で息がつまりそうで、一歩も曖昧性を許さない毎日を過ごさねばならなそうだ。根拠レスかもしれなくても、ひとまず「血液型」のせいにしてしまったほうが、お互い、適当にゆるんだ気持ちで生きていけそうな気もする。現実の人間関係社会は案外そんなものではある。

 だが、失敗学としての応用は確かにできそうである。失敗の克服を精神的努力に還元させると、いつまでも同じ失敗をするのは確かで、外的要因が排除できるならばそれに越したことはないし、その排除が困難だとわかった場合は、精神力で克服するのではなく、失敗することを前提として、リカバーの方法を前もって考えておくほうが有効そうだ。

 それにしても「ヒューマンエラー」という言葉は最近よく聞く。ミスとか失敗とかするとなんとなく個人的問題に起因するが、「ヒューマンエラー」といった瞬間、責任がシステム全体に存在するかのようになる。たしかにいつか誰かが大事故やらかすな、と思うような仕組みはあちこちにある。けれど「ある条件を満たすと必ず失敗する」とステレオタイプになってしまうのも危険思想ではあろう。(「割れ窓理論」を応用したモラル政策なんてのはそうだよね)







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェルマーの最終定理

2009年11月13日 | サイエンス
フェルマーの最終定理

著:サイモン・シン 訳:青木薫


 ノンフィクションとかドキュメンタリーには、2種類あって、それは題材ネタそのものが非常に面白いもの。つまり、ライターが少々2流3流であっても、ネタそのものが面白いために結果として読ませるものになっているというタイプ(もちろんそのための取材は非常に重要だが)と、題材ネタそのものは非常に地味、あるいは特殊でまったく万人受けしないのだが、ライターの才覚で、それを実に読み応えのある作品に仕立て上げられたものとがある。
 誤解を承知で例をあげると、前回の「大脱出」なんてのは前者であろう。「徒歩でシベリアからインドまで踏破した」なんてのはまずは題材の勝利である。

 さて、この「フェルマーの最終定理」は後者、つまりよくもまあこんな特殊で狭いマニアックな世界をここまで血沸き肉踊るコーフンで夜も眠れないドキュメンタリーに仕立て上げたものだ、というやつで、サイモン・シンおそるべしである。

 「フェルマーの最終定理」そのものは、とてもマニアックな世界のものだ。すなわち、「XのN乗+YのN乗=ZのN乗」という数式において、Nが3以上の自然数の場合、この数式を満たす自然数X・Y・Zは存在しない」というやつで、フェルマーが結論だけ書いて、その証明を書き残さなかったため、以後300年、世界の超一流の数学者が挑んでは証明できずに敗退してきた。それを20世紀も終わりになってワイルズというイギリス人の数学者が解いたわけである。
 それは、確かに画期的なことではあるが、とはいうものの、万人受けする話とはやはり言い難いだろう。合コンでこんな話題はまずできまい。まして、その解法というのが、フェルマーの最終定理の対偶であるところの「谷山=志村予想」つまり、なんと楕円曲線はモジュール形式で説明できてしまうのだ! という予想に対する背理法、そんなこといったらNが自然数のわけないじゃん、を証明したものなのだよん、とやったところで、面白いわけがない。実際にワイルズが行った証明は、本書の表現を借りれば、この分野を専門とする数学者の中でもその証明を理解できるものは10%に満たない、とされる超難解なものなのである。

 が、私の身の回りでも、公認会計士の人から、制作プロダクションの社長から、歯科医から、ゲームクリエーターまで、口をそろえてサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」は面白い! と言う。これはどうみてもサイモン・シンの努力と才能のたまものである。

 実際に、サイモン・シンがとった方法は非常に巧みだ。きわめて広範の関係者に取材していることがまずベースとなっており、歴史資料への取り組みもきちんと行っている。解説でも触れられているが、ワイルズの証明に間接的にかかわった日本人数学者や、歴史上不遇だった女性の数学者についても公平に触れられている。こういった、執筆の姿勢がまず好感高いが、何よりも巧い、と思ったのは章建てと物語の進行だ。

 物語はまず、ワイルズがフェルマーの最終定理を証明した、と発表したセミナーからスタートする。そして、時代がさかのぼり、フェルマー以前の時代の数学の取り組み・・ピタゴラスの定理から始まって、過去、フェルマーの定理に挑んだ数学者の実績に触れることで、「点予想」とか「L系列」といった、本来ならばいったいなんじゃそりゃという世界にさりげなく入り込み、「谷山=志村」予想の悲劇と激動のエピソードに絡めて超難解なモジュール演算に触れ、背理法や帰納法といったそういや高校のときに聞いたような・・という感触を得て、最後にこれらをぜーんぶつなげて、証明者ワイルズの物語にするするっと入っていく。このワイルズの物語がまたよくできていて、いったんは栄光を手にした、つまり冒頭のシーンに戻るものの、その証明に瑕が見つかり、再証明のための悪戦苦闘、つまり本書の最大のクライマックスがここから始まる、という、実にジェットコースター型なのだ。映画でも見てるかのようなカタルシスがある。

 「フェルマーの最終定理」だって難題だが、「「フェルマーの最終定理」にまつわる話を一般の人でもわかるように面白く書く方法がある」だってものすごく難題だ。サイモン・シンがそれを証明してしまった。現物を手にとれば、まるで必然のようにそこにあるが、ゼロから彼はこの物語を構成させたのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋滞学

2009年02月06日 | サイエンス
 渋滞学---西成活裕

 なんだか各方面で絶賛されていたのは知っていたのだけれど、なんとなくすりぬけていて、ようやく読んでみた。

 中央高速上りの小仏トンネル付近なんてのは、上り坂でトンネルという、これはもう設計ミスなんじゃないのといいたくなるくらい、渋滞が宿命づけられているが、本書によれば「メタ安定状態」という現象が渋滞の直前に起こるそうな。「メタ安定」というのは、やたらに過密でありながら妙に高速走行という、いわば危険きわまりない状態が束の間発生するのだそうだ。

 この「メタ安定」という状態は、実に興味深い。本書にならって、この「メタ安定」状態を他で応用してみよう。
 「メタ安定」とは要は妙に浮き足だっている状態である。加速がついているのだが持続可能ではなく、一触即発のあやうさを伴っている状態だ。そのあとにはおそるべき停滞が控えている。
 そう。まるで金融市場万々歳でFXだCPだストックオプションだレバレッジだと言っていたあの頃とその後みたいじゃないの。
 つまらない時事評論になってしまいそうだが、仕事でも人間関係でもなんでもいいが、なんだか妙にハイテンションに事態が進行していっているときは、それが「持続可能」なのか「メタ安定」な状態なのか振り返る必要がある。前者ならばそのままつっきってしまってかまわないが、後者の不安があるならば、軟着陸の方法を考えたほうがよい。いきなり大渋滞にはまってしまうおそれが高い。
 また、自分ではなくて他人を見る場合も、異常な高生産性を示す人がいたら、それが「持続可能」なものになっているか「メタ安定」なのかを見極めたほうがよい。前者からは学ぶものが多いが、後者は一見もっともらしくても実は危うい場合が多い。一時期スターになっていつの間にか消えちゃったなんて人は、会社にも学校にもテレビの中にもネットの世界でもどこにでもいる。

 
 それにしても、さまざまな社会現象や物理現象や機械工学的な話を「渋滞」というキーワードで横串にしてみせた手腕と努力に脱帽する。従来の学問領域や縦割り行政や事業部構造に対してタスクフォース型に横から貫く方法論というのは、おそらくこれからますます注目されることだろうと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボナンザVS勝負脳 -最強将棋ソフトは人間を超えるか

2008年10月20日 | サイエンス
ボナンザVS勝負脳-最強将棋ソフトは人間を超えるか---保木邦仁・渡辺明

 余計なことかもしれないけれど一応解説をすると、ボナンザというのは、本職は分子制御の研究者である保木邦仁氏が開発したコンピュータ将棋のアルゴリズムのことである。去年の3月に、このボナンザが当時の竜王である渡辺昭氏と公式戦として対決をした。

 この手の話で有名なのは、IBMのスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」がチェスの世界チャンピオンに勝利したことだ。といってもこのエピソードは既に10年前の話である。
 現時点では、チェスやオセロに関してはコンピュータの前に人間はもはや歯が立たない。そして、将棋に関しては、この公式戦で渡辺竜王が勝った。つまり、将棋ではまだまだコンピュータは人間の敵ではないということである。

 ただ、本書を読むとそれなりにボナンザは善戦したようだ。もっとも、接戦になってしまった理由はボナンザの強さというよりは、どちらかというと渡辺竜王のミスが引き起こしたことのほうが大きいようである。コンピュータが安定的な勝利を重ねるようになるには、まだもう少し時間がかかりそうだ。
 データベース化された定石をすばやく引用してきたり、終盤の寄せや詰めはコンピュータの得意とするところだが、大局観を一瞥で把握するところがやはりウィークポイントなようだ。「大局観」というのは木よりも森を見る態度のようなことだが、積み上げで理詰めをしていく線形思考型のコンピュータとはなかなかそぐわないのだろう。大局観がより重要視されるのは囲碁だが、コンピュータ囲碁はまだまだ非常に弱い。スパコンを並列で潤沢に用いて総当り計算しながらやってもそれでも勝てない(19×19盤)。
 ボードゲームを離れて、戦争でもビジネスでも、もし、人間がコンピュータに最後まで勝るとすればそれは「大局観」なのかもしれない。

 それにしてもボナンザの開発者である保木氏が1975年生まれ、渡辺竜王は1984年生まれ。才気走った2人の鼻息が聞こえてきそうな文章だ。全幅検索(全パターンの総当り検索ということ・・実際は枝刈りもしているが)という力技を極めていく保木氏も、徹底的にボナンザの思考ルーチンの癖を見抜こうと事前の対策をうつ渡辺竜王も、これこそ己の得意領域にすべてをかけた真剣勝負だと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

科学とオカルト

2008年06月05日 | サイエンス
科学とオカルト---池田清彦---ノンフィクション

 著者は、環境問題で物議を醸し出している人(友人である養老孟司によれば変人とか)だが、久々になんだか愉快なもん読んだなーと思った。人を食ったような文体や、若干酒でも入っているかのような論理展開(綻び?)も含めて、これが講談社学術文庫(発出はPHP新書らしい)というのもおかしい。

 科学技術というものが、森羅万象の中の「不変の同一性」や「再現可能性」(要するに法則性)を解き明かすものであったならば、当然、森羅万象の一要素である人間(ワタシやアナタ)も、人間としての「不変の同一性」や「再現可能性」のところばかりが注目され、それでもって今日の科学技術社会というものができあがっている。(で、複雑化しすぎてかえってわからなくなってきている)。
 が、人間としての「不変の同一性」や「再現可能性」に注目ということは、つまり「『ワタシ』でなくて『アナタ』でも可」であるようにする、ということになる。科学技術で武装された都市装置は「ワタシ」だけでなく「アナタ」も使うことができる。がこれは言い方をかえれば「ワタシ」でなくても「アナタ」でよい、ということになる。
 かくして、現代社会は実は「かけがえ(掛け替え)の“ある”ワタシ」(=「アナタ」と交換可能な「ワタシ」)で運営が可能なようにベクトルが向いている。ユニバーサルデザインも、非正社員雇用も、ナレッジマネジメントも、見える化も、パワーポイントも、ナンバーポータビリティも、グローバルスタンダードもそうである。べつにアナタてなくてもいいんだよ、という仕組みの構築である。

 果たして「かけがえの“ない”ワタシ」を会得したいむきにはどうすればいいのか。“自分探し”のゴールはどこにあるのか。“オンリーワン”とやらはどうするの?

 ここに「オカルト」が待ち受けている。なぜなら、オカルトは「不変の同一性」や「再現可能性」を担保しなくてよいからである。であるから、オカルトを体験した(少なくとも本人は「体験した」と心底思い込んでいる)「ワタシ」は他ならぬ「かけがえの“ない”ワタシ」になる。


 本書は多岐に話題が及ぶので上記だけが主旨でもないが、まあこんなことが書いてあって、科学にもオカルトにも距離をおいた遠巻き感覚の無責任さが、個人的にはめっぽう愉快。

 科学でもオカルトでも自制心が大事だと思うのだけれど、一方で現代社会というのは資本主義社会というか要するに「他人の自制心をいかに外させるか」という力学が働いており、そこをついて金を落とさせる。だから、科学でもオカルトでも面白けりゃ(=金になれば)、こぞってスポンサーがつき、マスコミがとりあげ、ネット上をネタが走り、関連した商品が市場に出回る。で、科学でもオカルトでもそのうち手段と目的が逆転して勇み足になり、偽装とかやりすぎとか破壊活動とかになる。どっちにしたって「カルト」となってしまっては剣呑であることに変わりない。

 公共的基準なるものがかつて「キリスト教(教会や聖書)」で、いまは「科学的見解」ということならば、科学という名の一神教(と、異教としての「オカルト」)という現代の図式こそをもっと相対視すべきかもしれない。しかも多神多仏を臆面もなく受け入れている日本ならばこそ、「かけがえの“ある”自分探し」なんて離れ技をやってみてもいいのじゃないかなんて思ったりして。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地下展

2008年01月16日 | サイエンス
地下展---日本科学未来館---番外編

今回も番外編。先日、もうじき開催期間が終える「地下展」を見にお台場に行った。
なんだか興味をそそるポスターだったので気にはなっていたのだがいよいよ終了するというのでいざ繰り出してみたのである。駅などで見るポスターの絵柄はマンホールのフタが開いた絵柄だったので、展示の中身は、下水道などの都市の地下インフラを扱ったものなのかと思ったのだが、行ってみて、いやそんな卑近なものではない、なかなか壮大なものでとても目ウロコだった。地下をめぐる人知を超えたファンタジーや、科学技術と地球内環境の結合みたいな視点なのであった。

興味をひいたうちのひとつは「ノアの箱舟プロジェクト」と称すもので、北極(正確には北極圏のノルウェー領土)の地下に数百万種もの植物の「種子」を保存するというもの。つまり、永久凍土の地下深くに、農作物の種子を保存することで、破壊的な自然災害や核戦争などの影響を逃れ、次世代の活用を待つという、まさに「ノアの箱舟」なのだった。こんなプロジェクトの存在自体知らなかった。(そういや新型インフルエンザもいよいよそこまで来ている様相だ)

他にもこれまでの地球史で全表土が氷に覆われたことが3回あるという「スノーボールアース」、手にずしりと重量がかかる「地球内部の重さ」。地球の構成物質の周期性をそれぞれ歯車時計にみたてた「全地球時計システム」(正確なところは正直よくわからなかったのだが、その演出と異様な空間に圧倒)。

テーマも面白かったが、それ以上にセンスの良さを感じたのは各種展示方法。対象は地下であり、扱う内容もスケールが大きいものの抽象性が高くて難解だ。それらを、薄暗い空間の中、LEDや白色光を効果的に用いて禁欲的ながらアートさえ感じる展示空間で演出していた。それからスタッフの熱のこもった説明。

最近のこういう企画展は、展示演出がとても洗練されている。建物そのものの自由度もあるだろうが(上野の科学技術博物館はどうしても天井高や廊下の手狭さも手伝って、旧来の横並び展示から逃れにくい)、展示物を「観る」という視点から、「居る」ことの臨場感とでも言おうか、五感を通じてメッセージを発してる。(そういえばこの地下展も、音を聴いたり、匂いをかいだりする展示物もあった)

ところでこの地下展の入り口付近で、あのASIMOの実演をやっていたらしい。時間があわなくてこれは見れず。残念。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする