読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

そして、バトンは渡された (ネタばれ)

2021年08月15日 | 小説・文芸

そして、バトンは渡された (ネタばれ)

瀬尾まいこ
文芸春秋

 

 2019年の本屋大賞のベストセラーで今更感ありありだが、夏フェアで本屋さんで文庫本が平積みになっていたので読んでみた。

 17年間で7回家族形態が変わった優子が主人公である。3人の父親と2人の母親である。
 順目でみれば、バトンとは優子のことであり、走者はそれぞれの「親」ということになるだろう。基本的には出てくる登場人物はみんな善人ばかりである。その限りでは筋書き通りに読んで、微温的というか、ちょっといい話的なライトな小説ということになる。

 だけれど、複数の登場人物が出てくる一人称小説は、違う登場人物に焦点を当てる読み方をすることでまったく違う味わいを考えることもできる。

 この小説の影の主役、いや真の主題は優子の3番目の父親役となった森宮壮介であろう。この視点、そんなに深読みではないはずだ。

 この小説はほぼ全部を優子の一人語りで占めるが、冒頭のプロローグと、物語の最後のブロックが森宮の一人称になる。ここに森宮が何を考え、何を大事にし、何を覚悟したかが見えてくる。


 まず大きな特徴として、この小説は「食事」がひとつ大事な要素になっている。実父である水戸の生チョコケーキにはじまり、水戸と二番目の母親の梨花との離婚の話を言い渡される手巻き寿司、梨花と二人暮らしでの生活費に事欠いての食事調達(パン屋で配る無料のパンの耳!)、大家さんからわけてもらう野菜、二番目の父親である泉ヶ谷家で出されるちゃんとしているが窮屈な食事。高校時代の優子がひとり学食で食べる親子丼。優子が短大を卒業後に就職した山本食堂。早瀬が理想にするレストラン。彼女の人生において、食事こそは自分の心を安定させ、まっすぐに生きていくための原動力そのものだった。梨花との暮らしが貧乏暇なしであっても、高校のクラスでハブられても、しっかり食べられれば彼女はまず元気だった。イタリアやアメリカに修業(?)に行った早瀬に対して、料理はわたしのほうが上手いと思ったものも、食事が人に与えられる力についての信念が優子のほうが上だったからだ(そしてピアノが人に与える力については早瀬にかなわなかった)。

 しかし、優子が発揮する食の力は、森宮の徹底したこだわりによるところが大きい。その力の入れ具合は明後日の方向にむかうこともあるが、かつ丼をつくり、餃子を焼き続け、オムライスにケチャップで文字をかき、たとえ夕食こ2時間後でも夜食のうどんをつくり、優子はその力の入れ具合にあきれながらも、暖かさと優しさをからだにとりこんでいった。優子本人は否定していても、あきらかに森宮から与えられる食事がつくる優子の元気は形を変えながら発揮している。高校の進路希望で「食べ物関係」の仕事にいきたいとした優子がなぜそう考えたかは多くを語られないが、彼女は食事が人に与えるパワーを知っている。

 ところが、森宮がそもそも料理好きとか世話好きとかいうと、さにあらずなのである。冒頭のエピソードで、彼がこんなに料理をつくるようになったのはまさに優子を預かってからなのだ。彼は8年間でレパートリーを「驚異的」に増やした。この食事への執念は、彼の責任感と覚悟の表れなのである。優子が山本食堂に就職するようになると、わざわざ会社帰りにここで食事をするようにもなる。

 毎日かならず食事があるという安心感だけでなく(梨花との生活)、単に栄養バランスがよいというだけでもなく(泉ヶ谷家での生活)でもなく。毎日の元気と幸せそのものでなければならないというのが森宮のつくる料理だ。だから彼の料理にはメッセージ性があふれている。彼が出す食事は「家族」にしか出せないものばかりだ。(彼自身が幼少期のとき、実家の食事はつまらないものだったと言っている)

 もうひとつ。森宮が覚悟したことが「これ以上だいじな誰かが優子の元を離れるという経験をさせない」ということだった。梨花からこの話を持ち込まれたとき、おそらく森宮は気づいたんだろう。優子が持っているおだやかな優等生感。そこには「親」役の大人に多くを期待しない気持ちがある。ひいては他人に対して冷めた距離感がある(本人は世渡りが上手なほうだと思っているが級友からは世渡り下手と言われる)。優子は人生に不満がない。こんなもんだと思っている。諦観がある。それが他人に対していつも一歩引いた態度をとらせる。
 森宮は優子のその諦観を見抜いたのだろう。森宮は休日にひとりで出かけることもしないし、もちろん彼女もつくらない(つくれない?)。そもそもつくる気がない。梨花から話を持ち込まれたとき、彼が決心して腹をくくったのは、梨花の夫になることではなくて優子の父親になることだった。優子の決めることにほぼなにも反対しなかった森宮が優子の結婚相手の早瀬に反対したのが、彼が優子をひとり置いてイタリアやアメリカに飛び出してしまう風来坊タイプだったからだ。
 結婚の前夜に森宮は優子に言う。「いつでも帰っておいで。俺、引っ越さないし、死なないし、意地悪な継母とも結婚しないから」。 

 最終章の森宮のモノローグで、それが「覚悟」であったことが語られる。実際、彼はこれまでの優子の「親」と比べて、自分の父親としての資格に劣等感があった。血もつながっていない、小さいころも知らない、裕福でもない。彼にあったのは単に責任感と覚悟だけだ。だから、優子の結婚式で、他の「親」たちと会うのは気が重いし、優子とともにバージンロードを歩く役も自分のつもりではなかった。
 ついぞ優子からは「お父さん」と呼んでもらえず「森宮さん」だったのに、結婚式にて実父を前にして幼少期から何年もあっていないのにすぐに優子が「お父さん」と呼ぶのに忸怩たる思いもした。

 しかし、その後に優子に言われる。「お父さんやお母さんにパパやママ、どんな呼び名も森宮さんを超えられないよ。」

 優子の結婚式での森宮の心は「曇りのない透き通った幸福感」だった。「本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。」
 そう考えると、梨花から優子を預かったとき、彼もまた何がしかを信じて「自分の知らない大きな未来」という次の走区にむかって自らバトンを渡したのである。


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涼宮ハルヒの直観 (超ネタバレ)

2020年12月02日 | 小説・文芸

涼宮ハルヒの直観 (超ネタバレ)

谷川流
角川スニーカー文庫


 まさか新刊がでるとは思わなかったねえ。

 本ブログで、前巻「涼宮ハルヒの驚愕」をとりあげたのが2011年である。
 よく覚えている。東京駅の本屋で特設コーナーにうず高く「驚愕」の下巻が積まれていたのだ。

 僕はそれまでこの手のジャンルはまったく読んだことがなかった。まして、アニメ版があってこれがまたたいそう人気であるとか、独特のダンスがあって、秋葉原系の人がコスプレしてそれを踊っているというのは、なにかで見聞きはしていても自分の関心領域の外にある話だった。

 ところが、ハルヒの社会現象はそれに留まらず、ユリイカが特集を組んでいたり、筒井康隆が言及したりするようになった。どうも、ただのラノベではない。というわけでまずは第1巻の「涼宮ハルヒの憂鬱」を、その東京駅で買ってみたのである。

 ラノベであるから、その気になればほんの数時間で読みおえる。とはいえ、第1巻を読んだ時点ではなにがそこまで人を追い立てるのかまではわからなかった。テンションの高いハルヒに、宇宙人と未来人と超能力者と単なる人間が集まる、というドタコメで、だからなんだ、という感じである。なぜあのとき第1巻で読むのをやめなかったのかはわからない。

 ところが作者のバックボーンにあるSFの知識が次第に見え隠れするようになって、さまざまな伏線がはられるようになると、俄然のめりこむようになった。第4巻「涼宮ハルヒの消失」以降がやはり読みごたえあるが、作者のインタビューでは、第3巻の短編集「涼宮ハルヒの退屈」のなかに収められている「笹の葉ラプソディ」がターニングポイントらしい。たしかにこの短編での出来事が、このハルヒシリーズの世界観を決定している。つまり、作者は初めからこのシリーズ世界を構想して描いていたのではなく、「笹の葉ラプソディ」にたどり着いたことで、その後のブレイクスルーが可能になったといえる。

 なんてことは、僕なんかよりずっとずっとハルヒシリーズのことに通じている人からは当然の知識なんだろうと思う。とにかくハルヒシリーズは、アニメやコミック化や他の登場人物のスピンオフなど、とにかくマーケットの拡大を続けた。僕はこの角川スニーカー文庫から出ている全11巻だけが頼りで、他のコンテンツに接していないので、まったくの低関与者であろう。

 というわけで、11冊目の「涼宮ハルヒの驚愕」(下巻)までいっきに読み終えたのだが、そこから9年が経ったわけだ。

 

 さすがに忘れてる。とくに「驚愕」あたりは得体のしれない登場人物がわんさと出てきて時空間入り乱れてなんだかわからなくなったという印象が強く、今となってはどんな事件があって誰がどうしたのかもう全然覚えていない。

 なので、9年ぶりに新刊が出るというので、それはなにがなんでも読まねばということで購入したものの、鶴屋さんの裏山に出てきた金属棒って何だっけとか、雪山山荘の出来事ってなんだったっけというくらいの忘却ぶりである。長門がとにかく超絶的な存在だったことはもちろん覚えていたが、古泉がなにゆえに超能力者でどんな機関に所属していたのかなんてのはけっこう忘れている。まして未来人みくるがなぜ現在にいるのかも実は覚えていない。しょせんそれくらいの記憶である。

 まあ、それでも楽しめた。ここからは超ネタバレである。本巻「涼宮ハルヒの直観」は、短編と中編と長編がひとつずつ収められている。最重要なのは長編「鶴屋さんの挑戦」ということになろうか。この「鶴屋さんの挑戦」自体が、3つの短編・中編・長編のエピソードで構成されていて、全体でひとつの本格ミステリものになっている。

 「鶴屋さんの挑戦」はとにかく思わせぶりな記述が多く、僕も油断せずに気をつけながら読んでいった。(堂々と叙述トリックであると宣言しているのだ)ある程度の違和感は僕もすぐにわかったし、本巻で登場するTという通称の交換留学生がただの道化のわけはなく、どこかで真相に絡むとは思っていたが、そういうメタ的な推理の仕方は邪道ではないか、とキョンに指摘されるなど、なかなか機先を制される仕掛けにはなっている。実際にこの種明かしはそれなりに予想外のものではあった。

 ただ、僕はこの「鶴屋さんの挑戦」の構成が、短編・中編・長編のエピソードで成り立っていて、そこに実は謎もヒントもぶちこめられているというところからして、実は、この「涼宮ハルヒの直観」自体が短編「あてずっぽナンバーズ」中編「七不思議オーバータイム」長編「鶴屋さんの挑戦」から成り立っていることから、他の2編がこの最終長編に何かしら伏線となっていたのではないかというのを疑っているのだ。中編「七不思議オーバータイム」は、Tという交換留学生を初登場させて彼女の基礎情報を与える機能を持ってはいるが、それ以外に何かがしこまれているんじゃないかとみている。とはいうものの、その謎が何かというのは実は見つかっていない。最初の短編「あてずっぽナンバーズ」に至ってはまったく無関係に思える。

 だけど、やはり本当はなにか伏線があるんじゃないかとにらんでいるのである。そんなことは作者も言ってないし、長編「鶴屋さんの挑戦」はこれだけで完結している。

 なのだけど、鶴屋さんが最後に「あたしに言っとくことないかな?」とふっかけてきたように、どうも僕はなにか鶴屋さんの挑戦」には解決してない謎を残しているような「もやっ」とした気分があるのである。これは完全に僕の「勘」である。で、その解決していない何かは、実は短編「あてずっぽナンバーズ」と中編「七不思議オーバータイム」に伏線があり、作者の谷川流がイースターエッグのように仕込んでいると疑っているのである。いったいなんだろう?


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イダジョ! (ネタバレ)

2020年11月16日 | 小説・文芸

イダジョ! (ネタバレ)

史夏ゆみ
角川春樹出版事務所

 

 お堅い本が続いたので息抜きにチョイス。

 イダジョというのは医大生女子のこと。主人公安月美南が、某私立医科大学に入学してから卒業するまでの6年間と、地方の病院に研修医として修業する2年間までのお話である。全2冊。

 あくまでエンターテイメント小説なのであって、迫真に迫る医療現場の最前線とか、医大の暗部とかそういうのはない。いきなりネタバレかますが、2巻目の研修医編で美南はシングルマザーになってしまうのだが、育児の大変さがクローズアップされているわけでもない。
 どちらかといえば、恋愛要素強めの小説ともいえるが、そのわりにドロドロのぐちゃぐちゃがあるわけでもない。日曜日の夜9時に始まる地上波のテレビドラマのノリである。著者はもともとシナリオライターのようである。

 そんなコンセプトの小説なので肩ひじ張らずに楽しめばよいのだが、とはいえ、思うのは2018年の一連の医大の女子入試差別事件だ。この問題はけっこう根深くて、医者の需要と供給の問題、女性のライフステージの問題、入試制度そのものの問題などが絡み合った遠景がある。
 簡単にいうと、医者になるために必要なキャリアおよび諸条件と、女性が結婚して子供を産んで育てるためのステップがかみ合いにくいのだ。

 そのあたりはこの小説の「研修医編」のほうでとくにはっきりとわかる。

 主人公の美南は、比較的恵まれているほうとはいえるだろう。もちろん、この小説でも、女性の医者に対する偏見やセクハラも出てくる。嫌な奴も出てくる。恋のライバルも登場する。蘇生処置が間に合わなかったり、患者の兆候を見逃すような悔しい出来事もいっぱいする。父親の失職で学費の目途がたたなくなったりするハプニングもある。そもそも親が医者でない、というのはこの業界にあってはハンデのひとつではあるようだ。
 とはいえ、美南はおおむね手先は器用だし(挿管が苦手というトラウマもあるが)、体力もあるし、そこそこコミュニケーション力もあるし、学友にも同僚にも上司にも教授にも恵まれているし、生まれた子どもは健康でトラブルを抱えていないし、保育園も近くにあるし、何よりもゲットした事実婚の彼氏がスーパーマン級である。ゲームならばこれでもイージーモードなんだろうと思う。

 そんな好条件をそろえていながらも、医者になるための仕組みや日本の結婚制度の前には、ここまでの試行錯誤がいるということである。

 

 であるならば、現実の女医さんの辛苦たるやいかにと思う。 

 高校生時代、僕の隣の席に座っていたひとりの女子を思い出す。

 彼女は、医学部を目指していた。医者を目指すような人はそもそも実家が医院だったりする場合がほとんどだ。しかし、彼女は違った。それどころか、ご家庭はやや複雑であった。
 高校生時代の僕はどちらかというとおくてでそんなに女子と会話をするような生徒ではなかったが、席の位置の関係もあって彼女とはそこそこ話をすることもあった。

 彼女は見事に某医大に現役合格した。その後、たまに同窓会で会ったり年賀状で近況をやりとりするくらいの関係だったが、やがて国家医師試験に合格し、九州の病院に赴任した(そのときはよくわからなかったが、それが「研修医」だったのだとわかったのはこの小説を読んでからである)。その後また違う病院に赴任していたような気がする。やがて音信不通になった。人づてに、結婚したとか、離婚したとか、再婚したとか、子どもが生まれたとか聞いた。

 コロナ禍になる直前、久しぶりに集まる機会があり、彼女もやってきた。

 都内の病院で内科の勤務医をやっていた。もうベテランである。

 高校生の時から明るくひょうひょうとしていて誰とも分け隔てなく話ができる人だった(だから僕も話ができたのだ)。あまり苦労や苦渋というものを表に出さない人だった。ぼくも、医者の世界というものにまったく無頓着だったので、彼女の歩んできた人生にはちっとも想像が及んでおらず、そのときはたんにへえ、っと関心しただけだった。

 この小説を読んで実は彼女の人生は波乱万丈の極みだったんではないか、という気がしてきた。つぎに会う機会があったら労いのひとことでも言わねば。

 


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トラペジウム (ネタばれ)

2020年06月04日 | 小説・文芸
トラペジウム (ネタばれ)

高山一実
KADOKAWA


 実はぼくアイドル業界よくわかっていない。ぼくの世代だとアイドルといえば80年代であった。そのころは各局で歌番組がけっこうあって、家族で見ていたものだ。

 このコロナ禍でテレビをみる時間が増えた。テレビ局のほうもスケジュールがぽっかりあいたアーティストたちによる緊急の歌番組があいついだことによって、毎日のように坂道シリーズやジャニーズをテレビで見るようになった。ジャニーズのグループがこんなにたくさんあることをはじめて知ったくらい僕はおじさんである。しばらく疎かった芸能界の状況をひさびさに更新したのであった。
 中でも乃木坂46はやたらにテレビに出ていた。センターの白石麻衣がグループ卒業カウントダウン中だったからだ。僕は乃木坂についてはそういうグループがあるくらいの知識しか持っておらず、ましてやメンバー個別個別が見分けられるほどには程遠かった。今回各局の歌番組を渡り歩くようにみてなるほどこれが乃木坂か、なんて思ったのである。マウスコンピューターのCMに出ていた女性たちは乃木坂だったのかなんて初めて気づくオチである。
 ちなみに、日向坂というのがあるのもこのコロナ禍でテレビを見て知ったのだった。

 というわけで、アイドル本人がアイドルをテーマに小説を書く。こういうのは貴重性が高い。新刊が出た時点で書店でも平積みになっていて大いに気にはなっていったが、先ごろ文庫化されたので読んでみることにした。主人公である女子高生の東ゆうが仲間を集めてアイドルを目指す物語である。

 しかしまあ。読んでいて思ったのは、この主人公のラジカルさというか批判的というか意地が悪いというか。主人公のキャラ設定がそうなのか、作者である高山一実がそうなのか、アイドルとはこれくらいの抜け目なさが必要ということなのか、この年代の女子が一般にそうなのか。はたまた女性とはそういう世界なのか。
 とにかく東ゆうが仲間にむける目線が容赦ない。表面上で仲良く調子をあわせながら、一挙手一投足がすべて批評と批判として消化されている。髪型、まつげのむき、小物アイテムのセンス、袖丈の長さ、爪先の清潔さ。さらには口のきき方、目線の飛ばし方。仲間たちだけではない。ボランティアの爺さんから、スタジオの受付嬢まですべて容赦ないのである。
 そしてとても周到である。デビュー後のことを考えて男の影をつくらない。男と一緒に写真にうつらない。SNSをやらない。デビュー前のエピソードづくりに余念がなく、ボランティアのアルバイトをしておく。

 まあ、女子アイドルグループが生き馬の目を抜く世界であろうことは想像にかたくないが、小説とはいえご本人からこんなにあっけらかんと告白されるとやはり迫力が違う。一斉に同じ衣装つけてにこやかに同じダンスを踊りながら、その仮面の下でどのような値踏みと目論見が交わされているのか思うと、歌番組をみる目線も変わってくるものである。


 ただ、何よりも大事なのは行動力だということはよくわかる。夢をかなえるならば、アイドルになりたいならば、常人を超えた行動力しかない。東ゆうが最後まで手離さなかったのはこの行動力だし、ということは高山一実がそこに大きな自負と気概があるのだろうとは察せられる。若さとはすばらしい。

 それから、この小説ではひとつ大事なことに触れられている。「アイドルになる」のと「アイドルを続ける」のは違う才能とエネルギーを要するということだ。そして後者こそがハードなのである。ネタばれすると主人公以外の仲間は早々にアイドルを離脱する。小説の9割を経てようやくアイドルになったと思ったら、早々に3人は脱落するのである。それまでのエピソードの長さに比して、この3人の脱落はあまりにもあっけないが生半可な覚悟と根性ではアイドルはできない、というメッセージがこの小説からは見えてくる。

 なんて読んでいたところで、渡辺麻友が芸能界引退のニュース。ひとつのスポットライトのうらに100の辛苦があるのがアイドル業だろう。幸あれと願うばかりだ。
 

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アルケミスト 夢を旅した少年 (ネタバレなし)

2020年04月18日 | 小説・文芸

アルケミスト 夢を旅した少年 (ネタバレなし)

パウロ・コエーリョ 訳:山川紘矢・山川亜希子
KADOKAWA


 カテゴリーとしては小説あるいは児童文学だが、自己啓発書として取り上げられることが多い「アルケミスト」。存在は知っていたもののなんとなく敬遠していたのだが、最近読んだ本で立て続けに紹介されたので、在宅のお供として読んでみた。


 ポイントは「前兆」と「勇気」だ。

 人生を充実と幸福に至らせるために必要なことは、「前兆」を感じとり、そして「勇気」をもってその道を進むということである。

 「前兆」というのは、人生のシフトチェンジになりそうな様々な気配である。実はこれは案外に感じ取れる。問題は、そこに飛び込む「勇気」だ。ここに我々は、そこに「飛び込まなくてよい理由」を10も100も並べるのである。または「前兆」であることに本当は気が付きつつ、気が付かないふりをする。
 とくにこの小説では、「飛び込まなくてよい理由」に、“今持っているものを捨てなくてはならない”ことが多くを占めることを指している。主人公の少年の最初の逡巡がそうであり、クリスタル売りの親父がそうである。これらは行動経済学的にいうところの「サンクコスト」というやつだ。あるいは「現状維持バイアス」である。

 “飛び込めない”ままひたすら、僥倖を待つだけで何もおきないまま人生を終えてしまう衝撃的小説が「タタール人の砂漠」だ。このアルケミストも「砂漠」は重要な舞台である。西洋にとって「砂漠」というのは大いなる人生舞台のメタファであるようだ。

 砂漠というのは一つの生存と百の死があるとみなしたのは、鈴木秀夫の「森林の思想砂漠の思想」だ。つまり砂漠という世界は適切な判断をしていかないとあっという間に死に至る(それに比べて、森林というのは右へ行っても左へいってもなんらか生存に資するものが見つかる)。「森林の思想砂漠の思想」ではこの厳しさが一神教(つまり正解はひとつ、あとは全部まちがい)という思想形成の母体になった。

 したがって、砂漠で生きていくためには「前兆」を感じ取る能力と、その前兆を信じて行動する「勇気」が求められる。そうでなければ死を招くのだ。


 なーんてことは、百も承知で、それでも“飛び込めない”んだよな、おれってやつあ。

 凡夫たるぼくは、いざ飛び込むときのリスクと、飛び込まないときのリスクを考えてしまう。この小説でも指摘されているように飛び込んで「失敗」したときのダメージを考えてしまうのである。これの背中を押すには、「飛び込まないで済ませたときのリスク」のほうがヤバいことをリアリティをもってせまるしかない。しかし、あまりにリアリティが目前にせまったときはそれはもうリスクではなくてクライシスであるから、手遅れである。「アルケミスト」ではクリスタル屋の親父が「恵みを無視すると、それが災いになる」とつぶやく。

 つまり、この世界は思っているよりもずっと「砂漠」なのだという認識にたったほうがよいということだ。捨てる神あれば拾う神あり、いつか誰かが何かしてくれる、どの方面を選んで進んでもなんとかなる、という森林の思想・多神教の世界観(個人的にはぼくはこの世界観は大好きだが)をもう少し厳しめにみたほうがよいのだろう。VUCAの時代などと言われ、そのリスクの中に「世界規模の感染症のリスク」があることはずっと以前から指摘されていたにも関わらず、世界中がこのパニックである。動かねば死のみか。

 主人公の少年を導く錬金術師は「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだ」と諭す。そして、「前兆」を感じて「勇気」をもって踏み込めば、全宇宙がそれに味方する、という思想をくりかえし登場させる。この意味は必ず成功するということではなくて、死の際に自分の人生をふりかえって満足できる生き様だったと思えるということだ。成功=幸福でない、というのもこの小説が示すもうひとつの人生観である。やった後悔よりやらずの後悔、という言い方もあってこれはその通りだとしみじみ思う。

 いずれにしても、コロナ禍によって、人生も仕事も試されている。動けるところは動いて、へんな後悔だけはしないようにしなければなあなどと思う次第である。


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ペスト (ネタバレ)

2020年04月05日 | 小説・文芸

ペスト (ネタバレ)

アルバート・カミュ 訳:宮崎嶺雄
新潮社


 世界中が大変なことになって。で、本書がたいそう売れているそうなのである。

 この小説は、ペストによって封鎖された街を描いている。とはいっても、文学的に表わしていることは抑圧と不条理にさらされた人間というもっと抽象レベルのものであるが、とはいえ、いま現在の特殊な状況下でこの小説を読むことは、平時とはかなり異なる読書体験ではあった。

 

 この小説は、フランスの植民地であったアフリカはアルジェリアのオランという港町を舞台にしている。この町にペストが流行し、町が封鎖されてしまい、市民は市外に出れなくなってしまう。もちろん外部の人間が市内に入ることもできない。閉ざされた街中でペストが猛威をふるう。町の封鎖は10か月に及ぶ。

 主人公は、この町の医師リウーということになるが、小説を全体的に眺めればこれは群像劇といってよい。様々な特徴的な人物が登場する。第2の主人公と言えるのは物語の途中まで正体が謎の、やがて苦悩の過去を持つことが判明するタルーだ。さらに、生きることに不器用な下級役人のグラン、信仰の自縄自縛に苦しむパヌルー神父、虚栄心がセルフコントロールできないコタール、たまたま取材にこの町にやってきてそのまま出れなくなった新聞記者ランベール等等が、この閉ざされた町でうごめく。したがって誰に感情移入するも自由である。凡夫な僕は、リウーの透徹した精神に敬服はしても、実際に気持ちがシンクロするのは、突然降ってわいた不条理に抗おうと利己主義に走るランベールあたりだ。

 10か月にわたってオランの町は封鎖されるが、だからといってこの10か月の間にドラマチックにさまざまな事件が起こってオランの町が北斗の拳の世界のようになるとかそんなことはない。この小説はフィクションだけれど、かなりのリアリズムが意識されていて、パンデミックによって封鎖された町の日常というのは徹底的に単調なのだということを見抜いている。このあたり、まさに今現実にわれわれは目の当たりにしている。

 つまり、この「ペスト」という小説の主題は、ペストによるパニックのあれこれではなく、登場人物たちの「心」の推移にある。登場人物だけではない。オランの市民すべての感情の推移こそ、がこの小説の見どころだ。10か月にわたる封鎖下で、鬱々と感染者データだけが増え、淡々と一日が過ぎていく。それが人々の気持ちをむしばんでいく。


 で、僕はこの「ペスト」を読みながら、一方で現実の「コロナ」のさなかにありながら思ったのは、この気持ちはキューブラー・ロスの「死の受容」プロセスそのものではないかということなのである。

 キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」は、自分が死ぬとわかったときに人はどのような感情の推移をたどるか、ということを考察した名著だ。この本で挙げられる「死の受容」プロセスが偉大なのは、単に「死」ということではなく、「人が、あまりにも受け入れがたい現実をつきつけられたときにとる態度の推移」にまで敷衍できる内容だからだ。子どもの非行、老親の痴ほう、自らの老い、などすべてにあてはまる。

 そのプロセスは「否定」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」というものである。

 この小説「ペスト」においては、オランの人々は、まずは「これはたいした病気じゃない」とか「自分は感染しない」という態度をとる。これが「否定」である。やがて、その否定が効かなくなると、行政の不首尾や、町の外に出してもらえない不条理への「怒り」となる。そして「裏ルート」探しや、あるいは神父の教えや民間の占いなどで難を逃れようとする「取引」へと至り、そのいずれも効かないとなると、みな「抑うつ」になる。他人への同情も、いつかは門が開くという期待もしなくなる。日々の生活がなげやりになっていく。
 しかし、何人かの人物がこの現実を是とした上で自分が何をするのが幸福かという動きに出るようになる。「受容」である。

 このプロセスにかかる速度は人それぞれである。
 医師リウーは、超人的といってよい透徹さでほぼ中間がないがごとく「受容」に到達している。それは彼の「医者」という立場と、市民のほぼすべてを診てきたことによる特殊な客観性によると本人自身が述懐している。また、それがこの小説の立脚の根拠となっている。
 タルーは自らに課したアジェンダーー人は不条理に抗う責任があるというーーが大きすぎて「受容」に至る前、悪戦苦闘の「取引」あたりの段階で、自らがペストに感染して亡くなってしまった。
 パヌルー神父は、一度はこの災禍を神の恩寵の一環として「否定」するが、少年の壮絶な死を目の当たりにして「抑うつ」のステータスになる。逡巡の末にやがて彼は「受け入れがたいが受け入れるべきなのだ」という「受容」の域に達するが、一方で「聖者が医者に診てもらうことの矛盾」を克服することができず、いわば「受容」半ばにして感染して亡くなる。
 新聞記者ランベールは、市街への脱出という「取引」にもがき、あまりのうまくいかなさに「抑うつ」のステータスになっていくが、「自分一人が幸福になるということは恥ずべきことかもしれない」という心境に達し、このオランの町の境遇を「受容」して、リウーらと行動をともにするようになる。ペストが収束し、ランベールが最後に恋人と再会するところは、本書「ペスト」において唯一ドラマツルギーと言えるところだろう。

 

 そして思うのは、いま僕らがこの「コロナ」に対して思う気持ちもこの「死の受容」のプロセスをたどるのではないかということだ。社会心理としても僕個人の気持ちとしても。
 あれは一部の人しか重篤にかからず、多くの人は無症や軽症で済むという「否定」、当初西洋諸国に見られたあれはアジアのほうで起こる病で西洋は関係ないという「否定」。政治が悪い、中国が悪い、買い占める老人が悪い、出歩く若者が悪いという「怒り」。BCGが効くのかもしれない、家の中にいれば大丈夫という「取引」。オリンピックを来年の7月なら大丈夫だろうという打算も「取引」の一種だ。そしてこの閉塞感が「コロナ鬱」に至るのは時間の問題だ。

 僕個人としても「否定」から入った。「大騒ぎしているけどあれは、要するに「風邪」なんじゃないの?」という感覚から入った。そして、あんなに外国人観光客を受け入れるようにしたからだ、とか成田の検疫はザルだとかという「怒り」になった。桜が咲き始めると、これくらいなら外に遊びに行っても大丈夫だろうとか、いろいろコロナについて調べてみたりと「取引」にいそしむ。そしてコロナ疲れ、自粛疲れを自覚している。「抑うつ」なんだと思う。

 大事なことははやく「受容」に到達することなのだ。「受容」しなければ心は病んでいくのである。「受容」以外にこれに打ち勝つ精神状態はないのだ。しかし「受容」に至るには、「否定」「怒り」「取引」「抑うつ」を経由しないと辿り着かない。ならば、意識して、前4段階をさっさと突破し、「受容」の境地に至らなければならない。そうしなければ、体より前に心が負ける。

 この「ペスト」では、オランが閉鎖されたのは10か月間だ。「10か月」というのはそれなりのリアリティな重みがある。
 武漢で騒がれだしたのが1月中旬、日本や韓国での感染が騒がれだしたのが2月。そして3月に世界的なロックダウン。ここまでまだ3か月である。京都大学の山中教授も「長期戦」を指摘していたが、大事にしなければならないのは我々の「心」である。感染対策ももちろんだが、我々は「長期戦」を見込んで自分の心のコントロールもしなければならない。「怒り」や「取引」や「抑うつ」でうろうろしている場合ではない。はやく「受容」の心境に到達しなくてはならないのである。

 


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キップをなくして (ネタバレ)

2019年08月11日 | 小説・文芸

キップをなくして (ネタバレ)

池澤夏樹
KADOKAWA

 

 スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーがおすすめしていたので読んでみた。小中学生あたりの読書本としては有名らしくって、中学生の長女はこの本のことを知っていた。図書室にもあるという。

 刊行は2005年だが、物語の舞台は1987年頃である。この物語は、その時代の東京の鉄道事情がわんさか出てくる。今から20年近く前だから、いまの小中学生にはわけのわからないところも多いのではないか。青函連絡船とか寝台特急とか。

 その最たるものが駅の改札口だ。

 大人がさんざん口にしてきただろうから、たいていの子どもは聞いたことがあるにちがいないが、ほんの少し前までは改札口には人が立っていて、駅に入場するときは乗客が渡す切符1枚1枚に鋏をいれていた。地方のローカル鉄道などではまだ見ることがあると言われている。ラッシュ時の新宿駅の改札口はものすごいことなるが、ほぼ流れをとめずに改札係はさばいていた。あまりの大量の切符を相手にするので、新宿駅の鋏は数日で使い物にならなくなったという。

 駅から出るときは、切符を改札係に渡して外にでる。

 切符をなくすと、その改札口を通れなくなる。

 子ども時代、ぼくも何回か、改札口からいざ外に出ようとしてポケットから切符が出てこず、真っ青になった覚えがある。切符がなければ、この改札係のおじさんは僕を外に出してくれない。

 たいていの場合は、どこからか切符は出てくるのだが、この改札係のオジサンたちには不思議な威圧感があった。

 もっとも関西地方では自動改札機はずっと前から導入されていた。僕は幼少の頃は大阪に住んでいたのでおぼろげながら当時の関西の自動改札機の記憶がある。とにかく幼少期なので背が低いから、ハッチが目の前の高さで開閉する。目前で樹脂製の扉がバタンバタンいうので通り過ぎる前に閉まって顔面にぶちあたったり、弾き飛ばされたらどうしようと恐怖のゲートだった。毎回、高速で駆け抜けていた。

 つまり、子どもにとって改札口というのは、いわば日常と異界の境目を成す門なのであり、改札口のむこうの世界というのは鉄道というワンダーランドだった。

 

 この「キップをなくして」は、このワンダーランドに入りこんだ少年イタル君の物語だ。イタル君は切符をなくして改札口を出られず、東京駅の「駅の子」になる。そこには同じように改札口を出れなかった仲間たちがいる。この物語は、あたかも「千と千尋の神隠し」にでもあるような少年少女の成長の物語である。異界とイニシエーション、生と死、多様性の相克の物語がある。鈴木敏夫がアニメにしたい、という気もわかる。

 で、僕はずっと黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」に似ているなあと思いながら読んできた。かたやファンタジー小説かたや自伝だから本来的には全然違うわけだが、多様な子どもたちが登場し、彼らが毎話毎話この閉ざされた社会でなにかを織りなすこの感じは、「窓ぎわのトットちゃん」が通うトモエ学園みたいだなという印象がずっとぬぐえなかったのである。

 トモエ学園に集まる生徒たちがトットちゃん始めなにかいろいろワケありなのと同様に、「キップをなくして」の駅の子たちもどことなくワケありなところが見え隠れする。その最たるものは「死んでいる」ミンちゃんだろうが、定期をなくしたタカギタミオも、学校に行かないフクシマケンもなにか事情がありそうだし、ガムが好きな年長のフタバコさんも、妙にクラシックな遊びしかしない泉と緑と馨も、行間からなんとなくワケありに見える。そして「駅の子はみんなでみんなを教えあう」というところに、はみでてしまった子供たちの社会学校としてのこのワンダーランドをみる。

 トモエ学園の校長先生がそうであったように、子どもたちをやさしく采配していくのが「東京駅長」である。

   学校むけの読書感想文を書くとすれば、イタル君とミンちゃん以外の登場人物にフォーカスしてみるのも手だろう。フタバコさんなんかは掘りがいがありそうだ。

 

 「窓ぎわのトットちゃん」にも「キップをなくして」にも共通するのが、子供たちのなんとはなしの悲壮な影と、それを覆いかくそうとする明るいテンションとのギャップだ。「窓ぎわのトットちゃん」は終盤で戦争に巻き込まれるために本格的に悲劇となっていくが、それ以前の日常にも、どこかちょっと悲しさや寂しさがつきまとっていた。それと同じ空気をこの「キップをなくして」にも感じられる。本当は家に帰れるのに帰らないとなってからはいよいよそれを感じる。

 そんな彼らが最後にむきあうのは命とは何か、生きていくとは何かという命題である。これはたいへん難しい問いだが、本小説ではそれを、充分にこの人生を味わいきったかということに集約させている。味わいきるというのは単に楽しんだということだけではない。喜怒哀楽をやりつくすということだ。無為な毎日ではなく、感興が動く毎日だ。感興が動くならばどんな人生でもその人は生を味わっていると言えるだろう。その人生を味わいきったと言えるだろう。

  幼くして不慮の死を遂げたミンちゃんはやがて昇天し、「駅の子」たちはここに至って解散となり、みな自宅へ帰っていく。本小説の主題はこれであって、駅や鉄道というのは副次的なものに過ぎないとさえ言える。

 そういや、トモエ学園も電車を教室にしていたな。子どもたちにとって鉄道というのは、物理的にだけでなく、心も今のこの場所からどこかへ連れていくものだったのかもしれない。


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家康、江戸を建てる

2019年08月09日 | 小説・文芸

家康、江戸を建てる

門井慶喜
祥伝社

 

 天下分け目の関ケ原の戦いが西暦1600年であることはよく知られている。また、江戸幕府の開幕が1603年であることも有名な区切りである。

 しかし、だからといって1603年に突如江戸の街が現れたわけではない。

 

 江戸の地に徳川家康が入ったのは西暦1590年である。いまの東海地方を中心とする駿府の五ヶ国を領地としていた徳川家が、豊臣秀吉によって関東八ヶ国と国替えとなった。このころは江戸という場所は素寒貧とした漁村でしかなかった。

 徳川家を江戸にうつしたのは、秀吉の企みであったことは確かだ。しかし、この企みの結果が現代日本にまで影響したことになる。未来においてこの地が世界都市TOKYOになるなどとはいかに秀吉も想像していなかっただろう。

 徳川家康がただ者ではないのは、この「江戸」という都市をこの世の中に出現させたことである。

 家康が関東八ヶ国へと国替えにしたがった際、どこを拠点にするかという判断がまずあったはずだ。秀吉が江戸を指定したという説もあるが、そうだとすればかなり露骨な嫌がらせだろう。これまでの関東の歴史を振り返るならば、小田原、鎌倉、古河あたりが無難なところだろう。この小説では家康自らが江戸を選んだと語っているが、とにかく1590年の時点で江戸の都市づくりがスタートしたのである。ろくな水も出ない土地であった。

 徳川家はこの時点ではまだ安泰ではない。1600年の関ケ原の合戦に勝利することで天下の多くを味方につけたとは言え、この時点では太閤の豊臣家はまだ存在する。豊臣家が滅びるのは1615年の大坂夏の陣を待たなければならない。

 つまり、1590年に江戸に入ってから1615年に豊臣家が滅びるまでの25年、徳川家は内政にうつつを抜かすわけにはいかなかったのである。

 そのあたりの事情すなわち関ケ原の戦いや大坂の陣を描いた歴史小説や時代小説はたくさんある。司馬遼太郎も池波正太郎も書いている。

 しかし、このような戦国時代末期の戦いが行われた同時期に、一方では江戸の都市開発が文官の手によって行われていた。それがこの小説である。この小説には血なまぐさい戦闘はほとんど出てこない。出てくるのは、治水(利根川東遷)、貨幣の鋳造、上水道の整備(神田上水)、石垣の調達、そして天守閣の建造である。地味といえば地味で、およそ歴史小説のテーマになりにくいものばかりだが、これらこそは社会インフラそのものである。

 繰り返すが徳川家康がただ者でないのは、江戸という必ずしも恵まれていない土地事情のこの地の都市インフラ整備に、しっかりと人と時間と金を費やしたことだ。その工事の着実さこそが大江戸260年を経て明治維新後もこの地を大都市として可能にし、現代に至らせていることである。

 

 小判や石垣の話も面白いが、やはり利根川の治水と、神田上水の利水の話が壮大だ。とくに伊奈家四代に渡る利根川の東遷事業はもっと語られていいかに思うのだが、歴史の教科書でもあまり目立つ書かれ方をしていない。同時代の政治史では大坂の陣、島原天草の乱、由比正雪の乱、赤穂事件あたりのほうがずっと有名だが、後世への影響という点では、利根川東遷事業のインパクトはずっとずっと大きい。利根川東遷事業がなければ、関東地方の地理地勢はまったく違ったものになっていただろう。それどころか、関東地方に近代社会は訪れなかったかもしれない。


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カゲロボ (ネタバレしてないような、でもネタバレ)

2019年06月12日 | 小説・文芸

カゲロボ (ネタバレしてないような、でもネタバレ)

 

木皿泉

新潮社

 

なんとなく「世にも奇妙な物語」っぽい雰囲気を醸し出した連作小説だ。どの話にも、なんか機械仕掛けめいた不思議なやからが登場する。その不思議なやからが登場人物の心を救う。よどんだ心を浄化させる。

 

この世の中というのは不条理で理不尽なことに満ちている。

 

実は世界は公平ではない。何の罪のない善良な市民がたまたまのめぐりあわせで凶悪な事件に巻き込まれたりする。そんな事件の報道を聞くたびにこの世には神も仏もないのかと思う。

そんな理不尽に我々は耐えられない。なんとかして事件の被害者や被害にあった理由に因果を見つけようとする。もともと素行の悪い奴だった、警戒心に欠ける奴だった、悪どくお金儲けをする人だった、などの物語を見つけようとする。これを世界公正仮説という。因果応報みたいな見立てだが、ときとしてこれは暴力にもなる。被害者にはなにか被害にあうだけの理由があったのだ、ということを見込み捜査的に思い込もうとするからだ。たとえば被害者が実は風俗で働いていたとか、前科があったとか、日本人ではなかったとか、そういうことを暴き立てる。「だから被害者はあんな被害にあったのだ」と思おうとする。自分とは違う生い立ちであることを見つけて安心する。自分はあんな被害にあわないと思えるからである。

ワイドショーでさんざんにとりあげられながら実はまったくのデマだった例もある。

 

なんの落ち度もない人がある日事件や事故に巻き込まれることがある一方で、悪いことをするやつがなんの罰も報いも得ずに済んでしまう理不尽もある。近所の住人から歴史上の人物まで、この例はかなりたくさんある。

そして。こんなにがんばったのに、気をつかったのに、誰もわかってくれない。気づいてくれない。評価してくれない。そんな理不尽もまたたくさんあるだろう。

この世の中はちっとも公平ではないのだ。

 

そんな理不尽に、昔の人はこう言って慰めたり、戒めたりした。

「誰も見てなくても、お天道さま(おてんとさま)はあなたのことを見ている。」

 

生きていく上で私たちの心は常に清らかではない。濁りのようなもの、闇のようなものがふっと降りてきたり、あるいはじくじくと溜まってくることだってある。後戻りできないくらいの戦慄的な思考にとらわれてしまうことだってあるだろう。覚えのない言いがかりにどうしようもない哀しみをみることもあるだろう。

でも、お天道さまはあなたのことをみている。理不尽も不条理も、それに翻弄されるあなたも、お天道さまはちゃんと見ている。だから大丈夫、なるようになるから。決してお天道さまに顔向けできないことだけはしてはいけない。

 

長らく忘れていた「お天道さま」だが、ぼくがこの小説読みながら、真っ先に思い出したのはこれだった。

本当にお天道さまが見ていてくれたら。どんなに私たちの心は救われるだろう。

だけれど、案外に「お天道さま」は馬鹿にならないんじゃないかと思う。世阿弥に「離見の見」というのがあるが、自分が何をしているかを遠巻きにみるもう一人の自分というものを意識すると、人はそうやけっぱちにならず、おだやかになれるのではないか。自分がやった良いことも悪いことも、他人はわからなくても自分はわかっている。嘘をついたことは他人は騙せても自分は騙せない。あの時逃げたことは誰も知らないけれど自分は知っている。誰も見てなかったけれど、あのとき私はちゃんとやったことを私は知っている。

自分で自分を知ることが、自制と自信と自愛への第一歩である。

お天道さまというのは、もうひとりの自分でもあるだろう。お天道さまがみるということは、自分で自分を大事に見るということである。カゲロボも機械仕掛けのやからも、お天道さまなのである。

 


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ひと (ネタバレ)

2019年05月22日 | 小説・文芸

ひと (ネタバレ)

 

小野寺史宜

祥伝社

 

 

「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら・・」というのは小田和正の名曲「ラブストーリーは突然に」だが、ラブストーリーに限らず、われわれの人生というのはそういうものの積み重ねでできている。

これを「縁」という。

「縁」という字は、「ふち」という意味と「えにし」という意味が込められているが、なにかの「ふち」は、別の何かとの接点でもあるから、新たな「えにし」を得るには「ふち」に寄ろうとする勇気がいる。

つまり、自分のよく知っている世界の真ん中で愛を叫んでいても「えにし」は得られない。「ふち」のほうまで出向いて別のなにかに接点を持たない限り、「えにし」にはならない。真ん中に座り込んで、だまって向こうからやってくる「えにし」を待っていてもなかなかやってこないのである。辺境に出向かなくてはならないのである。

「犬も歩けば棒にあたる」ということわざがある。

このことわざは、2つの意味合いがある。元来は「中でじっとしていればいいのに外をうろつくから余計な災難にあうのだ」というものであったが、のちに「中でじっとしている限り事態はよくもわるくもならないが、外に出ればいい巡り合いに当たる」という意味合いが加わった。後者は、論理的には「悪い巡り合いだって当たるかもしれないじゃないか」となるかもしれないが、少なくとも「中でじっとしている限り、事態は変わらない」のである。

むしろここで気を付けなければならないのは、「事態は変わらない」というもののほとんどは長い目でみると「事態を悪くする」ということである。何もしない時間の経過は、モノゴトを劣化させる。エントロピー拡大の法則で、状況はカオスになり、修復が困難になる。世の中というのは流動的で変化していくものだから、「中でじっとしている」すなわち「停滞している」ものは相対的に遅れをとってしまうのである。今風にいうと「こじらせる」ということになる。

したがって、リスクはあるかもしれないが、安住の真ん中から動いて、ちょっと「ふち」にいってみる。

やらないリスクよりやるリスクのほうが実は安全度が高いというリスク学の考えがある。やらないことで確実にリスクが高まることがわかっているのならそれはリスクではなくてもはやクライシスということになるから、それならばやるリスクのほうが生存率が高い。

一般的には我々の生活は人間社会なので、「えにし」は必要なのである。えにしのない生活ほど人間社会においてリスクはない。孤独が危ないというのはそういうことだ。

 

という禅問答のようなことを繰り広げたうえで、この小説。泣けるよということで家人が薦めてきた。

主人公の柏木聖輔くんは、高校時代に父親を自動車事故で亡くし、大学時代に母親を病死で亡くしてしまった。大学を続けられなくなって中退した。大学では軽音のサークルに入ってバンド活動をしていたがそれもできなくなった。

小説冒頭、いったんすべての「縁」が切れてしまった聖輔くんがいる。ここから、新たな「縁」を得て、その「縁」が次の「縁」へとひろがっていく。また、父親や母親の「縁」を知っていくことで人生を前へと進めていく。ちょっと山田洋次や倉本聰っぽい。

両親を亡くし、大学もやめてしまった聖輔くんだが、学生時代にしていたバイトの店ではなく、これまで足をむけたことのなかった商店街にいってみた。今までバイトはネットで探すだけだったのに、総菜屋に貼ってあったバイト募集の手書き張り紙に反応し、その場で店主に働かせてくれと言う。聖輔くんは砂町銀座という知らないところの「ふち」に行くことによって、総菜屋「おかずの田野倉」の店主である督次さんと「えにし」が生まれた。

絶対孤独に陥ったかのように見えた聖輔くんだが、高校時代にベースギターをやっていた。これが新たな「えにし」づくりに実は効いている。そういう意味では、高校時代にベースギターにトライしたのも、ひとつの「ふち」に行く行為だったと言える。楽器経験者はみんな体験しているが、初心者時代はなかなか上達しなくてつらいものである。この小説では聖輔くんが、中学生にベースギターを教えるシーンがある。小指がなかなか動かない。聖輔くんも初心者時代そうだったはずだ。そのときは聖輔くんも「ふち」に行っていた。そして続けることで、ベースギターという世界と「えにし」を持った。このベースギターという「えにし」が、いま新たな「えにし」をつくる。この中学生の準弥くんとの邂逅もそうだし、大学時代のバンド仲間である剣くんや清澄くんともそうだし、この小説のヒロインである同郷の同級生、八重樫青葉さんともそうである。彼女はベースを弾く聖輔くんをまずは覚えたのだ。

聖輔くんは新たな「えにし」を広げていく。「おかずの田野倉」の従業員とその家族、商店街の人々、青葉さんの元カレ。父のむかしの同僚や上司。

 

もちろん「縁」にも「良縁」「悪縁」「宿縁」「くされ縁」といろいろある。聖輔くんも、ひどい人間に関わってしまう。弱みに付け込むようなわるい「縁」も出てくる。とばっちりのような「縁」もつくってしまう。

だけれど、全体的には聖輔くんはいい縁に助けられた。聖輔くんがいい「縁」にたすけられたのは、彼が「縁(ふち)」に行くからだ。聖輔くんはだまって座っていて、誰かが何かをもってきてくれるのを待っていたわけではないのである。

だいたい世の中は「捨てる神あれば拾う神あり」である。これは気休めではなくて、そこそこ安定していて人の営みができている社会であれば、社会自体のフィードバック機能がそうなっていると言ってよい。大事なのはその社会に参加しておくこと、「えにし」をつくっておくことである。

 

 


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わたし、定時で帰ります。 (ネタバレ)

2019年04月21日 | 小説・文芸

わたし、定時で帰ります。 (ネタバレ)

 

朱野帰子

新潮社

 

テレビドラマの第一話を観たら面白かったので原作小説を買って読んでみた。したがって、ネタバレである。ドラマが原作と同じように展開するのかどうかはわからないが(少なくとも第一話の時点で原作とはいろいろ違っていたが)、先を知りたくない方はこの先気を付けられたし。

それにしても会社あるあるだ。多くの人がそう思うに違いない。小説だからカリカチュアされているけれど、どの登場人物もなんらか覚えがある。

 

要するに、ここに出てくる登場人物は主人公の由衣も含めていずれも利己的なのである。みんな利己的なのは、そうしなければ心身のサバイバルができないのが職場というものだからである。したがって彼らが利己的であることそのものを責めるわけにはいかない。誰にだってサバイブ、すなわち生き残る手段を画策することを止めることはできないからだ。由衣が定時に帰ることを信条にするのも、晃太郎が24時間戦えますかタイプなのも、三谷が皆勤賞にしがみつくのも、新人来栖が由衣から晃太郎に意趣替えしたのも、賤ヶ岳が子どもの熱が40度になっても家に帰らないのも、こうしないとサバイバルできないと考えてしまうからだ。

ブラック上司福永の滅茶苦茶も、悲しいかなあれが彼の唯一のサバイバル方法だからである。この人の根底にあるのは自分はサバイブできないのではないかという不安である。追い詰められた不安が逆上となってどんどんわけのわからない事態をくりひろげていく。福永としては自分をサバイブするために、自分の持ち合わせた能力の中でできることといったらあんなふうにクライアントの無茶要求をのみ、新人を人前で怒鳴り、他人の弱みにつけこみ、下請けを追い詰め、自分はさっさと早帰りしてほっかむりを決めることしかできないのである。

そもそもこういうマネージャーの器でない人を管理職にすること自体が問題なのだが、その人事にあたった丸杉というなかなかえげつない役員がそもそもサバイブのための方便としてこの人事をやっているのである。

つまり、職場というのはそういう各自のサバイブをかけた利己の衝突という面が少なからずある。職場の理不尽の正体というのはまさにこれであって、ブラックな上司とかブラックな職場というのは、経営者からバイトまで各人が生存権利として持っているサバイブの衝突の結果なのだ。避けようのない天災みたいなものなのである。丸杉みたいな役員がいずこともなく表れて好き放題やってどこかに去っていくというのも台風みたいなもので天災の一種である。丸杉とか福永みたいな人間が現れることがあるのが会社組織なのだ。

「働き方改革」が本格化しているが、実は見落とされているのはここである。「働き方改革」の多くは組織を機械システム論的にとらえることで生産性向上を導こうとするが、いっぽうで組織というのは人の集合でもあるのに生態学的にとらえる観点が不足しているように思う。当たり前だけど社員だって人生がかかっているのだから「対策」をするのだ。中国のことわざに「上からの政策に、下からの対策」というのがあるが、「働き方改革」で時間単位あたり生産性向上で残業禁止となると、その方向が自分のサバイブとベクトルがあう人は歓迎するし、それが自分のサバイブを脅かすことになる人(この小説なら皆勤賞の三谷、会社に住む男の吾妻、ブラック上司の福永、流しの役員丸杉)は、自分のサバイブのために「対策」をしちゃうのである。追い詰めれば追い詰めるほど「対策」も過激化していく。このような社員ひとりひとりがとろうとする生存競争戦略をどうふまえるか、つまり「社員のサバイブのシノギあい」をどう解決するかという点も「働き方改革」には必要であり、そうしない限りブラック企業というのはなくならない。

残念ながらいまのところ「働き方改革」はこういう生態学的な観点があまり重視されていないから、これらの避けがたい理不尽に対処するのは個人個人によるしかない。天災には防災である。職場において個人が求められるスキルというのは、利己的なふるまいをする他人によって生じる悪影響をいかに被らずに、かつ、自分の利己を通すかという技術である。人のサバイブは別の人の犠牲で成り立つことが多いのは世の常だから仕方がない。

その防災方法のひとつが、相手の利己都合を尊重したままサバイブの方法を変えさせることである。つまり、相手が信じるサバイブの方法をそれはサバイブではない、あるいはそれをしなくてもあなたはサバイブできる、と誘うことだ。憑き物落としに似ていなくもない。けっきょく、由衣は、三谷にも賤ケ岳にも吾妻にも福永にも晃太郎にもこの方法を使う。彼らの利己を責めるのではなく、利己を満たす別の方法へと誘導するのである。人は自分の利己が満たされれば、他人が何をしても気にならない。三谷も賤ケ岳も来栖も福永も晃太郎も彼らのサバイブが保障され、プライドが満たされれば、由衣が定時に帰っても自分のアイデンティティは傷つかないし、文句も言わないのである。小説だからラスボス福永と、真のラスボス晃太郎のサバイブ変更はなかなかの大仕掛けでドラマチックだが、本質的にはそういうことである。

したがってこういう思考実験も可能である。たまたまこれは時節をとらえた「定時で帰りたい」由衣のサバイブの物語なのだから、同じ方程式でたとえばスーパーワーキングマザー賤ケ岳のサバイブが成功するストーリー、会社に住む男吾妻のサバイブが成功するストーリー、あまつさえブラック上司我妻のサバイブが成功して、由衣の「定時帰り」が崩れて何かのサバイブに置き換わる話だって当然可能である。並行世界ものとして面白いかもしれない。(人気が出るかどうかは不明だが)

 

それにしても、「働き方改革」には社員ひとりひとりが安心してサバイブが保証できる観点を持ってほしいものだ。とくにホワイトカラーの生産性なんてモチベーションでなんぼのところがある。dead or alive が蔓延するような職場で制度だけの「働き方改革」を進めても水面下の「対策」が進んでしまうだけということを、政府も経営者も心してほしい。

 


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クラスメイツ

2019年02月23日 | 小説・文芸

クラスメイツ

 

森絵都

角川文庫

 

 

北見第2中学校1年A組の24人の生徒それぞれにフォーカスした24章による連作小説である。全編を通して4月の入学式から翌年3月の終業式までの1年間が流れていく。この1年の間にはいろいろなイベントや事件があって、それをA君の目線、Bさんの事情、Cさんの気持ちで多面的に描かれることになる。このあたりのしかけもふくめて、瀬尾まいこの「あと少し、もう少し」と近い世界観の小説といっていいだろう。(はて、どちらが先なのかな?)

もちろんこの小説の見どころは、思春期の入り口に入った多感な中1男女の立ち振る舞いである。中1というのは13才。僕が思うに、年齢的にいちばんぐちゃぐちゃしやすいのは中2すなわち14才である。13才というのは中学1年生というよりはむしろ小学7年生くらいの感じもするのだが、いわば「14才」という試練のプレ期が中学1年生と位置付けることもできる。前厄みたいなものだ。

 

この小説に出てくる中1の登場人物でもそこかしこに出てくるが、この時期のメンタリティの特有のひとつに自分中心の天動説感覚というのがある。自分が面白いものは相手も面白い。自分がくだらないものは相手もくだらない。自分が正しいと思うことは相手も正しいと思ってくれる。自分の話は相手は聞いてくれる。それも素直に、無自覚的に天動説なのであって、いきがっているわけでも開き直っているわけでもない。小学生高学年あたりから中学1年生あたりの子どもが容易に持ちやすい感覚だ。これは転じて、間違っているのは他人のほうである、歩み寄るべきは他人である、サブカルなのは他人のほうである、くだらないのは他人のほうである、身分不相応なのは他人のほうであるという感覚もよびおこすことになる。

ところが本当のところはこの世の中は地動説である。A君もBさんも、質量も組成も、その温度も、抱えている衛星の数もそれぞれが異なるひとつひとつの個性をもった惑星である。

これらの地動説の中心、太陽にあたるものの正体は非常につかみにくい。公共、空気、時によっては大人の事情とか呼ばれる輪郭のぱっとしないガス星雲みたいなものである。

思うに、中学生も2年生つまり14才くらいになると、なにやら自分ではない正体不明なものこそが中心にあり、自分よりも他人のあの人のほうが美しい惑星だったり中心点に近い惑星だったりすることに気づくようになる。そして自分は決して中心体ではないことを知り、それに傷ついたり自己肯定感を下げてしまったりする。

中学1年生というのはその手前、”なにかうまくいかないことが多くなった気がする”を知覚するあたりだろう。なぜうまくいかないかはわからない。相手が自分と同じ気持ちになっていないことには気づいているが、自分が相手の気持ちによりそってみるという判断心は降ってこない。ただ、なんかぎくしゃくする、親の言うこともしっくり腹落ちせず気に入らない、とにかくなんだかうまくいかないというのが身体感覚的に気づいていく。やがて、どうやら世の中は思い通りではないことに突き落とされるのが中2である。

逆に「うまくいっているとき」の幸福感は、相対的に非常に大きいものになる。仲間うちでの異常なもりあがりは、自分が中心点にいられていることの安堵からの解放感のようなものだろう。

そういう観点からみれば、中1というのは「14才」とはまたべつに実に切ない期間である。

この小説の舞台である1年A組も、24人それぞれが、なにかうまくいかない。期待と失望、刹那的な大もりあがり、いつまでも続く沈黙がある。24人それぞれが「プレ14才」の時期として身体感覚的にもどかしさをひとり抱え込む。

このあとには24人それぞれの「14才」の試練が待っていることになる。

 

しかし、地動説だからといってそれぞれの惑星は孤立しているのではない。万有引力よろしく、惑星は惑星同士でもはかなげながらも牽引しあい、作用しあっているのである。自分のふるまいが他人を動かし、他人の言動が自分の選択を決めていたりする。そしてそれらのエネルギーが実は得体のしれない中心部の力学にもなんらかの影響を与えている。

この小説でも、24人のたちふるまいは、本人の気づきとはべつに、実は他のクラスメイツの言動が牽引しあい、作用しているものだったりもするのだ。そして24人それぞれの不器用なたちふるまいと決意が、実は1年A組という社会の変容をゆっくりと動かしていている。このクラスにただよう空気ーー4月の入学式から始まって翌年3月の終業式に至るまでの空気が、当初はてんでばらばら各個人の気持ちと事情で始まった物語が、実は少しずつこなれていい塩梅のところに着地していく様が見て取れる。

そのこと自体に24人のクラスメイツはあまり気づいていないかもしれないかもしれない。だけれど、もしこの小説を中学1年生が読んで(中学2年生でもよいけれど)、自分も他人も、あんがい捨てたもんじゃないことにちょっとでも気づいてもらえれば、その先の「14才」にダークな気分に落ち込んだときもちょっとは乗り切るエネルギーになるんじゃないかと思うのである。

 


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GHQ ゴー・ホーム・クイックリー

2019年02月07日 | 小説・文芸
GHQ ゴー・ホーム・クイックリー
 
中路啓太
文芸春秋
 
日本国憲法はGHQから草案を押しつけらられた憲法である、というのは有名な話である。
日本史の教科書とか、あるいは日本史をあつかった学習まんがなんかだと、日本側が提案した憲法改正案がほとんど大日本帝国憲法からの微修正だったので、業を煮やしたGHQがみずから草案を作成し、それが最終的に日本国憲法となった、なんて説明がされる。
 
大筋のところではそうだけど、実は細部ではけっこうなドラマがある。日本国憲法の成立過程は詳細な専門書や研究書がいくつかある。最近も関係者の証言を集めた「証言でつづる日本国憲法の成立経緯」というなかなかの力作があるのだけれど、素人にはちと荷が重い。
それに比べると、本書は小説なのでたいへん読みやすい。しかし、小説とはいえ当時の議事録などを多いに参照しており、そのやりとりは基本的に信用してよいだろう。小説だからフォーカスポイントが取捨選択されており、前文と、皇室の地位をめぐる話、そして戦争放棄をめぐる憲法9条のところに話を集中させているところも一介の日本国民としてはいい塩梅だと思う。
しかし、そのフォーカスされたところは条文の一文一句をめぐる攻防が詳細に描かれる。なるほどだからあんな変な日本語なっているのかと納得したりもする。
 
本書を読んで思ったのは、GHQから草案を押し付けられてそれが日本国憲法になった、と短絡的に結び付けるのもかなり粗暴なんだなということだ。結果的に「自己欺瞞」という内省を残したり、自衛隊をめぐる解釈のあいまいさを許してしまったのは事実で、それを根拠に断罪してしまうことはもちろんできるが、現行の日本国憲法の成立はそれはそれで尊重というか、敬意をもってよいだけのプロセスがあったのだとは感じた。つまり、敗戦国として占領され、GHQ(さらにその背後にいる極東統治委員会)の無理難題を押し付けられながらも唯々諾々としたがうのではなく、日本国民として積極的にその価値観を世界に発信させるのだという気概があったのだということがわかる。天皇制を守るための攻防もそうだけど、軍部の暴走を許してしまったとはいえ基本的に日本は立憲民主主義の基盤をもった国であったのだというプライドと、大日本帝国憲法が定めるところの議会プロセスの遵守、廃止が運命づけながらもその矜持に最後まで凛とし、勤めを全うしようとする貴族院、かつて天皇機関説を支持したために表舞台から石もて追われた金森大臣による日本国憲法を成立させるための捨て身の答弁など、パッションといってよい熱い戦いが日本国憲法の成立にはあったのである。国の憲法という重大なプログラムにそんな感傷的な眼差しはいらないのかもしれないが、しかしイギリスの大憲章にしろアメリカの独立宣言にしろ、国のアイデンティティが宿る文書はどこか感傷的なものを抱えているのも事実だ。
 
ことしは新天皇の即位があり、もしかすると憲法改正の国民投票の道筋も開かれるもしれない。改正すべきかしないべきかをどう判断するかはもちろん人それぞれだし、現代の日本は国民ひとりひとりがそれを考える権利がある。ただ、きっとまた政局ごとにしまったり、ワイドショー化してしまうんだろうなと思ったりもする。日本国憲法の改正というのはもちろんセンセーショナルだけれど、単にセンセーショナルに騒ぎ立てるだけでなく、ちゃんと現行憲法成立の過程の尊重と検証、そしてどうすべきかの判断という、つまりじっくりむきあうことが成熟した国民のつとめなのではないか、と柄にもなく思ってしまった次第である。
 

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論理ガール 人生がときめく数学的思考のモノガタリ

2019年01月18日 | 小説・文芸

論理ガール 人生がときめく数学的思考のモノガタリ

深沢真太郎
実業教育出版


 ラノベっぽいしつらえで、キャラクター造形もセリフまわしも類型的だが、内容はわりとまじめである。ただ、何か所か出てくるカラーの挿絵ページはカンベンしてほしかった。中年オッサンのサラリーマンが電車の中で読むには、ちとはずかしい。(きっと僕が読者対象年齢じゃあないということなんだろうな)

 数式や幾何のモチーフを用いて、定性的な現象や心理変容を表し、なんらかの真理に迫るという方法がある。ギミックといってもよい。スピノザあたりが元祖かもしれないが、僕が初めてそれに接したのは、このブログでも何度か紹介した平林純氏の「できるかな?」というサイトである。そのキレッキレの説得力に僕は心底感動した。
 さらに、そういう数学や数式の援用は、物理学者サークル「ロドリゲスト」に元ネタがあり、ひいては寺田寅彦や夏目漱石にも使用例があることがわかった。
 また、東大の宇宙物理学教授である須藤靖氏のエッセイ集「三日月とクロワッサン」では、人生において幸福の値はぜったいマイナスにはならないということを数式を用いて「証明」させ、その福音的な力になるほどと唸ったものである。

 本書も同趣旨である。クールな女子高生と、リア充ヤングビジネスマンの対話を中心に、友人や仕事や恋愛というものが我が人生にどう影響を与えるものなのか、あるいはどうあるべきものなのかを、数学風の論理でやってみせる。特に仕事とおカネの関係論はなかなか面白い。ひとつの閉塞感打破のヒントだと思う。
 ただまあ、主人公ヒロインに何かと「これが数学です!」と断言されちゃうのはちょっと暴論な気もする。「数学や数式が持つ論理の頑強さを援用して物事や人生を考えてみた」といったところが妥当だろう。だからタイトルが「数学ガール」でも「数式ガール」でもなく「論理ガール」なのは適切ともいえる。あ、だけどこれは彼女が「ロンリー・ガール」であることにかけているのか。

 あえて注文つけるとすると、せっかく数学風の論理で友人や仕事というものを鮮やかに「証明」しているのに、一方のアンチテーゼを「人間は完全でないから面白いんだ」「この世には数学で説明できないこともあるんだ」という、わりと陳腐なオチにしてしまったのは惜しい気もする。どうせならこの数学の対抗馬も一段上をねらってほしかった。たとえば数学は(というか理系は全般的に)論理構造は明らかにするけれどそこに「意味」は問わない。その論理構造にどういう意味を見出して解釈するかは、今度は文系的なセンスが問われることになる(「2分の1」を”まだ半分ある”と解釈するか”もう半分しかない”と解釈するかなんかは代表例)。本書でも、「正解」ではなくて「納得できるかどうか」が大事であると注意深く繰り返してはいるものの、印象としてはわりとさりげない。「人間は不完全だからこそ、納得できないものも納得できるようになる可変性がある」あたりの境地までもっていってみるというのはどうだろうか。



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夜間飛行

2019年01月04日 | 小説・文芸

夜間飛行

 

サン・テグジュペリ 訳:二木麻里

光文社

 

Fedexやクロネコヤマトなどまだ存在しない20世紀前半の話である。夜間に飛行機で郵便物を運ぶ官営の航空郵便会社が存在した。「星の王子様」で名高いサン・テグジュペリは飛行機乗りだった。「夜間飛行」はテグジュペリのもう一つの傑作として名高い。

わざわざ夜間に飛ぶのは、鉄道や道路輸送に速度の面で勝つためであったが、当時の航空技術では夜間飛行は大変危険なことであった。したがって民間企業がビジネスとして着手することはまだなくて、インフラ事業として官営によって操業された。つまり公益企業である。フランス政府管轄のもと、南米における植民地の輸送を手掛けるこの会社の社長を任されたのが主人公リヴィエールである。

 

現代でも運輸運送業というのは過酷なビジネスであることは良く知られている。何があろうとも時間を厳守、輸送品は絶対に傷つけてはならない。消費者はほんの少しの遅延や品物のの劣化を大問題にする。

こういったサービス品質を維持するために、徹底的な正確性を要求されるのはその会社の従業員である。わずかな間違いが事故を招き、顧客の評判を下げ、ビジネス上の失敗をつくる。かくしてリヴィエールは従業員に対しほんのちょっとのミスにも処罰が待つような待遇を行う。従業員の気のゆるみ、甘えが品質の劣化につながり、事故を招くからだ。今日の日本的感覚から言えばリヴィエールの哲学や行動には異論もあろうし、この航空郵便会社(国営のようだが)はブラック企業とさえ言えてしまうだろう。JR西日本の福知山線事故の背景にも指導の厳しさが挙げられている。

リヴィエールの苦悩は、そんな自分の冷酷な立ち振る舞いを自覚しているところにある。ベテランの従業員が小さなミスをおかした。ここで優しい声をかけ、ミスを許してしまえば、従業員も安心するし、従業員の家族も安泰だし、従業員仲間たちの気も晴れるし、リヴィエール本人も気分がよい。しかし、このミスが一度許されれば、そこからゆるみは拡大する。どんなに冷酷な仕打ちに見えても、ここは処分をしなければならない。リヴィエールは鉄の意志でベテランの従業員を処分する。

しかも難しいことは、従業員を委縮させるだけでもダメだということだ。夜間飛行はたいへんに危険度が高い業務である。チャレンジ精神とモチベーションを要する。だからリヴィエールは恐怖政治を敷いているだけでなく、夜もオフォスに詰め、檄を飛ばし、自ら交換台の電話に出て指示を出し、臆病風にふかれた従業員を前にむかせる。

 

そんなリヴィエールに大きな危機が訪れる。一機の郵便機が嵐の中で消息を絶つ。陸上の交信員は賢明に通信を傍受しようとし、行方不明になったパイロットの妻がオフィスに駆け付け、愚鈍な中間管理職はただ右往左往する。

しかし、生存は絶望的とみられた。誰もが事業の一時ストップを想定した。一時ストップどころではない。事業からの撤退の予感もあった。

リヴィエールは2人の乗組員が犠牲にあったことに自問自答する。「公益というのは私益の集積で成立するものでしょう。それ以上のものではないはずです」。つまり、私益を犠牲にしてまで整備しなければならない公益など必要ないのではないか。「自分は何の名において、個人としての幸福を剥ぎとったのか? 最優先されるべき原則は個の幸福を守ることではないのだろうか?」

逡巡の末、リヴィエールは決意する。「おそらくは救うべき別の何か、より永らえる何かが存在するのだ。おそらくは人間のその領域に属するものを救うために」。「彼らを永遠なるものにしなければならぬ」。

ここで殉職した個人への愛に思いを馳せるのではなく、この国にこれからも生きる人間の公益を全うさせるために、ここで操業を停止してはならなかった。

リヴィエールは事業を止めず、後続便出発の指令を出す。従業員たちはその指令に動き出す。

 

運輸運送に限らず、公共的なインフラビジネスはこういった側面を持つ。

国の公共事業というものは、今日的には年末の道路工事や箱物行政といった財政政策的なイメージが強く、どちらかといえば悪いイメージがある。しかし、近代の黎明期にあっては、こうやって国をつくり、まちをつくり、ヒトの営みをつくっていった。近代化のために、まず動かなければならないのは行政だった。

インフラの整備が、国を、町を、人々の生活水準をつくるからだ。真実は”私益を犠牲にしてまで整備しなければならない公益”の上に我々の生活はあるということなのである。

 

「夜間飛行」を読んで思い出したのは、広島市内を走る路面電車だ。広島に原爆が落ちたとき、市内は壊滅した。しかし路面電車は爆弾投下の3日後に運転を再開した。焼け残った車両を集め、線路を補修し、電気を通電させ、廃墟の中を運転をしたのは10代半ばの見習い女学生たちだった。広電は民間企業だが、広島市の公益企業といってほぼ差し支えない。

このエピソードと精神は、東日本大震災の際に三陸鉄道に受け継がれた。三陸鉄道は行政と民間の第3セクターである。

 

「夜間飛行」は美しい描写に満ち溢れているが、根底にあるのは厳しさと高貴さだ。行政やインフラを担う人に持ってもらいたいプライドはこれである。水道事業の民営化、空港の民営化などが議論されているが、このような厳しさと高貴さこそを本懐として守り続けてほしいものである。

 


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