読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

銀河鉄道の夜

2010年01月25日 | 小説・文芸
銀河鉄道の夜

宮沢賢治

この間、朝のNHK教育――つまり、幼児むけの番組時間帯のとあるコーナー(「にほんごであそぼ」という番組)で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフとした舞台が設けられていた。その舞台というのが、基本的にシンプルで、宇宙空間を暗示させる闇の中に、蒸気機関車が引く汽車、プシューと蒸気が抜ける音響、そして赤く光るさそり座しかなかった。

この舞台をつくった人、美術の人か演出の人か知らないが、「銀河鉄道の夜」をよくわかってるなーと感心した。

かつて、僕は「銀河鉄道の夜」を研究したことがある。研究って何をしたかというと、「銀河鉄道の夜」に出てくる「色」の数を丹念に数えたのである。

「銀河鉄道の夜」に限らないが、宮沢賢治の特徴といえば、そのサイケデリックといっていいほどの色の描写で、薬物でもやってたんじゃないか、というくらいのまばゆさを描き出す。「銀河鉄道の夜」はなかでも特にすごい。そもそも「夜空を旅する」というだけで、その光彩は約束されているし、だいたいタイトルからして「銀」という字が入っている。
 黒曜石の地図、金剛石の河床、白鳥の駅、鼠色の壁、青白い骨の出る海岸、緑色の切符色彩が乱舞する。

 が、実をいうと、全編を通じてほとんど出てこない色が「赤」なのである。
 あとは黒・白・青・緑・黄・紫・鼠・金・銀と百花繚乱なのだが、「赤」だけが控えめなのだ。ちなみに、全編を通じて、通奏低音のように支配している色は「白」である。この「白」もまた、実はかなり周到な使い方をしていて、物語構造を支配しているのだが、その話は別の機会にゆずるとして、注意深く「赤」が避けられているのである。

 それが、物語の後半になって、突如、物語の中でもっとも特異なシーンに突入する。「ジョバンニの切符」という長い章の中の一部で、「蠍の火」と呼ばれるシーンである。
 ここでは、これまで必ず出ていた「白」が姿を消す。「銀」もなくなる。「青」も減少する。この物語空間を占めるのはこれまでわずかしか姿を現さなかった「赤」である。「銀河鉄道の夜」で、ここだけが赤い世界となるのだ。

 文章を引用すると以下になる。

  ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

 こうして「さそり」は燃え盛る常夜灯という使命を得て宇宙を照らし続ける。全般的に「銀河鉄道の夜」は静寂感が漂う物語だが、この個所だけは例外で燃え盛るさそりの脈動感がある。実は「銀河鉄道の夜」のクライマックスはここなのだ。ここには生と死の葛藤がある。後悔、諦観、希望、救済が戦い合っている。実はこの章では主人公ジョバンニの存在感がほとんどないというのが伏線でもある。
 この「蠍の火」を経て物語は再び静寂に戻る。色彩も減退して世界は青に染まる。深い深い青である。十字架の駅を過ぎる。カンパネルラは汽車から去っていく。
 そしてジョバンニは覚醒する。

 というわけで、「さそりの火」こそが、この「銀河鉄道の夜」の重要モチーフであり、真骨頂なのだが、くだんのNHK教育では、まさに1シーンだけ抜き出すというミッションにおいて、選りに選ってこの「さそり」を選んだのだ。うーん。我が意を得たり、と、真剣にこの番組を見ている4歳の娘に話したいが、もちろん通じるわけもないので、ここで書いてみた次第。





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ステップ

2009年04月15日 | 小説・文芸
ステップ---重松清

あまりこの人の小説は読んだことがないのだが、ちくまプリマー新書から出ていた「娘に語るお父さんの歴史」というのを以前読んだときは、ちょっぴり関心した。そこには「普通であれ」という巨大なテーゼが戦後民主主義を席巻したことによる光と影がメインテーマとして通底していたからである。
 戦後昭和生活史とは「普通であること」の競争といってもよかった。

 この「普通」との戦いは作者の思いであったらしく、この小説もまた言ってみれば「普通」との戦いである。
 この小説の主人公は父子家庭である。娘が2歳のときに母親が病死した。
 「父子家庭」というのはもはや行政に見捨てられているといってよいほど、社会において暗渠化されている。「母子家庭」の支援はあっても(微々たるものだが)、「父子家庭」の支援はまずないといってよい。
 その「父子家庭」に、普通の家庭なら、普通の子供なら、普通の女の子なら、普通のお父さんなら、あるいは普通の男なら、普通の会社員ならばが押し寄せる。まったくの悪気も魂胆もなく押し寄せる。それは「普通」=「悪ではない」という通念がもはや無意識といえるほどこの社会に蔓延しているからだ。
 そして、「普通」から見れば、普通でないものは「異端」である。なぜ、「普通」が求められるのか。それは社会のシステムを円滑に動かすためである。だから、「異端」はシステムの輪転を止めるものとして、いわばエラーである。システムである以上、エラーは排除され、修正されるという力学が働く。
 そして、「異端」は脅威でもある。「普通」の絶対性を揺らがせる。だから、「普通」は「異端」を毛嫌い、避け、「普通」に仲間入りさせようとする。「異端」が「異端」のまま大きな顔をされていれば、「普通」がおだやかでなくなるのだ。

 「普通」。

 われわれは、この言葉にどれだけ苦しめられ、悩まされ、そして利用してきたか。

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猿蟹合戦とは何か---清水義範

2009年01月20日 | 小説・文芸
 猿蟹合戦とは何か---清水義範

 なんとちくま文庫で作品集が刊行されはじめてしまった。全集が出れば作家としても超一流なんて言われているが、文庫とは言え、清水義範でそれに類するものが企画されるとは思わなかった。

 第1集となる本書「猿蟹合戦とは何か」に収録された諸作品は、いずれも元ネタを知ると知らないとでは大違いと思うが、いかんせん、元ネタが渋いというかひと昔前のミドルエイジが好むものが多いので、21世紀も10年になろうとする現在にはちとつらいかも、なんて思ったりもする。元ネタが講談「猿飛佐助」や中里介山の「大菩薩峠」、なんて、たぶんもう知らない人のほうが多いと思うぞ。「若草物語」と「細雪」の合体というのも、なるほどすげえと思ったが、両方とも通読した人っているのかしら(私はしてません)。まして、ジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」なんて、ぜんぶ読んだ日本人は1000人以下なんじゃないかと思う。
 
 著者の技巧が堪能できるのは、「二十一の異なるバージョンによる日本国憲法前文」。これは、すぐれた変奏曲のように、次々と繰り出して報復絶倒。量が質を変えるの見本みたいなもの。その中で、解説読んでびっくりしたのは「西原理恵子のパロディ」。元本となる「騙し絵日本国憲法」も読んでいて、おやこれにもサイバラがイラストで参加したのか、と思っていたのだが、なんと清水義範による模写だったとは、これは脱帽。

 ところで、本書には初期の有名な作品も収められている。
 タイトルを「猿蟹の賦」と言う。
 もちろんこれは司馬遼太郎のパロディなのであるが、気負いの度合がよほど違ったとみえて、極めて周到な仕掛けに富んでいた。
 もっとも、彼の文章は、パロディにしやすいというのもまた一方の事実であろう。
 余談ではあるが、筆者はかつて風邪をこじらせ、高熱にうなされた経験がある。
 風邪のときに見る夢はおおむね奇妙なものであることが多いものだが、このときに筆者がみた夢は、口から出る言葉、脳の中に響く独白が、これすべて司馬遼太郎風になるというものであった。
 悪夢という意味ではこれに勝る悪夢というのは早々なく、辟易のうちに朝をむかえるに至った。


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いつかソウル・トレインに乗る日まで

2008年12月25日 | 小説・文芸
いつかソウル・トレインに乗る日まで---高橋源一郎

 「新境地」と宣伝され、確かに従来の高橋源一郎の小説からすればかなり新鮮な面もある。
 が、根底には、彼がデビュー作「さようなら、ギャングたち」以降、ひたすら追求してきたものが、やはりここにもある。物語の構造としても、中盤までの回想的な独白と会話の錯綜、そして後半の「世界の果て」に投宿してからの、「コトバ」と「概念」の狭間を問答し、「定義」を揺らがすこの展開は、初期の作風を連想させるし、なぜ、このような構造をとらざるを得ないかというと、彼が「小説」というもの、「日本語」というもの、「コトバ」というもの、認識的な「世界」というもの、超絶的な「存在」というものとの格闘をあいかわらず続けているからでもある。

 彼が今回選んだテーマは、古今東西の小説が挑んできた「愛」である。
 彼の小説にも「愛」を扱ったものはこれまでもあったが、これほど「愛」に真正面から取り組んだものはやはり今回が初めてだろう。おそらくは「恋空」などのケータイ小説や「愛ルケ」などの安直な恋愛小説に対して、壮絶な差を見せ付けてやる、という野心もあったのではないか(エッセイなどをみると、かなり嫌悪感を示している)。「愛」を「小説」として「コトバに書き留める(書き刻むと言ったほうがよい)乾坤一擲が感じられる。

 この作品での「愛」は、人と人が出会って、お互いに惹かれあって・・というプロットではあるものの、社会で消費されている「愛」ではない。記号的な「愛」でも、免罪符としての「愛」でもない。「愛」というものが普遍的に持つ(世の中によくある話というわけではなくて、「愛する」ということが宿命的に持たざるを得ない)「限界」に迫ろうとしている。離れた2人の「他人」が近づき、これ以上ないくらいまで接近し、極限まで接近したときに見た世界の美しさ、そして最も近接されたその直後から、再び離れていく、という残酷的かつ不可避的な「愛」の話なのである。

 「小説」だから、物語の始まりがあって、起承転結みたいなものがある。果てしない物語のように見えながら、物語の終結にむかうための運びがある。高橋源一郎の小説は、とにかく最終章が圧巻なのだが、その期待は今回も裏切らない。
 が、物語そのものはやはり便宜にすぎなくて、実は「愛」を扱った詩だったのではないか、という気もする。長大な現代詩だったのではないか、という感想も拭えない。

 また、これもまた勝手な憶測なのだが、彼の5度目の結婚相手、つまり今の奥さんこそが、果ての果てでたどり着いた本当の人なのではないかと思うのである。

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南極(人)

2008年12月17日 | 小説・文芸
 南極(人)---京極夏彦

 どうせくっだらないに決まってるんだよなあ、とわかっている。
 わかっているのに買ってしまう。
 「どすこい(仮)」も、単行本で買ったクチなのだ。

 しかし、書店の平積みで見たときのこのインパクト。
 重厚長大な哲学書のごとき500ページもの質量を持つ大書。
 
 が、その見かけのわりに、手にしたときの重みはそうでもない。
 これは「どすこい(太)」でもそうだった。そういう軽い材質の紙があるのだろう。


 巨大にして軽薄。この造本に関してのコンセプトがそのまま中身にもつながる。
 とにかく、はじめから終わりまで馬鹿馬鹿しく、くっだらないことこの上ない。
 本書に関する限り、これ、褒めてるということ。(いや、案外に慧眼な社会批判もおりまじっていますが)

 特筆すべきは、紐しおりの本数が読み進むほど増えていくという怪奇現象。贅の極みとはこのことだ。

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UFO大通り

2008年10月09日 | 小説・文芸
 UFO大通り---島田荘司

 推理小説なので、ネタバレを避ける方向で・・

 表題の「UFO大通り」と、「傘を折る女」の2編から成り立っている。それぞれに印象深いセリフがあったので紹介してみる。


 “材料がないのに見当でストーリーを組んでしまうのは愚かだよ、自分の経験に多少の自信があれば、たちまちそこから動けなくなる。結論先行型、材料見つくろい型になってしまい、もしもこれが違っていればメンツ意識発動で、ますます意固地になる。(中略)必要なだけの材料が集まらない間は、どんなストーリーも組まないことだ。これが正しい結論を得るためのコツだよ。”(UFO大通り)


 “自分を納得させることが、周囲への説得と同格だ、という誤解がここにある。知的な女性がよく陥る混濁だ。”(傘を折る女)


 後者は性差別の誤解があるので、別の箇所でフォローがあって、「ぼくは女じゃなく、知的レヴェルの高い『受け身』人種の話をしているんだ」といっている。

 この2つは、根っこで同じことをいっている。「自分の常識=世の中の常識」という思考のワナと、結局、その「自分の常識」というものは、極めて個人的な経験知に基づいている、ということだ。「目玉焼きに何をかける論争」なんてのは典型的な例だ。

 だから、ネットなんかで検索して見つける「他人の経験話」を共有するときはかなり気をつけなければならない。何の情報が抜け落ちているかわからないからである。「目玉焼き論争」ならばただの他愛のないお遊びで済むけれど、場合によっては命に関わる。

 例えば風邪をひいて早く治したいとする。あるいは簡単に自宅で簡単にアイスクリームをつくってみたいと思ったとする。そして、子供用の風邪薬を大量に飲むと風邪が治るとか、ケーキ屋でもらったドライアイスとミルクをフードミキサーでまわすと簡単にアイスクリームがつくれるというウワサをどこかで聞き及んだとする。
 ウワサに対する態度は中立でなければならないが、往々にして無意識のうちに結論ありきのモードが作動してしまう。その結論に都合の良い理論なり実例なりをネットで探し、大半は自分にとって不都合でも、いくつかの好都合例が見つかって「ほら大丈夫じゃん」と思ってしまうパターンは非常に多い。
 しかし、ネットで調べたその人が風邪が治ったのは、本当は、もともと体が丈夫で安静にして療養していたからであり、アイスクリームをつくった人が保冷用にもらったドライアイスは、ケーキ屋と自宅が近かったので、その量が極めて少なかった。でもそんなことは、それを書いた本人も気付かない。本人は「風邪薬を大量に飲んだから治った」で納得しているし、「ドライアイスでアイスクリームがつくれる」ことだけを価値のある情報と思ったからだ。
 だからそんな部分の経験は共有されない、共有できたのは「子供用の風邪薬とはシロップである」と、「ドライアイスでアイスクリームをつくれる」という、欲しかった結論部分を補強してくれる情報だけだ。そして、大量に出てくる「薬は決められた量だけ飲みましょう」とか、「ドライアイスを密閉容器に入れるな」という情報は黙殺されていく。

 かくして、大量服用の末に血糖値が急騰して救急車で運ばれたり、フードミキサーが大爆発し、両手のひらにガラスの破片が大量に食い込む大怪我をしたりする。どちらも実際にあった事件だ(ドライアイスは気化によって体積は700倍に増える)。

 昔から「生兵法は大怪我のもと」というが、この手の事故は、失敗学で多くを占める。要するに、他人の成功や過去の自分の成功を、なぜ成功したのかちゃんと検証しないで、あの成功をもう一度と考えるとえらいことにもなるということだ。人ってのは、失敗したものはいろいろ原因を考えるけれど、成功に関しては無頓着であることが多い。


 というわけでネタバレを防いで、中身とは全く関係のない話でした。「UFO大通り」と「傘を折る女」、どちらも横浜時代の御手洗潔が出てくる佳品です。「UFO大通り」はちょっとフェアでない部分があるような気もしたが、「強腕」島田荘司なのでいいんじゃないでしょうか。まんべんなく御手洗ものを読んでいる人ならば途中でピンとくるはず。

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怒る富士

2008年09月19日 | 小説・文芸
 怒る富士---新田次郎

 今年は、富士山への登山者が最も多かったそうな。登山道が整備されたとか、世界遺産登録運動とか、国内旅行の増加とか、いろいろ要因があったらしい。
 それとはべつに、富士山噴火について、ここ数年まことしやかに色々言われており、ハザードマップを作成したり、経済被害をシミュレーションで算出してみたりしている。地質学的には、富士山は活火山に属するそうな(「休火山」という言い方はいつのまにかなくなったらしい)。

 富士山がいちばん最近噴火したのは今から300年前、いわゆる「宝永大噴火」だ。犬公方綱吉の時代である。

 当時の噴火や被害の記録をまとめたものでは、集英社新書の「富士山宝永大爆発」(永原慶二・著)がコンパクトにまとまっている。これによると、麓の村に積もった石や砂はなんと平均3メートル! 壊滅である。増える餓死者、氾濫を繰り返す河川。そんな絶望的状況から苦難な復興の道を探る村人、後手後手で腰の重い幕府、年貢徴収しか考えない小田原藩、儲け主義の江戸の土建屋。今も昔も民衆と中央政府と地方行政と経済界のちぐはぐは変わらないかの思いにかられる。

 「富士山宝永大爆発」はノンフィクションの新書だけれど、この宝永の大噴火での人々の右往左往を小説にして拡大したのが新田次郎「怒る富士」。文庫本上下巻で復刻した。

 長い長い小説だが、実際の噴火場面は冒頭だけで、あとはひたすら噴火後の後始末とその時代をめぐるかみしもの人間模様である。主人公のひとりである伊奈半左衛門忠順が、幕府によって亡地とされた被災地の困窮を、いかにして救うかというストーリーがど真ん中にあるものの、幕府内の権力抗争から難民の娘たちに至るまで、重層的なドラマが繰り広げられる。しかし大地を揺るがした未曾有の災害を前に、登場人物の多くは幸福な結末に至らない。大きな流れにはどうにも抗えないのだ。

 この大きな流れとは、自然の破壊力だけではなく、時代の流れでもある。「怒る富士」のもうひとつのテーマは、これだ。
 宝永の時代は、あえて言えば徳川江戸時代を前半と後半に分ける節目であり、政治機構のあり方も経済システムも一種のパラダイムシフトにあった。徳川家康直系は5代綱吉までだし、この頃から貨幣経済が台頭してきて、石高制を基本とする幕府の経済体制は矛盾を来たす。当然、革新派と保守派の衝突というのは起こるわけで、この衝突は、本小説の主要人物である荻原重秀と新井白石の対立を皮切りに、このあとの歴史で幾度も繰り返される。寛政の改革・田沼意次時代・享保の改革・天保の改革、そして黒船と続いていくが、幕府の力は衰えていく一方になる。宝永大噴火は、旧機構のきしみを一気に崩す、いわば構造改革の契機でもあった。

 もっとも、お上が緊縮財政をとろうと金融緩和をやろうと、民衆の立場が弱いことには変わりなく、リターンなき搾取と硬直化した身分制度の元、多くの悲しみの上に、わずかの喜びが乗っかるような日々が、この小説でも描かれている。特に物語後半の主人公になる難民おことの翻弄される命運には、フィクションとはいえ長いため息がでる。

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ジェミニの方舟 東京大洪水

2008年09月05日 | 小説・文芸
ジェミニの方舟 東京大洪水---高嶋哲夫

 今年の8月は、全国的に、異常に大雨と水害が目立った。僕の住む千葉や東京のほうでも毎日のように雷雨が続いた。
 
 で、本書は要するに東京に超大型台風が直撃する話である。まったくいい勘しているよなあ、と著者(と編集者)のアンテナに関心してしまう。というのは、この単行本の刊行は7月なのだ。プロモーションに超大金をつぎ込むハリウッド映画でさえ、さすがに天気の「仕込み」まではできない。

 小説なのでネタバレは避ける方向で書いていくが、東京23区でも東側に住む人や千葉県の東京湾サイドに住む人は読んでおいて損はない。自分の住んでいるところがどういう地形と条件のところにあるのかを再確認できるだけでも意味がある。

 東京都建設局のHPには、大手町あたりから浦安らへんまでの断面図が掲げており、これを見ると、荒川・中川の異常ぶりがわかる。要するに、武蔵野台地の東端(上野の山あたり)から下総大地の西端(船橋あたり)に挟まれた部分は、海抜ゼロメートルなのであって、そんな池の底みたいな地形の真ん中を、高速道路みたいな高さで、秩父山系からの水を蓄えて荒川が横断しているのである。

 とはいえ、この「異常」な荒川は、実は洪水を「ふせぐため」に現在のような流れになったものだ。名前の通り荒川はかつては暴れ川で、この川と人間の戦いは古くは戦国時代から続いていた。もともとは利根川とつながっていたものを(というか利根川が東京湾に注いでいた)、江戸時代から昭和にかけて何度も開削・埋立・治水工事が行われ、川の流れの付け替えがあって、現在の隅田川・荒川・中川・江戸川および銚子のほうで太平洋に注ぐ利根川がある。

 もっとも、自然の造形を人間の力技で今のカタチにしたことは事実であって、これまでにない自然のチカラが加わったらどうなるかは確かにわからない。だいたい、荒川下流が決壊するとたしかにすごいことになるが、仮に決壊箇所がずっと上流であっても、このあたりまで水がくる(昭和22年のカスリーン台風で実績あり)。また、荒川が無事でも、隣の江戸川が決壊すれば同じことなのである。

 地球温暖化が影響しているかどうかはともかくとして、今年なんかは不気味なほど台風が日本に来ない。台風は地球のエネルギー循環だから、どこかに大きくひずみが溜まっていないことを祈るばかりだ。


※追記
 と思ったら、上記の記事を書いた数日後、中央防災会議が荒川が決壊したら、最悪で死者7500人51万人が孤立という試算を出したという報道があった。7500人というのは、1000年に一度の大洪水の場合でしかも住民がまったく避難をしなかった場合、ということだが、これ以降テレビのワイドショーなんかでも面白がって「荒川決壊」を報道している。
 
 

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帝都衛星軌道

2008年08月19日 | 小説・文芸
 帝都衛星軌道---島田荘司

 推理小説にネタバレみたいなことをするのは無粋なので、中身には触れないが、本編の前編と後編の間に、全く別の小説(著者の言葉によれば、デビュー前の作品との事)を挟み込むという体裁をとっている。

 このような意味深な構成をとっているので、最初は、この挿入された短編が、本編のストーリーにどのように絡んでくるのか後編わくわくしながら読んだのだが、実はまったく関係がないのだった。要は「帝都衛星軌道」の単行本化のさいに、真ん中で分けて、その間に昔書いた小説「ジャングルの虫たち」を入れてみた、ということらしい。

 島田荘司が90年代に書いた長編ものには“エピソード in エピソード”とでも言うか、本編の中に、短編あるいは中編がまるまるひとつ入るようなものがけっこうあった。僕が知っているだけでも「アトポス」「切り裂きジャック百年の孤独」「龍臥亭事件」なんかがそうだし、2つの物語が同時並行する「涙流れるままに」なんかもこれにあてはまる。特に「アトポス」のそれは、そのまま抜き出して独立した恐怖小説にでもなりそうな圧巻な内容だ。

 こういう“エピソード in エピソード”という体裁をとった小説を初めて読んだのは小学生のときで、シャーロックホームズの「緋色の研究」だった。時代も登場人物も異なるお話が突然始まるので面喰らったのだが、読んでしまえば、その立体的に輻輳するような読後感がなんともいえず、目の前に立っている人間も、そこに至るまで様々な出会いや事件があって、その結果として今ここに立っているのだ、という、人生の深みみたいのを、もちろん小学生だから言語化も体系化もできないが、そんな具合の感慨を持った。と同時に、この“エピソード in エピソード”という手法があるんだな、なんてことを頭の片隅で感心もしたのだった。

 このように“エピソード in エピソード”は、このように事件の性格や人物像を単純な勧善懲悪とかステレオタイプな因果関係に済まさない、いわば「物語の重み」をつくる。シャーロック・ホームズの長編では、他にも「恐怖の谷」や「四つの署名」で、この“エピソード in エピソード”の構成をとっている。

 残念ながら、この「帝都衛星軌道」の“エピソード in エピソード”は、当初作者の意図にはなかったカタチなので、そういう意味での「重み」はない。にもかかわらず、なんとなくぼんやりとうすーくつながっているように見えるのは、様々な浄化が進む石原都政の今日、都市の闇みたいなものへのノスタルジーとカタルシスだろうか。

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若い翼・赤い霧・陳という男・都すでに遠く

2008年07月19日 | 小説・文芸
若い翼・赤い霧・陳という男・都すでに遠く----広岡達三----小説

 べとつくようなけだるい空気に満たされ、これといって活気も特色も面白みもない昭和30年代の町。思春期の男子中学生と、大人の世界に背伸びする女学生。やさぐれてしまった若者と、ひとひらの幸せを探す水商売の女性。中国人の床屋の亭主と、その妻。町に流れ着いた元活動家の男。この澱みから這い出る者、濁りの中の安楽に身を溶かしていく者。互いに名も知らぬ彼らが、偶然か、はたまた見えざる運命の糸で束の間交錯し、そして、彼らさえ気づかないうちに、その後のそれぞれの運命を、

実は、ちっとも変えないじゃん。

 まあ、検索の世の中なので、ググってしまえばすぐに正体もわかってしまうけれど、正確にいうと、書籍のタイトルは「ホン!」で、著者はいしいひさいちである。「広岡達三」とは、いしいひさいちの作品のあちこちに出てくる純文学作家の名前であり、広岡達朗のパロディだ。
 が、「ホン!」の中に、本当に「広岡達三」の手による短編小説が4作掲載されている。
 それが、表題の4作で、連作形式をとってある。広岡達三曰く「作中人物たちの地と図を変換しつつ4編の連作」とのこと。これがいかにも「鎌倉に住む、売れていない、でもプライドは高い老齢の純文学作家が書きそうな」小説。

 いまや4コマの神さま的大御所までなった、いしいひさいちは、どこまでも作品を通じてギャグを伝えてきた人であり、そのギャグには多かれ少なかれ不条理やナンセンスがこめられている。
 だから、この小説もメタレベルで不条理なギャグをかましているのである。超多忙なスケジュールだと思うのだが、よくも周到にここまでやるものだと心底関心。

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人喰鉄道

2008年06月27日 | 小説・文芸
 人喰鉄道---戸川幸夫---小説

 鉄道紀行作家の宮脇俊三氏に「人喰鉄道・サバンナを行く」というケニアの鉄道旅行記があって(「汽車旅は地球の果てへ」所収)、そこで、この戸川幸夫の「人喰鉄道」が紹介されていた。
 興味をもって、機会があれば読んでみたいと思っていたのだがめぐり合わせが悪く、ようやくランダムハウス講談社文庫から出たのを手にとった。

 いまからおよそ100年前、開拓時代のアフリカはケニヤでの鉄道建設の話である。イギリス人の責任者や技術者と、インド人や原住民の労働者とその家族4000人が、工事に携わった。

 言うまでもないが、この時代の鉄道建設は、過酷な労働環境と肉体労働で成し遂げられており、そこを焦点に書けば、またずいぶん違う物語になるが、この小説ではあくまで、現場最高責任者であるパターソンの視点で書かれており、プロレタリア的な文脈は少ない。それよりも、ここでの最大のテーマは、アフリカという世界の猛威である。人喰いライオンとの長い戦いがストーリーの中心だが、それだけではない。病の流行、労働者の反乱、原住民との衝突、大嵐やイナゴの襲来。こういったものを経て、未開地の鉄道建設は進められる。

 小説ではあるが、このウガンダ鉄道の建設が人喰いライオンとの死闘であったことは事実らしい。
 本来、ライオンには人間を襲って喰らう習慣はないが、あるきっかけが元で、人間の味を覚えてしまえば、ライオンにとってこんなに楽なハンティングはないということで、人喰い専門のライオンになってしまうらしい。しかも群れで行動するライオンは、その人食いの習慣を、他のライオンにも広めてしまうそうである。

 ライオン退治をはじめ、ひとつひとつのエピソードは、意外にもあっさりとした筆致で書かれる。にもかかわらず、長大な小説である。それだけ、いろいろな事件が起こるということだ。もし、ひとつひとつの事件をさらに詳細に突き詰めて描写していけば、山崎豊子ばりの大河になるだろうが、ヒューマンドラマを最小限に抑え、妙にあっけらかんと突き抜けたところが、広大な台地と矮小な人間群の対比と言えなくもない。

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ぼくは落ち着きがない

2008年06月23日 | 小説・文芸
 ぼくは落ち着きがない ---長嶋有---小説

 最近、単行本で(つまり新刊で)小説を買うことがめっきり少なくなったが、なんだかピンときて手にとったら正解だった。

 とある私立高校の図書室と図書部員の小説である。図書「委」員ではない。図書「部」員である。両者の違いは、前者が誰かがしぶしぶやらされる類のものであるのに対し、後者は「部」であるから、原則として自ら望んで行っている。

 さて。この小説を読んで、20年前とほとんど同じ、つまり僕が高校生の頃と、今の高校生、基本は変わらんなーと思った(著者が同年代ということなのかもしれんが)。道具立てとして携帯電話とか裏サイトとか不登校とか出てくるが、この妙な空回り感は、激しく既視感を励起させる。


 僕の高校ではクラスの大半は、つまり学校の生徒の大半は男女問わず、「本を読まない」人たちだった(マンガ除く)。そしてごくわずか「本を読む」派が生息していた。
 もちろん、高校生活というのは多数決型民主主義であるからして、大多数の「本を読まない」人たちの中で、「本を読む」人というのは正しく少数民族であり、「本を読まない」平均的高校生から比べると、ヒトとナリ全てがやはりどこか変わっていた。したがって「本を読む」人は、この小説のコトバ通り「浮いた存在」になりやすく、図書室のカウンターの後ろは、男女や学年の別を越えた「各クラスでの異端者の溜まり場」なのであった。

 クラス内で目立たず、グループ分けでもあぶれがちで、体育祭や遠足のクラス写真ではほとんど写っておらず、息を殺しながら過ごしていた彼らが、その「溜まり場」では、水を得た魚よろしく、快活に談笑をしていたり、目を輝かせながらポスターを作っていたり、誰と誰がつきあっているなどとあったりして、その対比というか温度差が白々しいほど痛々しくもあった。

 ただでさえアタマでっかちな高校生にあって、「本を読む」派は、読書量だけはハンパなく多かったために、なんだか自分の思考に、自分の言語能力や身体や、あるいは社会との相性その他すべてがついていかないような人が多かった。だから、高校という舞台で、この図書室のカウンターの奥の狭苦しい空間は、理想と思想と構想と空想と妄想が臨界点を目指す、ちょっと異様な場だった、と今ふりかえってみて思う。ただ、文科系のなせる業なのか、それとも「異端派」ゆえの十字架か、どこかに「暗い影」があったのは否めない。


 そんな超アタマでっかちゆえの、おもしろうてやがて悲しき図書部員。中学・高校時代に「少数民族」だった覚えがある人には、なかなか切ない小説なのではないか。(逆に「多数派」だった人にはまったくちゅうぶらりんな小説かもしれん)

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海がきこえる

2008年06月06日 | 小説・文芸
海がきこえる----氷室冴子----単行本小説

 氷室冴子が亡くなったと聞いて、かなりびっくりした。まだそんな年齢じゃなかったはずだ。

 大学生の頃、単行本で出たばっかりの「海がきこえる」を読んだ。
 僕はかなりじみーな高校生活を送り、さらに、はたまた色気のほとんどない大学生活を送っていたから、かくも背中でもかかないと落ち着かないような淡い青春小説を読んでみて、正直なところ「けっ」などと思いながら、でも一気に読んでしまった。(同時期、たしかカントの判断力批判(もちろん邦訳)を読破しようと試みていた。要するにハズカシイ学生だったのである)

 次に、大学を卒業して社会人となったばかりの頃にもう一度読んだ。今度は続編である「海がきこえるⅡ アイがあるから」も読んだ。
 厳しく慣れない社会人1年目の僕にとって、それでも大学生活は微温につつまれた快適な空間であり、そのノスタルジーも手伝って、まったく冴えてない会社と家の往復の毎日を自覚していた僕は、読後すっかり落ち込んでしまった。

 その後、7年くらいしてもう一度読んでみた。
 いつのまにか社会人生活も完全に日常となり、大学時代は遠くなりにけり。今度はそこに出てくる登場人物のやりとり、意識のうつろいなどが、すべて「うんうん。まーいろいろあったかもしれないけれど、とにかく軟着陸したじゃないの。よかったねー」とまるで、伯父さんのような感情移入をしてしまった。


 携帯電話以前の時代の大学生活を舞台とした「海がきこえる」は、スタジオジブリによってアニメ化もされたようだが、原作の小説(それも続編を含めて)をやはりおすすめしたい(文庫化もされているはず)。アニメ版はけっこう大幅にはしょっていたように記憶する。
 ライトノベル一歩手前のところで、にもかかわらず再読に耐えるのは、そよ風のようなちょっとした細部の描写の心地よさだ。情景描写も心理描写も類型的でなく、しかも不思議と琴線に触れ、おそらくそういうところがスタジオジブリの目にもとまったのかと思う。

 ご冥福を祈る。


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明暗

2008年05月07日 | 小説・文芸
夏目漱石---明暗---小説

 ネオリベラリズムと呼ばれる世の中である。格差社会なんてことも言われる。日本社会の「格差」は他国のそれとは比べ、遥かにレンジの狭いもので、過去がちょっと悪平等すぎたという説もあるけれど、時間軸で相対的に考えればジニ係数は確かに上昇している。どうしたって個人主義は勝ち負けが生じるし、それが個人の中でどのような怨念や嫉妬を巻き起こすかは誰だって多かれ少なかれ実感があると思う。不平不満感は募って権利意識だけが相当強くなる。結果的に「プライドは高く、忍耐力は低い」状態になる。

 100年前の日本にもこういうことがあった。明治の末期である。むしろ、現在の極端なプライドの肥大化と忍耐の無力化は、明治近代個人主義の100年後の姿ともいえる。

 で、夏目漱石未完の絶筆「明暗」。かつては漱石作品の中でも難解とされていたが、元祖ドロドロ昼の連ドラと言えなくもないぞ。だが、ここでは真正面に、「肥大化された個人主義がもたらす攻防」という視点で読み返してみる。そうすると、嘘か誠か、明治晩年を舞台にしたこの作品、道具立てこそ古いとはいえ、全て現代で通用するではないか。

 主人公である津田の境遇と心境は、「他人を見下す若者たち」の腰巻のマンガ(少年A「俺はやるぜ!し」少年B「何を?」少年A「何かを」)を髣髴させるし、津田の妻であるお延の「自分に都合よくことが進んでくれないことにその都度イラつく」様も、同情の余地は大いにあるけど、根っこになるのは「ワタシワタシ」の排他的利己主義だ。資産持ちが態度に表れる吉川、うだつの上がらぬ恋愛からあっさり玉の輿に切り替えた清子、そしてワーキングプアの小林。「明暗」全体が社会縮図となっており、登場人物はパラメーター化されて社会に投入されている。
 こうしてシミュレーション化された「明暗」の社会は彷徨し、出口がない。「明暗」の登場人物は個人を問われる。何を言うか何を選ぶか何を忌んで何を尊ぶか。そのときプライドと忍耐は天秤にかけられる。
 この閉塞感に満ち満ちた小説は、未完のまま誰も救済されずに断ち切られて終わる。


 それを引き継いで、絶望の淵に立った「お延」を、コペルニクス的転回ともいうべき心境の大逆転で救ったのが水村早苗の「続・明暗」。これは舌を巻く物凄い労作だったけれど、「明暗」のもうひとつの続編、永井愛の「新・明暗」もオススメしたい。大笑いできる。

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パンク侍切られて候

2008年04月17日 | 小説・文芸
パンク侍切られて候----町田康----小説

 言語論としても小説論としても社会風刺としても注目を浴びていて興味はあったが、情けないことに文庫化を待っていたのだ。「平成の時代劇小説」といわれているが、読んでみてなるほどそういうことかと納得。歴史小説と時代劇小説の違いは何かというと、前者があくまでテーマや世界や思想が過去の歴史に立脚したものであるのに対し、時代劇というのは、道具立てこそ江戸時代であったりしても、中身は完全に現代を意識している小説なのである。で、この小説は、その道具立てとしての「時代劇」と、テーマとしての「現代」の乖離を、むしろパロディの域までもって行きながら、単なる冗談小説や実験小説ではない、エンターテイメントとして到達させたのであった。高橋源一郎が絶賛するのもうなづく。

 だから、この小説を、ストーリーだけ抜き出してこれこれこうで、こんな人がでてきて、あんなことやって、それから最後はどうなったと説明したところで、まったくこの小説の面白さを説明したことにならない。それは周到にもストーリーの中でも出てくる「猿回しはいったい何が面白いのかを解説しながらの鑑賞」と同じなのだ。また逆に、殿様が「マジむかつく」なんて言うんだよ、なんて断片を説明しても、誤解こそなれ、この小説全体がかもし出すケッタイな感じは絶対伝わらないだろう。

 それにしても、これだけめちゃくちゃにやっておいて、最後の最後に時代劇のセオリーを残すあたりもにくい。

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