銀河鉄道の夜
宮沢賢治
この間、朝のNHK教育――つまり、幼児むけの番組時間帯のとあるコーナー(「にほんごであそぼ」という番組)で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフとした舞台が設けられていた。その舞台というのが、基本的にシンプルで、宇宙空間を暗示させる闇の中に、蒸気機関車が引く汽車、プシューと蒸気が抜ける音響、そして赤く光るさそり座しかなかった。
この舞台をつくった人、美術の人か演出の人か知らないが、「銀河鉄道の夜」をよくわかってるなーと感心した。
かつて、僕は「銀河鉄道の夜」を研究したことがある。研究って何をしたかというと、「銀河鉄道の夜」に出てくる「色」の数を丹念に数えたのである。
「銀河鉄道の夜」に限らないが、宮沢賢治の特徴といえば、そのサイケデリックといっていいほどの色の描写で、薬物でもやってたんじゃないか、というくらいのまばゆさを描き出す。「銀河鉄道の夜」はなかでも特にすごい。そもそも「夜空を旅する」というだけで、その光彩は約束されているし、だいたいタイトルからして「銀」という字が入っている。
黒曜石の地図、金剛石の河床、白鳥の駅、鼠色の壁、青白い骨の出る海岸、緑色の切符色彩が乱舞する。
が、実をいうと、全編を通じてほとんど出てこない色が「赤」なのである。
あとは黒・白・青・緑・黄・紫・鼠・金・銀と百花繚乱なのだが、「赤」だけが控えめなのだ。ちなみに、全編を通じて、通奏低音のように支配している色は「白」である。この「白」もまた、実はかなり周到な使い方をしていて、物語構造を支配しているのだが、その話は別の機会にゆずるとして、注意深く「赤」が避けられているのである。
それが、物語の後半になって、突如、物語の中でもっとも特異なシーンに突入する。「ジョバンニの切符」という長い章の中の一部で、「蠍の火」と呼ばれるシーンである。
ここでは、これまで必ず出ていた「白」が姿を消す。「銀」もなくなる。「青」も減少する。この物語空間を占めるのはこれまでわずかしか姿を現さなかった「赤」である。「銀河鉄道の夜」で、ここだけが赤い世界となるのだ。
文章を引用すると以下になる。
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。
こうして「さそり」は燃え盛る常夜灯という使命を得て宇宙を照らし続ける。全般的に「銀河鉄道の夜」は静寂感が漂う物語だが、この個所だけは例外で燃え盛るさそりの脈動感がある。実は「銀河鉄道の夜」のクライマックスはここなのだ。ここには生と死の葛藤がある。後悔、諦観、希望、救済が戦い合っている。実はこの章では主人公ジョバンニの存在感がほとんどないというのが伏線でもある。
この「蠍の火」を経て物語は再び静寂に戻る。色彩も減退して世界は青に染まる。深い深い青である。十字架の駅を過ぎる。カンパネルラは汽車から去っていく。
そしてジョバンニは覚醒する。
というわけで、「さそりの火」こそが、この「銀河鉄道の夜」の重要モチーフであり、真骨頂なのだが、くだんのNHK教育では、まさに1シーンだけ抜き出すというミッションにおいて、選りに選ってこの「さそり」を選んだのだ。うーん。我が意を得たり、と、真剣にこの番組を見ている4歳の娘に話したいが、もちろん通じるわけもないので、ここで書いてみた次第。
宮沢賢治
この間、朝のNHK教育――つまり、幼児むけの番組時間帯のとあるコーナー(「にほんごであそぼ」という番組)で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフとした舞台が設けられていた。その舞台というのが、基本的にシンプルで、宇宙空間を暗示させる闇の中に、蒸気機関車が引く汽車、プシューと蒸気が抜ける音響、そして赤く光るさそり座しかなかった。
この舞台をつくった人、美術の人か演出の人か知らないが、「銀河鉄道の夜」をよくわかってるなーと感心した。
かつて、僕は「銀河鉄道の夜」を研究したことがある。研究って何をしたかというと、「銀河鉄道の夜」に出てくる「色」の数を丹念に数えたのである。
「銀河鉄道の夜」に限らないが、宮沢賢治の特徴といえば、そのサイケデリックといっていいほどの色の描写で、薬物でもやってたんじゃないか、というくらいのまばゆさを描き出す。「銀河鉄道の夜」はなかでも特にすごい。そもそも「夜空を旅する」というだけで、その光彩は約束されているし、だいたいタイトルからして「銀」という字が入っている。
黒曜石の地図、金剛石の河床、白鳥の駅、鼠色の壁、青白い骨の出る海岸、緑色の切符色彩が乱舞する。
が、実をいうと、全編を通じてほとんど出てこない色が「赤」なのである。
あとは黒・白・青・緑・黄・紫・鼠・金・銀と百花繚乱なのだが、「赤」だけが控えめなのだ。ちなみに、全編を通じて、通奏低音のように支配している色は「白」である。この「白」もまた、実はかなり周到な使い方をしていて、物語構造を支配しているのだが、その話は別の機会にゆずるとして、注意深く「赤」が避けられているのである。
それが、物語の後半になって、突如、物語の中でもっとも特異なシーンに突入する。「ジョバンニの切符」という長い章の中の一部で、「蠍の火」と呼ばれるシーンである。
ここでは、これまで必ず出ていた「白」が姿を消す。「銀」もなくなる。「青」も減少する。この物語空間を占めるのはこれまでわずかしか姿を現さなかった「赤」である。「銀河鉄道の夜」で、ここだけが赤い世界となるのだ。
文章を引用すると以下になる。
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。
こうして「さそり」は燃え盛る常夜灯という使命を得て宇宙を照らし続ける。全般的に「銀河鉄道の夜」は静寂感が漂う物語だが、この個所だけは例外で燃え盛るさそりの脈動感がある。実は「銀河鉄道の夜」のクライマックスはここなのだ。ここには生と死の葛藤がある。後悔、諦観、希望、救済が戦い合っている。実はこの章では主人公ジョバンニの存在感がほとんどないというのが伏線でもある。
この「蠍の火」を経て物語は再び静寂に戻る。色彩も減退して世界は青に染まる。深い深い青である。十字架の駅を過ぎる。カンパネルラは汽車から去っていく。
そしてジョバンニは覚醒する。
というわけで、「さそりの火」こそが、この「銀河鉄道の夜」の重要モチーフであり、真骨頂なのだが、くだんのNHK教育では、まさに1シーンだけ抜き出すというミッションにおいて、選りに選ってこの「さそり」を選んだのだ。うーん。我が意を得たり、と、真剣にこの番組を見ている4歳の娘に話したいが、もちろん通じるわけもないので、ここで書いてみた次第。