読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

舟を編む

2013年04月30日 | 小説・文芸

舟を編む (ネタばれなし)

三浦しをん


 ようやく読みましたよ。面白かった。

 この小説の主役は「国語辞典」である。

 いやー。国語辞典をつくるって、こんなに大変なことだったんだなあ。実家の父親の書だなに「言海」があったけど、こんないわれがある辞書だったんだ。(正しくいうと、改訂版の「大言海」)。

 なるほど。ウィキペディアを改めてみると、おなじみ「広辞苑」に始まり、「日本国語大辞典」に「大辞林」に「大辞泉」、例の「新明解国語辞典」までいろいろある。
ウィキペディア情報ではあるけれど、三省堂の「大辞林」は、1988年に初版が発行。だけど、企画があがったのは1959年とのこと。小学館の「大辞泉」は、1995年に初版が発行されたが、企画があがったのは1966年。
 つまり、企画が上がってから、刊行にたどりつくまでに30年近くかかっているということだ。

 他にも「広辞苑」に使われている紙には薄くても丈夫にするためにチタンが入っているとか、「辞海」のように改訂されることなく品切れで終わった辞典の話とか、改めて見てみると、かなり異様な世界である。

 

  それにしても、国語辞典。すっかり引かなくなってしまった。
 小学生のころはご多分にもれず、様々なエロワードをひいたりしたものだが、基本的に辞書を引くという行為はめんどうくさいものだった。だから、なにか文章を読んでいて知らないコトバに出くわしても、それを調べる手間をとるよりは、前後の文脈で類推したり、まあいいやで読みすごしていた。よほどのことがない限り支障はないものだ。

 だからこの小説は、国語辞典というものの新しい読み方、楽しみ方を提供してくれた。
 国語辞典というのは、コトバをコトバで説明する、という試みの挑戦と限界が詰まっていることなのである。
 そして、コトバというのは世界そのものなのだ。世界はコトバでできている、我々の認識はコトバで建てつけられている。言ってみれば自分の世界認識そのものなのである。
 我々の生きている空間はユークリッド幾何学空間の秩序に他ならないが、認識し、解釈し、他人と共有するのは、コトバによって秩序化された認識空間なのである。
 ふだんそんなことはまったく気がつかないが、国語辞典を真剣に読んでいると、ふと世界が相転移して、広大無辺な虚無な空間に放り出されたかのような一瞬のめまいにとらわれる。ゲシュタルト崩壊に近い感覚とでもいおうか。

 

 しかし、コトバというのは、もともとその成り立ちの根源までさかのぼれば、自分でない他人に何かを伝えるためにある。手段である。コミュニケーションなのである。
何かを自分ではない誰かに伝えたくて、コトバは生まれた。
本書の主人公は、コトバの世界にのめりこんだ人物でありながら、コミュニケーションは下手(とくに若い頃)という矛盾を抱え込んでいる。つまり、コミュニケーションのためのコトバ使いとしては不全であり、コトバが自己目的化した人種として描かれる。

 おしゃべりがうまい人、話好きな人、コミュニケーションが上手な人は、必ずしもボキャブラリー豊富な人ではない。
むしろ反対かもしれない。

 だけど、そこにそういうコトバがある、もしくはあった、のだとすれば、それはそのコトバでしか言いようのない、他のコトバでは相容れない微妙なニュアンスがそこにあり、その微妙なニュアンスを他人と共有したいとかつて誰かが思ったことの証しであり、名残なのだなあと思う。

 ひとつひとつのコトバには、なんとかこれをあなたに伝えたい、というまじめで真剣な思いのDNAがつまっているということなんだなあ。

  

 

 


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ビブリア古書堂の事件手帖(4) 栞子さんと二つの顔

2013年02月28日 | 小説・文芸

ビブリア古書堂の事件手帖(4) 栞子さんと二つの顔  (トリックに関してのネタばれはいっさいないけど、登場人物にふれている)

三上延

 

 ここで書いていたらなんとすぐに第四巻が出た。

 いよいよ本腰をいれてシリーズ化の定石がふまれてきたように思う。

 もともと、この小説は、ビブリア古書堂という古本屋を経営する篠川栞子という人が、店に持ちこまれた古本のちょっとした特徴を手掛かりに、その本をもってきた人や、その本にまつわる数奇な由来をつきとめていく、というどちらかというとシャーロックホームズ型のミステリー小説であった。

 古本屋の主人が探偵役のミステリーものといえば、京極夏彦の京極堂シリーズがある。この京極堂シリーズもホームズ型といってよく、京極堂の主人である中禅寺秋彦が謎解き役を負うのに対し、事態進行の記述役とボケを担当するワトソンにあたるのが関口巽である。もっとも、このパターンは島田荘司の御手洗&石岡もそうだし、北村薫の円紫と私シリーズもある。僕はミステリにはうといので、メジャーなところで思いつくのはこれくらいしかないが、もっともっとあるはず。

 何がいいたいかというと、ミステリーのフォーマットとしてこれは盤石の定石だということである。ワトソン役にあたるのが、本が読めない体質のビブリア古書堂アルバイトの五浦大輔でありつまり、ホームズ型のシステムをとったビブリア古書堂シリーズは、長期シリーズに耐える潜在性を持っていたということになる。
 あとはこれにある種の役目を果たすレギュラー登場人物を配置すれば準備完了ということになる。

 が、最初のころはやはり登場人物が限られていた。いちおう、ここに栞子さんの妹である文香という人もいて、この人は当初、栞子と対照的な性格の持ち主という感じで描かれ、それ以上の戦略的なポジションはなかったように思う。

 ところが、長期的シリーズとして腰を据えることにしたのか、初期の来店客はレギュラー化した。
 とくに天真爛漫が特徴だった妹の文香は、相手がどんな人間であろうと仲良くなれるスーパーコミュニケーション能力を持つ人間としてパワーアップしていった。早い話、峰不二子のような潜在性を持つキャラになっているのである。(まだそこまでの活躍はみせていないが、微妙にトリックスター化してきつつある)

 また、この手のものを俄然おもしろくするのが、敵キャラ、それもボスキャラの存在なのだが、そこにうまく栞子の母親智恵子がおさまった感である。
 なんとなく役者がそろいつつある。

 さらに、路線変更、というか路線拡大というところでは、当初はこの小説はあくまで古本屋に持ち込まれた古本から謎や不自然を見抜くというプロットだったのだが、だんだん謎解き依頼人型になってきており、話のどこかに古本が絡めばよい、ような具合になりつつある。この第4巻の栞子さんはもはや安楽椅子探偵ではなく、依頼人の館に乗り込み、建築トリックにまでせまろうとする。
 こうなってくるとなんでもありで、ますますホームズ型になってきたともいえる。依頼人型を採用すると、物語の可能性はぐっと広がる。

 このように今回の巻では、路線変更が明確に出てきた感じである。江戸川乱歩をテーマにした長編であり、ついこの前、島田荘司の写楽ものを読んだばかりなので、そちらを思い出して、まるで新本格のようだーと思ったものだった。

 

 あとはあれだな。五浦大輔のライバルにあたる人がでてくるといいのだな。次の次あたりで出てくるのではないか、とにらんでいる。

 


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ビブリア古書堂の事件手帖(3) 栞子さんと消えない絆 

2013年02月16日 | 小説・文芸

ビブリア古書堂の事件手帖(3) 栞子さんと消えない絆

三上延

 このシリーズがメディアワークス文庫で最初に出たとき、だれがここまでブームになると予想しただろうか。
 だれが、剛力彩芽主演のテレビドラマになると予想しただろうか。

 僕自身は、最初の文庫本をこのタイミングで読んでおり、ご覧の通りの「その他大勢の中のひとつ」みたいな扱いであった。ただひとこと、「シリーズ化希望」と書いているのみである。(それにしてももう一つのヒット作「陽だまりの彼女」もここで出てるんだなあ。)

 

 とはいえ、今なお、なぜこれがこんなに人気があるのか、まったくわからない。不思議である。
 だいたい、古本、というか希少本や稀覯本をネタにしたミステリーである。はっきりいってマニアックである。まさか世の中にこんなに古本マニアが潜んでいたとは考えにくい。本好きが潜んでいたはずがない。それならば、出版業界はもっと元気なはずである。
 そもそもベストセラーというのは、普段本を読まない人までもが買うから、ベストセラーになる。本を題材にしたベストセラーなんて、存在矛盾もいいところである。

 やるせなさ抜群の善悪を越えたヒューマニズムでもなく、カタルシス抜群の社会派ミステリでもなく、際立ったキャラが続々登場するわけでもなく、快刀乱麻の勧善懲悪でスカッとすること間違いなし、というわけでも、怪奇と幻想がうずまくめくるめくようなミステリーでもない。どちらかといえば、静かにじみーな謎と不思議が訥々と解決されていくような感じである。いったいみんなどこにこんなに惹かれているのだろう。

 あれか? 表紙のイラストがかわいいからか? 清楚な雰囲気かもしだしながら、実は胸が大きいところの栞子さんのチカラか?
 しかし、表紙の力だけで、3巻も売れるものだろうか(近く4巻目もでるらしい)。

 

 僕自身は、はっきり言わせてもらうと、楽しんでいる。4巻目も首を長くして待っている。
 もちろん、僕は本好きであるから、本を題材にしたミステリなんて盆と正月(古っ!)みたいなものだが、なんというか、本をサカナに人と人がつながったり、惹かれあったり、ついでに微妙に恋愛めいた雰囲気をかもしだすのは、本好きにとって一種のアコガレであり、ユートピアである。このシリーズはうまくそういう本好きな人たちの欲望をとらえたような気はする。
 だいたい本好きの人なんてのは多くはおくてであって、社交性を発揮するよりは、一人で本でも読んでいるほうが性にあっているような人が多いのであって、もともと人との出会いづくりにガツガツ出来ない性分の本好き人間にとって、本を媒介にして人とふれあうというのは唯一無二の喜びなんではないかと思うのである。

 で、もっというと、こういうのは「本」に限らないと思うのである。なんとなくインドア系の趣味を持つ人全般にあてはまるように思うのである。
 実際のところ、こういうおとなしめの趣味がきっかけで、人と知り合ったり、恋愛関係になるのは当人にとっての理想ではあるものの、現実的には達成しにくいものである(ちなみに僕の妻はまったく活字がダメである)。
 ここらへんの微妙なカタルシスにうまくこたえたのが、このシリーズの人気の秘密なように思う。スカッとしたり、アドレナリンが出るわけではないが、不思議に微温的な幸福感を感じることができる手ごろ感の勝利だろう。
 (というところからして、はたして真逆のカルチャーをもつフジテレビの剛力彩芽主演ドラマというのはやっぱ、キモをはずすと思うんだけれどなあ)

 

 


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写楽 閉じた国の幻

2013年02月11日 | 小説・文芸

写楽 閉じた国の幻

島田荘司

文庫化を待っていた作品。単行本新刊の時点で興味はわいていたが、あの分厚いのを持ち歩いて会社とかいけないからなあ。(僕は会社の行き帰りの電車の中とか昼休みとかに読むのである)

写楽の正体探しは、邪馬台国はどこか話と双璧の人気歴史ミステリーだと思うが、島田荘司がこれだけの分厚さでこのテーマに挑んだからには、単なる推理物ではなく、それなりの新解釈、あるいは新根拠を掲げてのことだろうと思った。なにしろ、この人は本当に三浦和義の事件をひっくりかえしてしまった実績がある。

で、ここからがネタばれである。

今回はネタばれをする。もちろん写楽の正体は×××である! なんて野暮なことはしないが、なに書いたってヒントになりそうなのである。ネタばれなしで書こうと思ったのだが、どうもうまくいかないので、今回は先にお断りしておく。

要注意。

 

ところで、清水義範に「金鯱の夢」という小説がある。20年以上前の小説だが、これはなんと豊臣秀吉に実は嫡子がいて、そのまま江戸時代ならぬ名古屋時代が続いてしまうというなんちゃって架空歴史小説なのだが、ここに写楽の話が出てくる。

ここに出てくる写楽の正体が、なんと。なんとなんと××××なのである。作者としては、特に検証も考察もなく、ユーモア小説の一貫のつもりだったのだろうが、妙にすべての辻褄があってしまう、つまり写楽の謎であるところの突然江戸に出現して数か月の活躍の後に忽然と姿を消したとか、その絵柄が誰の流派でもない空前絶後のものであるとか、彼の正体については誰もが一切の口をつぐんでいるとか、そのあたりのことが、この清水義範説ではすべて解けてしまう。

僕は、「金鯱の夢」に出てくる写楽は、実はかなり真実に近づいているのではないかと思いこんでおり、だからこの島田荘司「写楽 閉じた国の幻」はもしかしてもしかしたら、写楽の正体は××××のセンで行くのではないか、と冒頭のページからその気持ちを持ったまま読んでしまった。

そしたら、読めば読むほどますます××××であるような伏線が張られていくのである。

そしてついに!! バーン!

写楽の正体は××××だった。

ただ、清水義範のとは違って、かなり文献にあたったり、対案の取捨に慎重になっている。素人のまぐれと専門家の研究と検証くらいの違いがある。
清水のが適当に済ませたところを(そもそもこの小説の主眼がそこにはないので)、島田荘司のはかなりいろいろ補強してあり、また描写も闊達である。

でもやっぱり、清水義範説を知っていて(ホントにこれは状況証拠的にはよくできているのだ)、それでこの島田荘司の力作を読めば、ああ!やっぱりと思ってしまったのである。もし清水の本を読んでなければ、目ウロコ30枚は落ちたに違いない。というのは「金鯱の夢」を読んでから20年、今に至るまで、写楽の正体は××××だ! という見解を僕は見たことがないからである(もちろん、専門家でも好事家でもない僕の見知る範囲でだが)。

 

というわけで、「写楽 閉じた国の幻」は、「金鯱の夢」を読んでいなければ、そしてこの分野に興味がおありであれば、是非ともおススメである。
逆に、オレも「金鯱の夢」を読んだことある、という人は、とはいえ、あの「金鯱の夢」には致命的な欠点があるのだが(そりゃそうだ)、そこも島田荘司は補っているので、そこに注目である。

ところで、この「写楽 閉じた国の幻」。あとがきで著者も触れているが、どう見ても未完である。いちおう写楽の正体には到達しているが、ちょっとまて。あれはどうなった。あの人はどうなった。あの事件はどうなった。というところが完全に放置されてしまっており、この部分の回収も含めて、続編こそぜひ剛腕の名をほしいままにする島田荘司ならではの化政文化の時代を描いてほしい。

 


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新世界より (下)

2012年12月26日 | 小説・文芸

 

新世界より (下)   完全にネタばれあり
貴志祐介


 というわけで全部読んだ。中巻までの感想はこちらである。

 中巻まで読んだ限りでの僕の予想は、悪鬼と化した真理亜と、業魔と化した瞬が相討ちして共倒れ、人類は辛くも救われるというものだったが、全然ちがった
 それはともかく。

 

 この小説は、3つの視点から読むことができる。

 1つは、もっとも順当な読み方で、主人公である渡辺早季の手記の通り、早季と1班のメンバーの人たちにふりかかるドラマの話である。
 その限りでも、本作はウェルメイドな伝奇SFホラーとして十分に面白い。


 一方で、この小説がずしんとくるのは、最後にバケネズミの正体が明かされるからである。
 バケネズミの正体が「呪力を持たない人間」の改造された姿だったことから、単なるエンターテイメントにとどまらず、本作は多角的な見方ができるようになったのである。

 というわけで、もう1つの見方としては、教育委員会に代表される大人たちの神栖66町における治世と崩壊の物語である。

 「呪力をもつ人間」は、徹底した管理社会を築き上げ、一見きわめて清潔で安全な都市運営を行っている。
 しかし、この町の本質は、不安と疑心暗鬼に満ちた相互不信の社会である。「呪力をもつ人間」の既政者は基本的に人民を信用しておらず、「呪力をもたない人間」におびえて抵抗要素をそぐことに腐心する。
 現実社会においても、慢性的な疑心暗鬼は、ちょっとしたことで恐怖感に駆られた暴走状態になり、虐殺的な行為に走りやすい。人種、民族、宗教が異なるだけで人間はおそるべき残虐性を発揮してきたことは歴史が証明している。ヒットラーやスターリンのような独裁者の悪政をまずは思い浮かべるが、これに限らず、普段は善良だった市民があるきっかけで暴走してしまう例だって多いのである。ボスニアの虐殺やルワンダの内戦、日本でも関東大震災後の朝鮮人虐殺という例がある。
 虐殺者は、自分たちの方が正しいのだ、と納得したいがために、その裏返しとして相手を「だから正しくないことをされるのだ」というロジックで虐殺的行為に及ぶ。その行為が残忍であれば残忍であるほど、自分の正しさはより強化される。ここまでしないと、相手に対する恐怖心がぬぐえないのである。

 神栖66町の大人たちのふるまいも基本これと同じである。
 「呪力をもつ人間」は、「呪力を持たない人間」の抵抗力を殺ぐために圧政をしき(醜悪なネズミに姿を変えさせ、なんと焼き印を推して個体管理をするのだ)、いっぽうで「呪力をもつ人間」同士においては愧死機構をもりこんで内乱のリスクを減らす。そして「『予測不能な』呪力をもつ人間」を出現させないよう、一切の多様性を排除し、不安分子は情け容赦なく芽摘んでいく。

 興味深いのが彼らにおける「知識」のマネジメントである。
 神栖66町では「知識」は徹底的に公開が制限される。生きる上で最小限必要なこと以外は知らなくてよい、という方針をとり、余計な知識を得たものは粛清の対象となる。
 これは独裁者が行う政治の常とう手段で、まず初めから存在する知識層はすべて排除し(その究極なのがポルポト。ちなみに神栖66町は貨幣が存在しないが、これもポルポトがやろうとしたこと)、あとは既政者が、どの知識はどの階層までオープンにしていいかをコントロールしていく。(実は日本の大企業もこの傾向があるのだが)
 これは、けっきょく既政者側が人民を信用していない、という原則から始まっている。いつ寝首をかかれるかわからないため、余計な知恵をつけさせないようにしているのである。

 この緊張状態は、野狐丸率いるバケネズミ軍および悪鬼の少年の攻撃によって街ごと崩壊していくわけだが、なまじ知識が制限されていただけに、神栖66町は街のつくりも人の采配も戦略観を持てず、鏑木と日野という2人の強力な呪力使いに頼らざるを得ない脆弱性を露呈されてしまうのである。


 さて、3つ目の見方が、このバケネズミの反乱の側からこの物語を俯瞰する場合である。
 神栖66町の虐殺シーンだけでなく、やたらと醜悪さが悪目立ちする野狐丸や塩屋虻コロニーも、これが実は長い年月「呪力をもつ人間」からのいわれなき圧政に苦しんできた「呪力を持たない人間」の抵抗と闘争の物語である、と見立てれば、おのずと別種のカタルシスが出てくる。
 しかもその宿願は達成されず、コロニーは全滅させられ、野狐丸は「呪力をもつ人間」の復讐心によって無間地獄の刑におとされる。

 この小説では、冒頭部分に注意深く述べられているように、主人公「早季」の視点で主観的に描かれているから、その描写や評価には相当な偏りがあることが前提となる。反体制側の英雄が、体制側に極悪人として描かれることはよくある話である(もちろん逆もまたある)。
 それをふまえると、野狐丸は野卑で狡猾どころか、きわめてすぐれたリーダーであった可能性もある。少なくとも、近隣のコロニーを掌握し、大局観と戦術論を併せ持つ不世出の「呪力をもたない人間」であった。

 それをうかがわせるのが女王制を廃し、民主主義と議会制を導入したことである。

 野狐丸は図書館(ミノシロモドキ)の捕獲で「知識」を得た。
 この「知識」を独占してバケネズミとして君臨することもできたはずだが、「呪力をもたない人間」の解放を大義に、民主主義と議会制を導入したのである。これは私利私欲でできないことである。
 なぜなら、民主主義と議会制は、人民への信頼が原則となるからである。そして、議会制を機能させるには「知識」の普及が必要でもある。全員の情報レベルが同じにならないと、議会制はうまくいかないからである。
 バケネズミの議会制がうまくいっていることの状況証拠として、塩屋虻系のコロニーが戦闘を伴わずに順次拡大していることにある。なにしろ野狐丸が育てた悪鬼はバケネズミを攻撃できないし、長年に渡って非常に統率のとれた個別バケネズミ軍の動きは、モラルとモラールがなければ完遂しないレベルのものである。烏合の衆と化した「呪力をもつ人間」と対照的である。

 早季の手記においてはほとんど触れられていないが、じつは野狐丸は「呪力を持たない人間」の間では慕われていたカリスマ的存在だったのだろう。少なくともバケネズミ戦闘軍は、この戦闘の目的と目標が何であったかを全員知っていたと思われる。

 もういっぽうのバケネズミの勇である「奇狼丸」は、人情的に感情移入しやすいが、野狐丸ほど大きな世界を描けなかった。30年前に東京地下で核兵器を発見できていれば、野狐丸と同じ行動に出ていたと思われるが、彼が守りたい世界はあくまで女王の世界だった。


 けっきょく、この長大な小説はエンターテイメントにあふれたSF伝奇ホラーなのだが、一方で人類史の寓話でもあるのだ。
 
1000年後という舞台設定。
 ひるがえって、1000年前の世界はなんであったか。
 実はここにあの悪名高き十字軍の遠征が始まる。
 そして、現代に至る1000年のあいだ何で行われてきたかをふりかえれば、まさに旧世界は、この新世界と同じような歴史だったのである。

 


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新世界より (上)(中)

2012年12月21日 | 小説・文芸

新世界より (上)(中)  ネタばれなし

貴志祐介

 複数巻もの小説は「船に乗れ!」以来だ。
 むかしは司馬遼太郎の歴史小説とか、村上春樹や山崎豊子とかの大作を読んできたものだが、年のせいか億劫になりつつある。もっとも、面白ければけっこう没頭してしまうのだから始末に悪い。

 年末にむけて仕事がかなり激しくなってきて、なんだか一日中仕事しかしてないような状況が続いた。
 こういうときは小説でも並行して読みながら激流を過ごす、という自分流のココロの安定術で久しぶりに複数巻もの(持ち運べるように文庫化されているもの)で、あまりアタマを使わなくてもよく、しかし飽きずにぐいぐいひっぱるだけのものということで、日本SF大賞受賞の本作を手にとったのだった。

 現在の自分のステイタスでいうと、上巻、中巻を読み終わって、下巻にかかったところである。
 あと、検索してみたらちょうどいまこれのTVアニメをやっているようで、どうやらコミックもあるらしいが、こちらは一切見たことがない。いまどの段階を放映されているのかも全く知らない。現状、本作品に関する自分の情報はこれだけである、ということで、最後まで読んだら、ネタばれありで感想を書こうと思うが、とりあえず上・中巻の段階で、ネタばれなし、正確に表現すると本の表紙や裏表紙にあるあらすじや目次だてくらいの情報レベルで思うことを書いてみる。

 

 1000年後の日本、というのが舞台である。

 

 超未来の話となると「風の谷のナウシカ」である。

 ナウシカでは2800年に「火の七日間戦争」という最終戦争が起きて人類文明は衰退し、腐海の脅威におびえる39世紀頃の人間たちが描かれる。さらに「原作」ナウシカでは、映画版のエピソードは序の口で、「本当の人類は・・・」というおそるべき事実が語られ、読んでウツになってしまう衝撃の結末が待つ(詳細は伏せますが)。

 それから「リアル鬼ごっこ」も1000年後である。リアル鬼ごっこは、王様が「佐藤」の姓を持つものを処刑する、というストーリーである。また、「猿の惑星」では文字通り、地球は猿が支配し、人間は家畜になっている。手塚治虫の最高傑作「火の鳥未来編」では、世界同時核戦争がおこって人類が滅びるのが3404年である。

 というわけでどうも1000年後の人類はなかなか希望がないようである。

 

 現在の地球の人口は70億である。僕が小学生の頃は45億人というのがスタンダードな回答だったから、凄まじい勢いで増えたことになる。シミュレーションでは、2030年には80億人、2100年は105億人と言われていて、これはどう考えてもヤバい。水不足、食料不足、エネルギー不足。どころかまず土地不足である。「ヨコハマ買い出し紀行」のようにゆっくり衰退していくならばともかく、「北斗の拳」のような一触即発な世界になってしまってはとんでもなく絶望的な未来である。

 というわけで、地球の人口制限は必至になるだろうと実は思っている。
 問題はそれがどういう手段でなされるか、である。なんとなく落ち着くのがもちろん一番いいに違いないのだが、現在の増加曲線からみるとそれは難しそうだ。なんらかの自然の力が働くのか、あるいは人間の力による抑制か、それとも神の見えざる手か。かつての人類史でペストやスペイン風邪が世界の人口を激減させたようにウィルスによるフィードバックだってありえる。とにかく何かが人口増加を抑えつけることは間違いないのだが、それがいったい何でなされるのかを想像するのはなかなかホラーである。

 日本そのものは現在すでに人口減少に転じていて、このままいくと3000年の日本の人口は30人足らずまで下がるそうだから、当然他の国、溢れかえるであろうアジアやアフリカ、南米の人々が日本列島に住みつくことになるであろう。そうなってくると、とうぜん今の政府や行政区なんて変容するに決まっているわけで、だいたい日本語さえ存在するのかどうかあやしい。
 「風の谷のナウシカ」なんて海外が舞台に一見みえるが、実はかつて日本だったところが舞台だったとしてもおかしくないのである。


 かように1000年後の世界、というのは今の常識や基準からは大きく逸脱していることは間違いなく、唯一変わらないのは宗教と物理法則だけかもしれない。

 

 この「新世界から」はそういう意味では、これでもかなり保守的(?)な1000年後で、ニッポンのキモチやカタチがだいぶ温存されているほうである。ただし、そのかわり宗教はより強力に、そして物理法則は変えられてしまった。
 だけど、AKIRAとか甲殻機動隊とか、はたまたエヴァンゲリオンとか思うと、この宗教の強化と物理法則の改変こそ、1000年後の未来まで思いをはせるときの東西かかわらず人類の見果てぬ「夢」なんだろうと思う。
 それが「悪夢」であろうとも、エデンの園このかた「神」に近付きたい人間の抗いがたい本能なのかもしれない。

 ・・というわけでネタばれ感想は次回。

 


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妖精作戦

2012年07月02日 | 小説・文芸

妖精作戦

笹本祐一

最近、このシリーズが再販されている。ゼロ年代な人には知らないかもしれないが、80年代、まだラノベなんて言葉がなかった頃に読書好きの中学生や高校生の間で一世を風靡した。当時、この手の小説をジョブナイルと言っていた。

いま改めて読むと、そのあまりの単純さとバカバカしさに鼻白む思いがする。しかし当時、これは社会現象とまでは言わなくてもかなりの支持があったのだ。

 

だが、改めて思う。たとえば同じく高校を舞台とするSF色の強いラノベあるいはジョブナイルである「ハルヒ」にあって、この「妖精作戦」にないものはなにか。逆に、「妖精作戦」にあって、ついに「ハルヒ」に現れなかったものは何か。これを考えることは、昭和と平成の溝を考えることにひとしい。

なんというか「妖精作戦」は徹底的に自分の内面を語らない。すべての因子は外部にあり、登場人物はくったくなく、その外部の騒ぎに巻き込まれ、あるいは自ら飛び込んでいく。悩みとか葛藤とか自分探しみたいなものはほとんどない。逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ、と自分に言い聞かせることも、僕はここにいていいんだ、という開眼もここにはない。みな楽天的に、あるいは能天気に困難に挑み、事態を面白がりながらカオスになっていく。

これが現在は、たとえ「ハルヒ」であっても自己の内面とは無縁でいられない。自分の趣味や主義に拘泥したり、何のためにこれを行うのかの自問自答がつきまとう。作品の主題というより、時代の空気と呼応しようとすると必然的にそうなるとしか言いようがない。大塚英志が指摘するところの明治近代文学以降の「私小説」文脈である。だが、その合間にこの「妖精作戦」とか、ほぼ同時代のアニメ「うる星やつら」や「ドクタースランプ」あたりまで参照すると、現在の若者むけ小説で流行るところの「私小説」文脈というのはむしろ隔世遺伝ではないかとも思うのである。

正直、僕はそれこそ数十年ぶりに「妖精作戦」を読んで、去年の今頃読んだ「ハルヒ」を思い返し、その違いが、この「自分探し」の有無にあることに気付いたとき、愕然としてしまった。

いつから僕たちはこんなに「考えすぎてしまう」ようになってしまったのだろう。

 

 

 

 


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太陽のない街

2012年06月29日 | 小説・文芸

太陽のない街

徳永直

小林多喜二の「蟹工船」がブームになったことは記憶に新しい。格差社会とか非正規雇用という時代背景が「蟹工船」のリバイバルを生み出した。

ところで、教科書なんかでプロレタリア文学が紹介されるときは決まって「蟹工船」と一緒に徳永直の「太陽のない街」が挙げられていた。「蟹工船」は北洋の缶詰工場に働く労働者が題材だが、「太陽のない街」は印刷工場の職工たちの労働争議が扱われている。小林多喜二が実はインテリであったのに対し、徳永直は正真正銘の職工で、実際の事件を題材に、作者自身の実体験も十分に反映して書かれており、それだけにリアリティもあるのだが、どうもこちらのほうはリバイバルの気配はない。戦後に一度映画化され、書籍も岩波書店の他数社で再販されたものの、いずれも平成24年現在絶版である。

「蟹工船」のほうは、小林多喜二が特高警察に虐殺されるという重要なエピソードを持つのに対し、徳永直は、ある意味うまく戦時中をしのいで無事に戦後をむかえており、こういうのがもしかしたら作品価値の矮小化を手伝ったかもしれないとは思う。

 

とはいうもの、「太陽のない街」はいま読んでも十分におもしろい。おもしろいといういいかたは誤解を招きそうだが、平成も24年になって、ぐいぐい読ませる力がある。

実は思想理論的には未成熟とか、あるいは登場人物の心理描写が浅いとか、国民文学としての価値を得るには21世紀も10年が過ぎた現代となってはもはや難があるのは事実だ。しかし、一方で小説としてのドラマツルギーや、当時を知るに一級資料になるともいえるスラム街の詳細な生活描写は蟹工船をしのぐものがある。職工のストライキとはまさに家族全員の命をかけた戦いであり、とくに女性たちの境遇と苦難は、かつて本当に帝都にそういう社会があったのだ、と知ると暗澹たる思いになる。いっぽう争議における労働者側も内部の派閥争い、資本家サイドの切り崩しや暴力団の派遣、そこにプロ運動家の介入や裏切りなどで一枚岩にならず、ついには敗北するまでの展開は、こういっちゃなんだがエンターテイメント小説をしのぐ面白さがあり、さらに実在の企業をほのめかす名前が次々出てくるところも痛快である。

思想云々はひとまずおいといて、今一度時代の気分として読まれてもいいのではないかと思う。小説としての難をあえて挙げるとすれば、むやみやたらに登場人物が多すぎることだろうか。

 


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死都日本

2012年01月15日 | 小説・文芸

死都日本 (ネタばれほとんどなし)

石黒耀

年あらたまっても大震災の記憶は少しも色あせない。去年は大震災だけでなく、紀伊半島の台風と大水や、東北地方の大豪雪などもあった。そして霧島の新燃岳が噴火を繰り返した。

「死都日本」はまさしく霧島が噴火する小説である。瞬時に南九州を壊滅させ、数日後には日本全土を崩壊させてしまう。もっとも、この小説での噴火は、新燃岳とは異なり、あの地下に眠る巨大な火山、加久藤火山が大規模な水蒸気爆発を起こすというもので、いわば「最悪」を想定したシミュレーション小説だ。ただ、まったくの絵空事ではなく、この付近は火山帯としては極めてデンジャラスゾーンでいくつものカルデラが存在しており、日本の生態系を壊滅させた大噴火を、地球年代史的な意味では「たびたび」起こしている。最後の噴火は7000年前である。

 それにしても、規模の大小はあれ、自然の災禍というのは本当にどうしようもない。東日本大震災以降「防災」よりも、災害はおこるものという大前提においていかに被害を少なくするかという「減災」という概念が唱えられるようになってきているが、ほんと去年1年を通じて「防災」なんてのがいかに夢物語かというのを痛感する。

個人的には富士山の噴火とヒトの間で流行する鳥インフルエンザ(H5N1型の変異)と、南関東直下型の大地震は、いずれ起こるものという気がしている。そのいずれが、10年内なのか100年内なのかはそのもっと先なのかはわからないが、そういうとき、いったいどういう風に判断し、行動し、生活し、生存していくべきなのだろう。

 

本書「死都日本」はただのパニック小説ではなく、そこには日本国家の生存をめぐる大英断という視点も入ってくる。小説内での国家首脳陣は極めて頼もしい。有事に必要なのは、ピープルパワーとしての生きる気力、それからトップの決断力と行動力である。ピープルパワーの強さは「アラブの春」でも示されたわけだし、東日本大震災ではなかなか日本人も捨てたものではない動きがあったが、いっぽうで震災がれきの受け入れを拒否したり、福島の物産展が中止においこまれるなど、本当に一枚岩にはなかなかなれない。そしてなによりも、国のトップのほうは本当にうろたえ、権力闘争を繰り返すなど醜態をあらわにした。ここはほんと小説とは大違いだった。

 「死都日本」の噴火はもちろんフィクションの限りだが、そこに描かれた国の姿勢も幻想のままというのではなんとも情けない。プライマリーバランスがめちゃくちゃなのは周知の通りだが、後手後手の結果やっぱり消費税増税なんてたしかに虫がよすぎると思われても仕方がない。ついに野田改造内閣が発足したが、ぼちぼち本気でしめにかからないと、TPPどころかほんとにIMFの管理下に入りかねないのでは。

 

 

 

 

 


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性交と恋愛にまつわるいくつかの物語

2010年11月24日 | 小説・文芸
性交と恋愛にまつわるいくつかの物語(ネタばれあり)

 高橋源一郎

 連作短編ではあるが、もちろん底がつながっている。
 まず引きこもり男と冴えない女の物語からこの連作は始まる。タイトルは「キムラサクヤの『秘かな欲望』、マツシマナナヨの『秘かな願望』」。
 この最初の1作で、本書の半分のボリュームを占める。
 そして残りの半分に、4つの短編が入る。

 この異常なアンバランスにまず注目だ。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とかマーラーの交響曲「大地の歌」なんかを連想させる。
 連作短編の中で、ひとつだけ規模の大きい話が入っている場合、それが連作を通してとても重要であることは自明である。それも冒頭とか最終のような位置にあればなおさらだ。

 「キムラサクヤの『秘かな欲望』、マツシマナナヨの『秘かな願望』」は、まさに「性交」と「恋愛」の絶望的な隔離現象を描いた。極端に貧しい「性交」経験(回数・内容とも悲惨なまでに貧しい)と、「恋愛ゼロ」の両者は、出口のないコンプレックスにどんどん自家中毒的に壊れていく。
 社会との接点さえ貧しい両者は、片や「アサヒ芸能」、片や「JJ」を頂点とする各種女性ファッション誌の情報のみにイメージが肥大化していく。キムラサクヤの欲望はJJの読者モデル級の人に「モテ」ることによって「性交」をはじめとする淫らな関係になること、マツシマナナヨの願望は玉木宏に耳元で「愛しているよ」と囁かれながら抱かれることである。

 この短編(中編?)での圧巻は、キムラサクヤが、JJの読者モデルにコトを成そうとする妄想だ。ここで饒舌にまくし立てるJJモデルは、田中康夫が「なんとなくクリスタル」で予感させた80年代の消費カルチャーを、20年を経て病理として見せている。
 暴走して、インプットされていたコトバを早口でまくしたてるアンドロイドに必死にしがみつく生身の人間(手塚治虫の「火の鳥」にそんなのがあったような)のような光景がある。


 だが、である。
 この「性交」を包むあまりにも巨大なイメージ(「恋愛」でさえも、「性交」を成就させるイメージとして援用されてきたにすぎないという意見だってある)をはぎとっていけば、その正体は最終章の小品「宿題」になる。

 ここでは動物園の猿がじっと「30分間」動かずに「性交」している。
 もちろん動物的DNAによる発情プログラムと妊娠システムの狭くしかし堅固な因果関係の中での行為である。

 この最終章の小さく綴じた小品と、第1章の長大な「欲望と願望」に翻弄される中編の間をつないでいるのが、各短編であり、迷走する人間の性(さが)が描写されている。そういえば、「さが」に「性」の字をあてるとはよくもいったりである。


 「性交」という古今東西の人類史においては、結局これをめぐって莫大な命と巨額のマネーが動き、幾多の悲喜劇のドラマがつくられてきた。
 まさしく「歴史は夜つくられる」である。
 手段と目的が逆転した、成功と恋愛にまつわる物語は今日もつくられていく。 





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現代用語裏辞典  (と「乱調文学大辞典」)

2010年08月26日 | 小説・文芸
現代語裏辞典

筒井康隆



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嵐が丘

2010年07月05日 | 小説・文芸
嵐が丘(ネタばれのようなネタばれでないような・・)

著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子

 この物語、道具立てを説明すると以下のようになる。

 時代は200年ほど前のイギリス。それもロンドン市内ではなくて人里離れた荒野が舞台である。この荒野には2棟の古い屋敷があり、この2つの屋敷は4キロほど離れている。
 かつてこの2つの屋敷にはそれぞれに裕福な家族が住んでいた。仮に彼らをX家とY家と呼ぶことにする(X家が住んでいた屋敷をX館、Y家が住んでいた屋敷をY館とする)。「人里離れた荒野」であるから、当然下界との交渉は絶っている。この状況をまず頭に入れておいて欲しい。これからお伝えする事件は、この2つの屋敷にまつわるものである。どちらも少なからずの名声と資産がある名家であった。

 どうだろうか。「風すさぶ荒野に立つ2つの名家の館」というこのシチュエーション。何か起こらないほうが不思議である。

 ここで起きる事件というのがハンパじゃない。いわば嵐吹きすさぶ絶海の荒野での惨劇。闇夜を彷徨する若い女性の幽霊、謎めいた館の主人、そして、かつて2つの名家に起こった不可解極まる連続変死事件…

  あらためて考えてみると、横溝正史ばりのオカルト話でもある。もしくは推理小説プロットのパターンのひとつである「雪山の山荘」タイプともいえる。

 だいたいこの物語、主要登場人物8人(物語の「聞き手」の作者と、語り手の「家政婦」を除く)のうち、最終的に6人が死に至り、そのほとんどが衰弱死と片付けられる。古来、衰弱死と言えば日々食事や薬を毒に入れ替える毒殺と相場が決まっている。いったい犯人はだれなのか。
 そしてもう一つのカギは20年荒野をさまようというくだんの幽霊。純文学では「幽霊」は「幽霊」として機能するが、本格推理ではそうはいかない。幽霊の正体みたり枯尾花、必ずトリックがあると考えたほうがよいだろう。本格推理で幽霊が出てきた場合は誰かが誰かを脅すために化けていると見るのが自然である。
 そうすると、この幽霊を仕掛けた人と、連続殺人鬼の関係はどうなるのか?
 いったいこの惨劇は誰が何のためにしかけたものなのか?
 家政婦は何を見たのか?

 ・・というわけで、英文学史上孤高の傑作と誉れ高い「嵐が丘」。映画や舞台でもお馴染で、女性を中心にファンも多い。誰に感情移入するもよいし、恋愛小説、サスペンス、復讐譚、寓話、成長物語、福音など様々な読み方が可能なことが人気の秘訣である。しかも時空間の配列や語り手のあり方といった技法の点でも工夫満載で言わば超絶技巧小説、つまり研究者好みともいえる。 鴻巣訳では、かつての大仰さが消え、感情の大爆発になっている。

 ちなみに僕が通っていた中学校では、夏休み読書感想文の課題図書のひとつとしてこれがあがっていた。いったい何を考えているのか。誉れ高い古典文学だしセックス描写がないので(これも「嵐が丘」の謎の一つとされる)安心して課題図書にしたのかもしれないが、これで中学生に感想を書かせるのはいくらなんでも無茶であろう。






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誰にも見えない

2010年05月19日 | 小説・文芸
誰にも見えない (たぶん未読でも差支えないはずだがでもやっぱりネタばれ)

 藤谷治


 「船に乗れ!」がかなり面白かったので、文庫で彼の小説が出たことを広告で知って、手軽なので読んでみた。

 いわゆる「14才もの」である。いわゆる、なんて言ってるけど、今勝手に命名しただけである。

 世の風評を見ても、自分自身を省みても、「14才」というのは人生においてもっともめんどくさい時期のひとつではある。「14才」をどう乗り越えるかで、その後の人生や人格、品格までもが決まるといっても過言ではない気がする。俗に「中二病」、もっともこれは男子の場合であって、女子の場合は「小六病」といったりもするらしいが、とにかく純度の高い思考能力と身体能力とそれが起こす欲求、そこにまだまだ人生の場数が足りなくて圧倒的に不足している社会対応能力の、この温度差を持てあます時期である。


 中二病の原点は「誰も私をわかってくれない」という点にある。

 ここから派生して、「だから私は孤独で親友と呼べるような人がひとりもいない」となったり、、「あの人は私をわかってくれる」と信じ込んでのめっていったり、「分かっているような顔して全然わかってねーんだよ、バーロー」という人物評価(特に親に対して)になったり、「あの人とこの人はわかりあえている」と疎外感を募らせたり、「あいつ、わかってやれるやつが一人もいないんだってよ」という視線に恐怖を感じたりする。特に異性からの承認は「わかってくれる」の象徴であり、こいつに「わかってもらえてんだぜ」というのが周囲へのアピールになる。これらが転じて「私の居場所がない」とか「私は必要とされてない」となっていく。

 で、なまじ純粋的な思考能力だけは伸び盛りで、耳から入ってくる情報はどんどん吸収してくるから頭でっかちになり、「誰も私をわかってくれない」症候群となっていく。

 なぜ、「誰も私をわかってくれない」という思考に陥るかというと、それまでの「子供」時代は、なんとなくみんな「わかってくれていた」ような気がしていたからである。天上天下唯我独尊。ところが、少しずつ世の中の仕組みが見えてきて、教室内のいろんな意味での生存競争が発生してきたりするうちに、だんだん「必ずしも、自分の味方にならないこともある。いやそれどころか、自分の味方にならないことのほうがずっと多い」なんてことを学習してくる。それも理由がはっきりしていればいいが、案外、理不尽なことが多いものである。

 昔は、兄弟の数も多かったから、もう少しここらへんは自分を相対視できたのだが、最近の平均兄弟人数は確か2.0人を下回っているはずだから、本書の主人公である瑠奈のように一人っ子のまま14才を迎えるのもめずらしくはないわけである。


 で、オトナはだいたい知っているのだが、本当に「わかってくれる人」なんてのはなかなかいないものである。「世界の中でただ一人、私のことを考えている」瑠奈の母でさえ、この体たらくである。長い人生かけて多くて数人得られるかどうかだろう。


 だが、もうひとつのこの年頃の特徴は、「誰も私をわかってくれない」一方で、「相手をわかろう」という努力義務にはまったく及んでいないこともある。そこまで精神的発達が至ってないとも言える。「相手をわかろう」とするのが面倒くさい、のではなく、「相手をわかろう」としなければならない、という理由がまだわからない、のである。

 で、本書の登場人物はみな、この空疎な「わかりあえなさ」と「わかったふり」にもがくことになる。ちなみに、主人公の瑠奈は、大学付属の私立女子中に通い、趣味は読書で、話のかみ合わない「親友」にふりまわされ、家に帰れば父親はエリート、母親は「マニュアルお受験ママ→子供が合格したら朝カル族」という、前述の「中2病」をもろに誘発しそうな環境下で生活している。

 「親友」であるところの愛子は、典型的な「自分をわかって頂戴」タイプであり、他人をわかろうという概念が未だ根本から育っていない例である。その具体例が、瑠奈と、同級生の浅川博子が会話していたあと、瑠奈に「ねーねー、博子とさっき、何話してたの?」と尋ね、「本の話」と答えると、「あ、本か」と“1秒で引いた”場面に現れる。

 その瑠奈も、浅川博子(美人だそうだ)に対し、自分の日記で、

  「浅川博子 よく分からない。貸してくれた本は、私にはつまらなかった。」

 と断じられてしまい、自分の立ち位置からは一歩も前へ出ていない人物評に留まっている。




 さて、物語は、いろいろあったおかげですっかり「誰も私をわかってくれない」自家中毒を起こしてしまった瑠璃がある行動を起こそうとする途中で、とある出会いがあって、聞いたことも考えたこともないような初めての「考え方」に出会い、目覚め、そしてある人物に対してとある行動を起こすのであるが・・・ なんのこっちゃらそれこそ全然わからないな、これでは。


 要するに「14才越え」の物語である。
 余はいかにして「14才」を越えたか? なんて特集があったら、読んでみたいとも思う。

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ペンギン村に陽は落ちて

2010年04月29日 | 小説・文芸
ペンギン村に陽が落ちて (未読の人にたぶん差し支えない程度のネタばれ)

高橋源一郎


 高橋源一郎のTwitterを見ていたらずっと絶版だった「ペンギン村に陽は落ちて」が再販になるということがつぶやかれていて、へーっと驚いた。

 高橋源一郎のケッサクを3つ上げろと言われたら、人によっていろいろあるに違いないが、僕は「日本文学盛衰史」と「13日間で「名文」を書けるようになる方法」と、それから「ペンギン村に陽が落ちて」である。
 へえ。「さようなら、ギャングたち」は? 「優雅で感傷的な日本野球」は? なんて声が聞こえそうだが、もちろん傑作であることを認めるのはヤブサカではない。が、最初の3作はいずれも僕は読んで落涙したのである。(ついでにいうと「あ・だ・る・と」の最終章の『凄み』には身震いしてしまった。それまでとのエグイ本編との落差が凄まじい)

 僕は「ペンギン村に陽は落ちて」は再販は無理だろうと思っていた。この小説は、80年代に子供時代を(あるいは子供のココロを持って)生きてテレビアニメを見てきた人と、それ以外の人では、かなり鑑賞のポイントというか、読後感が違うだろうと思うのである。で、この小説の真髄は、前者「80年代に子供時代を生きてテレビアニメを(あるいは子供のココロを持って)見てきた人」への小説的挑戦に他ならない。

 だいたい、タイトルの「ペンギン村に陽は落ちて」からして、「ペンギン村」から連想するものは世代によって全然違うだろう。ゼロ年代な人にとっては、知識はあっても記憶はないはずである。なんの意味も説明もドラマもなく、単なる通行人Aとして村道をウルトラマンやゴジラが歩いていて、いい加減な描写の木が生えた山が遠景に見える「ペンギン村」のなんともいえない妙を肌で感じている世代はかなり限られているはずだ。
 そして、この小説は全編的に、そのような刹那的な80年代のアニメやコミックの「空気」を捕まえて、当時はやっていたメタでポップな文学として昇華させている。少なくとも読者は「ドラえもん(もちろん大山のぶ代のもの)」「北斗の拳(「ひでぶ」「あべし」は小学生のマストアイテム」「サザエさん(カツオ君の声は今は亡き高橋和枝)」「キン肉マン(二世じゃないぞ)」「ガラスの仮面」さらには「鉄腕アトム」や「ウルトラマン兄弟」といった70年代以前のものへの追想、そしてもちろん「Dr.スランプ」とともに生きてきたことを求められる。

 実に周到な仕掛けで構造化されており、序文の後、第1章と最終章を「Dr.スランプ」で挟み、「ドラえもん」や「サザエさん」などで章は構成される。いちばん真ん中にくる章が、「ガラスの仮面」で、これがもっとも長大な章であり、私見を述べさせていただければ、これがこの小説中、中核を成すきわめて重要な章である。両端に配置された「Dr.スランプ」と、中央の「ガラスの仮面」がカギであり、その間を埋める「ドラえもん」や「サザエさん」は幕間、あるいは間奏曲とでもいえるような構成の妙である。マーラーの交響曲のようではないか。
 「ガラスの仮面」での主題は「同時代カンガルー」である。マヤに命じられた役は「同時代カンガルー」である。ただのカンガルーではない。超難題である。ここにこの小説が背負った「同時代への挑戦と超克」が集約されている。(ちなみにその「ガラスの仮面」が2010年のいまだに「連載中」、つまり同時代中であることに、高橋源一郎の驚異的な先見の明を見た)

 そして、最終章の「Dr.スランプ」後編。最後に夢のように霧のように散って消えていくこの虚無感、虚脱感。一炊の夢であったかのようなこの儚さに、ボーゼンとし、落涙するのである。これはもう源一郎マジックとしかいいようがない。


 どうだ。未読の人は読みたくなったでしょう。でも、これは繰り返すが、「「80年代に子供時代を生きてテレビアニメを(あるいは子供のココロを持って)見てきた人」でなければ、味わえない値千金の読書経験なのであーる。

 2010年になって、これが再販されるという。つまり、これはこの小説の主題である「同世代」をまさにカンガルーとして超えた反・同世代にさらされる試練ということである。
 そして、反・同世代において、この「ペンギン村に陽は落ちて」が、同世代に見出すことのできなかった新たな価値と真実が発見されることを期待してやまない。

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新宿遊牧民

2010年03月16日 | 小説・文芸
新宿遊牧民

椎名誠

 「哀愁の街に霧が降るのだ」に始まり、「新橋烏森口青春篇」「銀座のカラス」「本の雑誌血風録」「新宿熱風どかどか団」と続いた、自伝小説(らしきもの)の最新小説である。これらは出版社を渡り歩き、完全に自伝の形をとったこともあれば、小説仕立てのものもあり、初めはノンフィクションだったのがいつのまにか小説に変貌していたものもある。
 また、何より奇妙かつ貴重、ある意味、文学史上ほとんど例がないのじゃないかと思えるものとして、あまりにも長期にわたって自伝を続けたために、「新宿熱風どかどか団」のころには、「哀愁の街に霧が降るのだ」執筆の時期が含まれてしまう、という周回構造になってしまったことがあげられる。しかも、「哀愁の街に霧が降るのだ」は単なる回顧自伝はなくて、地の文のような形で(「地」といっても、この「地」がまたとてつもなく広くて起伏に富んでいたりする)、「執筆時の現在形」が頻繁に出てくる。それらがすべて、「新宿熱風どかどか団」では回顧として書かれるのだから、まるでメタSFを時間とカラダで本当に体現させてしまったかのようである。
 
 椎名誠の自伝に出てくる登場人物はみんな豪快なオトコ達である。僕自身はまったく胆力のないヘタレなのだが、椎名自伝だけはおいかけ、そのたびに、登場人物の筋金入りの剛の者っぷりに降参してきた。一番破天荒で滅茶苦茶でオモシロイのは「哀愁の街に霧が降るのだ」で、初めて新幹線の中で読んだ時は、東京から博多までの7時間を爆笑しながら過ごしたものだが、実は一番好きなのは「新橋烏森口青春篇」である。連作の中ではいちばん小説然としていて、まとまりがいいこともあるのだが、他の自伝と異なって、唯一「ヒロイン」が登場し、ちょっとした恋愛要素もこめられていて、これが椎名誠にして実に意外なほどに爽快なのであった。だから、連作の中ではいちばんソフトな印象を与えているのかもしれない。

 それに比べれば、本書「新宿遊牧民」は圧倒的に女人禁制の世界である。

 それぞれの連作にはそれぞれ特徴があるのだが、「新宿遊牧民」の最大特徴は、キャッチフレーズにもなっている「小川いっぱい小説」だろう。これは、スメタナの交響詩「モルダウ」のように、ここに出てくる異様に個性的な人物たちのそれぞれの「小川」のような人生が少しずつ合流し、その川岸に色々なお祭りを見ながら、最後には大河となって、海に出でるのである。もちろん文章はいつものシーナ調だし、「おもしろかなしずむ」は健在であるのだが、作者が「小川」と表現する割に、その「小川」がすでに濁流気味なのである。常連だった木村晋介弁護士や沢野ひとし画伯は今回はあまり姿を現さず、もっぱら随所でスパイスのように顔を出すだけだ(にしても「沢野ひとし」の“お約束”はもう吉本芸ですね)
 それら小川的濁流の中でも渦巻く本流となっている流れは、もちろん作者の椎名誠だろうが、それを除くと、裸一貫で上京して「血のしょんべんの出る」苦労をしながら新宿西口方面に居酒屋事業を展開していく太田トクヤ氏と、かの開高健に熱血営業をかけて仕事をモノにし、ついには読売広告社の会長にまで上り詰めた岩切靖治氏だろう。椎名風にどちらも「バカ」と書かれているが、この肝っ玉の座り方こそが一大事を成し遂げる肝心なところであり、世にはびこる「頭でっかちな秀才」が犬も食わないものであることを示してしまっている(西原理恵子の「上等な私立卒業したって世間は上等な私立じゃない」を思い出す)。
 これらをみると草食系男子なんてのは時代に喰われてしまってもしょうがないように思う。

 ちなみに、「新宿遊牧民」は連作の「本の雑誌血風録」執筆時あたりまで重なっているようである。というか、もうかなり“最近”にまで接近しているようなので、実は完結篇、あるいは次の自伝は当面先ということなのだろうか。



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