無頼化した女たち
水無田気流
新聞広告をみたら、本書が紹介されていて、あれ? 先に新書がでて、後からハードカバーを出すなんて珍しいなと思った。数年前に洋泉社新書から出た「無頼化する女たち」はなかなか面白ったのである。
だが、よくよく調べてみると、今度は「無頼化した女たち」である。微妙にタイトルが異なる。なるほど続編か、と思った。
そこでamazonで注文した。
で、届いて、本を開いて初めて知ったのだが、本書の半分以上は既刊「無頼化する女たち」の完全再録で占めているのだ。
うーん「無頼化する女たち 増補版」くらいにしてほしかったな。
それにしても、「無頼化する女たち」にある東電OL殺人事件の被害者女性の話は圧巻である。本当にすみませんでしたと頭を下げたくなる。彼女をさいなんだのは、女性の生き方に対して時代が投げた「呪い」のようなものであり、言わば彼女は時代の犠牲者であった。
さて、本書の増補部分で述べられるのは例の木島佳苗である。
こちらも罪状がホントならばまことに極悪非道の悪魔ということになるわけだが、一方で、東電OL事件との対比でみれば、木島佳苗は時代の復讐者であった。東電OL事件と同じ根っこを持つ呪いに対しての強烈な復讐心なのであった。
東電OLと木嶋佳苗を結ぶ一本の軸が見えてくれば、ここに日本社会の病理が表れる。
それは、「男性が期待する女性像」という呪いであり、もはやエートスと呼べる病理である。
これが「女性が期待する男性像」以上にエートスになっているのは、平たく言ってしまえば女性の場合「男性が期待する女性像」を全うし得れることができれば、それは当面の人生を全うできる、平たくいえば金や衣食住を獲得する大きなスキルとなってきたからである。それが良いとか悪いとか幸せとか不幸とかはおいといて。
かたや男性の場合、「女性が期待する男性像」を持っていても、持っていなくても、人生を全うできるかどうかのリスクは、少なくとも女性ほどの影響を被らなかった。これもそれが良いとか悪いとか幸せとか不幸とかはおいといて。
だが、「男性が期待する女性像」を天然でゆるふわでやりきれる女性は実はそんなに多くない。ひとつの社会的処世術として身につけているだけで、もちろん長いことそれをやっているから、身体感覚、運動神経感覚、あるいは生存本能感覚として身についていている人は多くとも、好きでやっているわけでは必ずしもない(同僚の武闘派系女子曰く、いまだにおじさんの多くが大カンチガイしている点)。
よって、その耐性がなく社会から強制されて破滅したのが東電OLであり、その気がなくても側(がわ)だけで強烈な耐性で徹底的に演じきってみせたのが木嶋佳苗であった。
この両端を極として、この「男性が期待する女性像」のエートスに対する攻防、正面突破から搦め手に目くらましに敵前逃亡、完全粉砕から妙手奇手にまで至る幾多の攻防こそが、女子の無頼化の歴史、それも本書言うところの「クソゲー」とも言える。
とはいいつつ、結局は僕は男性で、こんな遠巻きなことしか言えないのだけれど、果たして自分の娘はどのように育っていくのだろうか。
個人的には、ひとりで生きていける能力、すなわち自力で稼ぐ能力を身につけておいてほしいと思う。これは西原理恵子が繰り返す教訓に近く、そこにひどく共感するからである。曰く「自分で稼ぐということは自由を得る」ということ。金がないのは首がないと同じ、自由がないのと同じ。これがどれだけ人生を不幸にするか。
どんなにきれい事をいおうと、自力で稼ぐつまり自由に金を使える身分でないとこの国では幸せになれないのである。(女性の人生のロールモデルを扱う本でやたらに取り上げられるのが光文社の女性誌VERY。しかし、誰も言わないけど、僕はVERY妻(専業)ってすっごくDVのリスクがあると思うんだけれどなあ。)