これからのテレワーク 新しい時代の働き方の教科書
片桐あい
自由国民社
けっきょく、このコロナによってどのくらいの会社がテレワークに移行したのだろうか。
①原則として自宅からテレワーク。出社は例外的措置。
②週に何日かがテレワーク、何日かが出社。
③テレワークなし。ただし、通勤時間に配慮。
④これまでの勤務形態とかわらない。
また、いちおうコロナは収束はしたということになってはいるものの、予断を許さぬ状況なので、
(1)これからも原則としてテレワーク
(2)週に何日かがテレワーク、何日かが出社。
(3)テレワークはおしまい。ただし、通勤時間に配慮。
(4)コロナ前の勤務体制に戻る
とバリエーションがある。それぞれの企業がこれらの掛け算でやっているのではないと思う。
ところで、僕の勤務先は、②×(2)であった。
主眼は、社員の通勤時のリスクを減らすというよりは、オフィス内の人口密度を減らすところにあったらしい。1週間ごとに半分ずついれかわるパターンである。
このパターンは、自宅とオフィスのメリットデメリットを両方体感できるが、どちらかに環境整備を寄せられないのがネックだ。自宅勤務を完全にできるのであれば、自宅の仕事環境をもう少しなんとかするのだが、1週間おきというは中途半端である。かといって、会社に必要書類を置きっぱなしにするわけにもいかない。
しかも、社内の他の人と打ち合わせしようとすると、その人は自宅にいたりして、けっきょくオンライン上の打ち合わせになったりする。「この社員の半分を交互に入れ替わりにする」というのは、オフィスの人口密度を半分にするという経営の観点ではいいのかもしれないが、現場の身としてはどうにも中途半端である。
今後、このテレワークは拡大していくのか、それとも縮小していくのか。
長い目でみると、テレワークは進むんだろうなあ、とは思う。それはテレワークの流れというよりは、いわゆるデジタル・トランスフォーメーションのもっと大きく確実な流れがあるからだ。
オフィス勤務が続いてきた理由は、ハンコ文化とか書類文化とか、足で稼いでナンボという営業価値観とか、直接会わなければコミュニケーションにならないだろ、という組織の価値観とか、そういう、かつては確かに有効かつ唯一無二に機能していたもののが慣性的に継続していただけで、それがそのまま既得権益とか抵抗勢力とかチェンジコストの高まりになっていただけであった。このコロナによって外出できなくなると一気にデジタル・トランスフォーメーションの流れに乗った。
で、案外なんとかなったのである。もちろんそこにはオフィス勤務にはなかった制約がうまれたが、その反対にオフィス勤務がはらんだ問題からも解放されたのだった。通勤電車なんてのはその最たる例だ。
つまり、コロナみたいな災厄はきっかけにすぎない。その前の時代に「無理して続けていたもの」が、カタストロフィーとして一気に解放されて、その後の時代の構造改革に進んでしまうのである。こういう歴史は繰り替えされている。
ただ、完全にテレワークが一般になるにはもう少し時間がかかるかなあというのが直観だ。あと10年くらいだろうか。いまの企業の経営を司る年代が世代交代するまではかかるかなあと思う。パラダイムシフトは世代交代しないとなかなか進まないものだ。
一方で、下の世代は着々とテレワークでマルチコミュニケ―ションをとったり、成果を見える化するテクニックを身につけたり、セルフコントロールを会得していくだろう。テレワークする部下の人心掌握に長ける若いマネージャーも出てくるだろう。
これからの「仕事ができる」ビジネスマンとは「テレワークで仕事ができる」ビジネスマンのこと、という論調を、本書をはじめとしてあちこちで目にした。ということは出社を強制させる経営者は「できない」ビジネスマンを囲い込む経営者ということになるだろう。
先見の明がある経営者は、積極的に従業員をテレワークで仕事ができるように仕向ける、ということでもある。それは四半世紀前、インターネットが世の中に普及する前後の時代、積極的にWWWブラウザやEメールを導入した経営者と、電話で話し、ちょくせつ手と足で情報をとりにいくのが仕事だ、と信じてやまなかった経営者の違いでもある。