民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか? 神保哲生
少しく旧聞になったきらいもあるが、先の選挙や、その前の小泉郵政選挙なんかを観ていると、小選挙区制というのは暴発するおもちゃみたいなものだな、と思う。カタルシス抜群だが、その結果がどれだけ国民に利の形で帰ってくるのは、正直いってまだわからないのだ(少なくとも小泉郵政選挙の結果が国民にとって「利」だったのかどうかは、まだまだ評価が定まらないところだろう)
というのは、小選挙区制における得票率と議席数の関係を、あまり多くの人がまだいまいちピンときていないのではないか。僕自身もすんなりと咀嚼できていない。そこの調整をするのが比例区制だが、自民党大物の復活当選が目立ち、この比例区制は国民感情的に評判が悪い。しかも民主党はこの比例区による議席数を減らす公約を出している。
まあ、日本も小選挙区制の「毒食らわば皿まで」的な威力の経験を積んで、成熟していくのかもしれない。
ともあれ政権交代である。官僚に緊張感が走るだけでもその効はあるに違いない。
問題はその民主党が何をするのか、だ。なにしろ顔ぶれの多くが元自民党でもあるし、自民党の劣化コピーでは、なんて陰口もたまに聞かれる。
ただ実際において、民主党に期待している人もそうでない人も、実際に民主党が政策として何をやろうとしている連中なのか、というのをはっきりと見えている人はそういないのではないか(民主党本人も実はわかってないんじゃないか、という説もあるが)。
かくいう私もそうで、高速道路の無料化とか、子供手当てとか、農家の個別保障とか、歳入庁の設置とか、国家戦略局とか、無駄使い撲滅とかもろもろメニューは見えても、総体として、日本をどういう国にしたいのか、はいまいち見切れていない。脱官僚・政治主導といいつつ、断言してしまうが、多くの人間は官僚と政治の違いがいまいちわからないと思う。
が、8月30日の投票前日。池袋駅前での鳩山代表の演説の中継で、支持者が感極まった声で「がんばってください」「日本を変えてください」と握手を求めるのに対し、逐一「一緒にやろうな」「一緒に変えような」と答えていたのに妙に印象を覚えた。
で、本書を読んだわけである。ちなみにこの本の優れたところは、最初に概要・総論を大きく扱い、その個別具体内容として、99の施策を並べていることで、この最初の総論が非常にうまくまとまっており、結果的にその後の具体策も非常に腑に落ちやすく構成されている。だから読みやすい。
この鳩山代表の「一緒にやろう」は実は単なるその場限りの言葉ではなく、民主党は、本当に「一緒にやらなければならない」国をつくろうとしている。つまり、義務と権利を背負う。逆に言えば、自民党は、政治を「お任せ」する、あるいは「お任せ」できる政党だった。任せることができたから、自分たちは何もしなくてもよかった。何もしなくてよかった代わりに、何か悪巧みをされてもわからなかった。
民主党は、国民が政治に参加しなければならない。税金も社会保険もきちんとおさめなければならない。要求し、主張しなければならない。裁判員も務めなければならないし、地方の自治、地方税の使い方も学校の運営も参画を要求される。今まで自民党という政治家(と官僚)に任せていたことを、民主党が変わりにやってくれるわけではない。むしろ、民主党は市民が参加するそういう機会をつくる、ということだ。本書の指摘するとおり、民主党の「お手並み拝見」なんて言っていては、そもそもダメということである。「参加の機会が与えられる代わりに、参加をしない人の利益を代弁してくれる人がいなくなってしまう」、つまり怠惰な人には向かない国づくりを目指している。この理屈でいえば、国民の裁判員参加制度も、成人年齢を18才に下げることも、民主党的にはアリになる。じゃんじゃん司法や行政や立法に参加せよ、ということだ。
そして、国民の政治参加の実効性を高めるため、国民への監視能力はむしろ自民党時代のそれより高まり、違反に対する懲罰はむしろ厳しくなる。政治がクリーンになるために、国民もクリーンになるというわけで、乱暴にいうとシンガポールみたいな国である。あるいは「寛政の改革」での松平定信みたいなものかもしれない。その対比はもちろん田沼意次である。新自由主義とは要するに田沼時代のことで、彼はかつては悪人の代名詞だったが、その経済観から、最近は再評価のむきが大きい。その反対に、「改革」とまで称された松平定信政治は、いわゆる緊縮財政のそれで、経済史学的には失敗の典型のようにも言われている。
果たして「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」となるか。それとも、本当に住みよい日々になるのかどうか。
ただ、少なくと、亀井静香の「徳政令」は、いったいなんだありゃと思ったものだが。
少しく旧聞になったきらいもあるが、先の選挙や、その前の小泉郵政選挙なんかを観ていると、小選挙区制というのは暴発するおもちゃみたいなものだな、と思う。カタルシス抜群だが、その結果がどれだけ国民に利の形で帰ってくるのは、正直いってまだわからないのだ(少なくとも小泉郵政選挙の結果が国民にとって「利」だったのかどうかは、まだまだ評価が定まらないところだろう)
というのは、小選挙区制における得票率と議席数の関係を、あまり多くの人がまだいまいちピンときていないのではないか。僕自身もすんなりと咀嚼できていない。そこの調整をするのが比例区制だが、自民党大物の復活当選が目立ち、この比例区制は国民感情的に評判が悪い。しかも民主党はこの比例区による議席数を減らす公約を出している。
まあ、日本も小選挙区制の「毒食らわば皿まで」的な威力の経験を積んで、成熟していくのかもしれない。
ともあれ政権交代である。官僚に緊張感が走るだけでもその効はあるに違いない。
問題はその民主党が何をするのか、だ。なにしろ顔ぶれの多くが元自民党でもあるし、自民党の劣化コピーでは、なんて陰口もたまに聞かれる。
ただ実際において、民主党に期待している人もそうでない人も、実際に民主党が政策として何をやろうとしている連中なのか、というのをはっきりと見えている人はそういないのではないか(民主党本人も実はわかってないんじゃないか、という説もあるが)。
かくいう私もそうで、高速道路の無料化とか、子供手当てとか、農家の個別保障とか、歳入庁の設置とか、国家戦略局とか、無駄使い撲滅とかもろもろメニューは見えても、総体として、日本をどういう国にしたいのか、はいまいち見切れていない。脱官僚・政治主導といいつつ、断言してしまうが、多くの人間は官僚と政治の違いがいまいちわからないと思う。
が、8月30日の投票前日。池袋駅前での鳩山代表の演説の中継で、支持者が感極まった声で「がんばってください」「日本を変えてください」と握手を求めるのに対し、逐一「一緒にやろうな」「一緒に変えような」と答えていたのに妙に印象を覚えた。
で、本書を読んだわけである。ちなみにこの本の優れたところは、最初に概要・総論を大きく扱い、その個別具体内容として、99の施策を並べていることで、この最初の総論が非常にうまくまとまっており、結果的にその後の具体策も非常に腑に落ちやすく構成されている。だから読みやすい。
この鳩山代表の「一緒にやろう」は実は単なるその場限りの言葉ではなく、民主党は、本当に「一緒にやらなければならない」国をつくろうとしている。つまり、義務と権利を背負う。逆に言えば、自民党は、政治を「お任せ」する、あるいは「お任せ」できる政党だった。任せることができたから、自分たちは何もしなくてもよかった。何もしなくてよかった代わりに、何か悪巧みをされてもわからなかった。
民主党は、国民が政治に参加しなければならない。税金も社会保険もきちんとおさめなければならない。要求し、主張しなければならない。裁判員も務めなければならないし、地方の自治、地方税の使い方も学校の運営も参画を要求される。今まで自民党という政治家(と官僚)に任せていたことを、民主党が変わりにやってくれるわけではない。むしろ、民主党は市民が参加するそういう機会をつくる、ということだ。本書の指摘するとおり、民主党の「お手並み拝見」なんて言っていては、そもそもダメということである。「参加の機会が与えられる代わりに、参加をしない人の利益を代弁してくれる人がいなくなってしまう」、つまり怠惰な人には向かない国づくりを目指している。この理屈でいえば、国民の裁判員参加制度も、成人年齢を18才に下げることも、民主党的にはアリになる。じゃんじゃん司法や行政や立法に参加せよ、ということだ。
そして、国民の政治参加の実効性を高めるため、国民への監視能力はむしろ自民党時代のそれより高まり、違反に対する懲罰はむしろ厳しくなる。政治がクリーンになるために、国民もクリーンになるというわけで、乱暴にいうとシンガポールみたいな国である。あるいは「寛政の改革」での松平定信みたいなものかもしれない。その対比はもちろん田沼意次である。新自由主義とは要するに田沼時代のことで、彼はかつては悪人の代名詞だったが、その経済観から、最近は再評価のむきが大きい。その反対に、「改革」とまで称された松平定信政治は、いわゆる緊縮財政のそれで、経済史学的には失敗の典型のようにも言われている。
果たして「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」となるか。それとも、本当に住みよい日々になるのかどうか。
ただ、少なくと、亀井静香の「徳政令」は、いったいなんだありゃと思ったものだが。