終着駅 宮脇俊三
2003年に宮脇俊三が亡くなったとき、もうこれで永遠に、氏の書いた文章で、未見のものに接することはないのだ、とひどく悲しくなった。これからは、今まで何度も読み返してきたものを、また再読していくしかないのだ、と思った。
宮脇俊三の著書に初めて出会ったのは小学生のときで、まだ意味のわからない語句や読めない漢字もいっぱいあったが、それでものめり込んで読み、それまで刊行されていたものはすべて買い集め、それからは新刊が出るのを常に心待ちにしていた。そして、何度も何度も読み返した。
晩年の作品はかなり枯れていて、往時のような天馬空を行く文章の妙は味わえなくなったが、それでも新刊が出るたびに買い続けていた。今でも一番気に入っている作品は初期から中期にかけてのものだが、一人の作家の全作品を、刊行とほぼリアルタイムで接してきた作家は宮脇俊三だけだった。
だから、本書を書店で見つけたときは、なんだこれは! と非常に驚いた。あちこちで書いた単行本未収録を寄せ集めたものだが、初出一覧をみると、初期から中期のまさに油がのって絶頂期の頃のものが集まっていた。
まさか宮脇俊三の未見の文章が読めるとはと、とにかく嬉しくて、最初の1ページをめくることさえもったいなくて、その1ページを何度も読み返した。こんなウブな読書も久しぶりだと思った。
夢中で読んで、1日で読み終えてしまった。また、喪失感が出た。帯に記されているように、今度こそ「最後の随筆集」だろう。本書のタイトルのごとく「終着駅」なのだった。
だが、最後に想像してなかった誤算があった。
巻末の解説に、氏の長女である宮脇灯子氏の寄稿があった。灯子氏は、「あの宮脇俊三の娘」ということで、ここ数年の間に、俊三氏のことや、俊三氏の意思を継いだ鉄道や旅行の著作あるいは寄稿を重ねており、もちろん彼女の著書は購入して読んでいた。ただ、率直に言わせてもらうと、文章力・観察眼・問題意識・教養その他で、父の超絶技巧的な冴えとはさすがに比べようもなく、「宮脇俊三の娘」でなければ、なかなか通用しなそうな面も散見された。
が、本書の解説文は、非常に完成度が高かった。シンプルだが気が効いていて、ちょっとした問題提起もあって、だが全体はさりげなくユーモラス、そう、俊三氏のDNAを垣間見た。
灯子氏の文章は、明らかに鍛えられ、成長していた。もっと読んでみたい、と思わせる文章だった。
宮脇俊三の作品は、本書で今度こそ本当の「終着駅」だ。だが、新しい線路が、その先に続こうとしていた。
まことに慶賀の至り。