店長がバカすぎて いつかの岸辺に跳ねていく ライフ 逆転力 人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした じぶん・この不思議な存在
ライトな読み物を立て続けに読んでいてここにまとめて記録。
店長がバカすぎて
早見和真 ハルキ文庫
本質的には書店を舞台にして出版業界の内実などにも触れた「お仕事小説」だが、ライトなミステリー要素が加わっていて、最後のほうで伏線回収、あえてのミスリード、叙述トリックまで加わるという突然の乱戦状態に面食らってしまった。
店長をバカ呼ばわりするのは主人公谷原京子さんである。店長だけではない。谷原さんの一人称で書かれるこの小説、つまり自分のまわりはもうバカばかりである。バカすぎる小説家に、バカすぎる社長に、バカすぎる出版社の営業に、バカすぎる神様(つまりお客様)にきりきり舞いをさせられる。ここらへんはお仕事小説の真骨頂である。なぜ自分のまわりはこんなにみんなバカすぎるんだろうとは、どの仕事においても誰もが思うはずだ。
ということは、自分も誰かにとって「バカすぎる」はずである。仕事とはお互いに「バカすぎる」と思うエネルギーで動いているのかもしれない。
いつかの岸辺に跳ねていく
加納朋子 幻冬舎文庫
だけれど、誰だって誰かとの距離感と相互作用の中で生きている。相手あっての自分だし、自分あっての相手である。「バカすぎる」ならまだましである。「愛」の反対は「無関心」。一番切ないのは話が通じないことだ。話を聞いてもらえないことだ。
この小説におけるヒロインである徹子の孤独は、彼女の持つユニークさゆえに絶望的な運命を背負わされる。徹子からは相手が見えていても相手から彼女の言いたいことを伝える術がない。相手は目の前にいるのに徹子の思いは透明人間のようにすべてすり抜けていく。狂おしいほどのもどかしさがある。徹子はその処世術で表面上はフラットを装っているが、それだけに内実は断末魔の爪痕のようなレリーフになっている。巻末の解説で北上次郎氏が「驚くぞ!」と書いているがフラットの裏側にここまでのレリーフが刻み込まれていることに本当にびっくりする。
だけど、実は徹子自身も気づいていなかった。徹子にも近くの人はいた。一人ではない。熊みたいな幼馴染護くんを始め、何人もいた。ちゃんと目に入っていなかった。徹子もまたちゃんと認識していなかったのだ。徹子という凍結された世の中だって、自分さえ相手を認識すれば、「自分を認識しようとする相手がいる」ことを認識すれば、幸福の道は動き出すのだ。
ライフ
小野寺史宣 ポプラ社
この小説の主人公幹太くんだって、いったんは自分の周りから人がいなくなって喪失感のうちにただ無為に毎日を過ごすだけだったが、新たな人々と知り合うことで少しずつ前を見るようになった。アイデンティティとは自分の中にあるようで、じつは他人がいてくれるからこそ見つかる。劇的な出来事はほとんど起こらない小説だが、「がさつくん」ことアパートの住人やご近所さんと知り合い、関わっていくことで、少しずつ少しずつ幹太くんの目の焦点は定まっていく。
それは、他人と関わることで自分自身を上から見つめるような感覚を手に入れるということかもしれない。自分を見つめるためには他人との相互作用が必要ということだ。自分を上から見つめる感覚、世阿弥はこれを「離見の見」といった。相手あって初めて自分というものは客観視できるのである。
逆転力 ピンチを待て
指原莉乃 講談社
相手あっての商売といえばアイドルである。この商売は絶妙な自分への客観視が要求される。とある情報サイトで見た話だが、アイドルになれる三条件とは「ネットの誹謗中傷に耐えられる方」「自分の推しだったはずの人が別の人のヲタクをしていても耐えられる方」「特典会で自分の列が少なくても耐えられる方」なのだそうである。
しかし、アイドルになりたい人というのは本質的に人一倍承認欲求が強いだろうし、自己肯定感に翻弄されやすいであろう。それなのにこのアイドル三条件とは。アイドルというのは他人の目線に敏感な資質を持つ人でありながら、かつ他人の言動に鈍感な気質でなくてはやっていけない稼業なんだなと思う。鋼のメンタルが必要であろう。
したがって、指原莉乃のメンタルの強さというか、この人の抜群のサバイバル力には一目置いている。HKT移籍のきっかけになったスキャンダルを武器にのまさかの大逆転ホームランは芸術的とさえ言えるし(ある意味で秋元康の才覚を見た思いもする)、空気を読む力に長けているのだろう。本書でのブルーオーシャン戦略や「離見の見」まで彷彿とさせる彼女の生存戦略はバカにできないところがある。「うんと偉い人にはフランクに、ちょっと偉い人にはていねいに接する」は世渡り術として名言であろう。実は彼女は他人との距離感をうまくはかる名人なのだと言える。
人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした
大木亜希子 祥伝社
指原のようにサバイバルできるアイドルはほんの一握り。本書の著者は元アイドルである。強制的なグループ「卒業」の後、一般人として働きだすも酷使されすぎたメンタルでパニック障害にまでなってしまった。「人生が詰んだ」著者が「赤の他人のおっさん」とのシェアハウスで少しずつ治癒されていく話だが、そう簡単には治らない。彼女の心を乱す出来事が次々と起こる。自分の気持ちをコントロールできないで七転八倒する。それでも少しずつ癒されていく。この過程において「赤の他人のおっさん」ことルームの家主「ササボン」がとってくる距離感は絶妙だ。距離感こそが人を救うことの見本であろう。
「バカすぎる」でも「熊」でも「がさつくん」でも「赤の他人のおっさん」でも。「見ていてくれている」ことでようやく自分のアイデンティティは定まってくる。
じぶん・この不思議な存在
鷲田清一 講談社
その指原の逆転力の中に「他人が決めたキャラにはとりあえず乗る」というのがあるらしい。それが持続可能性があるかどうかは慎重に判断する必要があるが、ニーズには乗るということなのだろう。この他人あっての自分、他人の認識あっての自分、を自己問答したのが本書。
とはいっても、他人から認められない限り「じぶん」など無いという承認欲求の話ではなく、著者の視点はもっと深淵だ。ポイントは他者がこの「自分」を「一個人」としてどう認めているかどうかだ。いちばん辛いのは他人にとって自分が「無関心」、空気なような存在になるときである。「無関心」でなければ、「好き」でも「キライ」でも「尊敬」でも「嫌悪」でも「バカすぎる」でもひとまずは良いのだ。なぜならばその世界において間違いなく「自分」がそこにいて世界において影響を与えていることになるからだ。伝聞だが、太平洋戦争で捕虜になった日本人が、自分たちの目の前で女性の米兵が着替えだしたとき、かの日本人はヒドイ虚しさを感じたそうである(人間扱いしていないということ)。
幼児がとてとて歩いて転んで泣いた。これは痛いから泣くのではなく、親に痛い思いをした自分を見てもらいたくて泣く。誰も見ていないときに一人で転んでも泣かないことが多い。そこで親は子どもが転んだとき、大丈夫?というのではなく、「見てたよ見てたよ」といって駆け寄る。そうすると子どもは気持ちを落ち着かせるそうだ。
ということは、自分もいつも誰かを見ていたいものである。そうすることで、その人がアイデンティティを持てて、しっかりと生きていくことができていることだってきっとあるはずだからだ。