GHQ ゴー・ホーム・クイックリー
中路啓太
文芸春秋
日本国憲法はGHQから草案を押しつけらられた憲法である、というのは有名な話である。
日本史の教科書とか、あるいは日本史をあつかった学習まんがなんかだと、日本側が提案した憲法改正案がほとんど大日本帝国憲法からの微修正だったので、業を煮やしたGHQがみずから草案を作成し、それが最終的に日本国憲法となった、なんて説明がされる。
大筋のところではそうだけど、実は細部ではけっこうなドラマがある。日本国憲法の成立過程は詳細な専門書や研究書がいくつかある。最近も関係者の証言を集めた「証言でつづる日本国憲法の成立経緯」というなかなかの力作があるのだけれど、素人にはちと荷が重い。
それに比べると、本書は小説なのでたいへん読みやすい。しかし、小説とはいえ当時の議事録などを多いに参照しており、そのやりとりは基本的に信用してよいだろう。小説だからフォーカスポイントが取捨選択されており、前文と、皇室の地位をめぐる話、そして戦争放棄をめぐる憲法9条のところに話を集中させているところも一介の日本国民としてはいい塩梅だと思う。
しかし、そのフォーカスされたところは条文の一文一句をめぐる攻防が詳細に描かれる。なるほどだからあんな変な日本語なっているのかと納得したりもする。
本書を読んで思ったのは、GHQから草案を押し付けられてそれが日本国憲法になった、と短絡的に結び付けるのもかなり粗暴なんだなということだ。結果的に「自己欺瞞」という内省を残したり、自衛隊をめぐる解釈のあいまいさを許してしまったのは事実で、それを根拠に断罪してしまうことはもちろんできるが、現行の日本国憲法の成立はそれはそれで尊重というか、敬意をもってよいだけのプロセスがあったのだとは感じた。つまり、敗戦国として占領され、GHQ(さらにその背後にいる極東統治委員会)の無理難題を押し付けられながらも唯々諾々としたがうのではなく、日本国民として積極的にその価値観を世界に発信させるのだという気概があったのだということがわかる。天皇制を守るための攻防もそうだけど、軍部の暴走を許してしまったとはいえ基本的に日本は立憲民主主義の基盤をもった国であったのだというプライドと、大日本帝国憲法が定めるところの議会プロセスの遵守、廃止が運命づけながらもその矜持に最後まで凛とし、勤めを全うしようとする貴族院、かつて天皇機関説を支持したために表舞台から石もて追われた金森大臣による日本国憲法を成立させるための捨て身の答弁など、パッションといってよい熱い戦いが日本国憲法の成立にはあったのである。国の憲法という重大なプログラムにそんな感傷的な眼差しはいらないのかもしれないが、しかしイギリスの大憲章にしろアメリカの独立宣言にしろ、国のアイデンティティが宿る文書はどこか感傷的なものを抱えているのも事実だ。
ことしは新天皇の即位があり、もしかすると憲法改正の国民投票の道筋も開かれるもしれない。改正すべきかしないべきかをどう判断するかはもちろん人それぞれだし、現代の日本は国民ひとりひとりがそれを考える権利がある。ただ、きっとまた政局ごとにしまったり、ワイドショー化してしまうんだろうなと思ったりもする。日本国憲法の改正というのはもちろんセンセーショナルだけれど、単にセンセーショナルに騒ぎ立てるだけでなく、ちゃんと現行憲法成立の過程の尊重と検証、そしてどうすべきかの判断という、つまりじっくりむきあうことが成熟した国民のつとめなのではないか、と柄にもなく思ってしまった次第である。