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歴史という教養

2019年02月03日 | 哲学・宗教・思想

歴史という教養

片山杜秀
河出書房新社


 「温故知新主義」という漢字六文字の概念を新書一冊にわたって解説する試み。

 著者は言う。我々は生きるにあたって歴史に学んで未来の行方をさぐらなければならない。そのやり方は「温故知新主義」でなければならない。「保守主義」でも「復古主義」でも「ロマン主義」でも「啓蒙主義」でも「反復主義」でも「ユートピア主義」でもない。また、「歴史小説」に学ぶのではなく、「偉人」に学ぶのでもない。

 じゃあなんなんだとつっこみたくなるが、ここにならべた主義の欠点をそこまでいうかってほどに叩きのめして捨象しながら、「温故知新主義」なるものの厳格な主題を、荻生徂徠のテーゼを出発点に浮き彫りにしていく。  

 本書で主張する「温故知新主義」とは、空白の未来に対峙するとき、過去の歴史を「炭鉱のカナリヤ」のようにかざしながら次への一歩を思考する態度である。歴史にあたるカナリヤ(過去におこったすべてのものは「歴史」になりえる)を集められる能力、その未来は空白であることを知るという能力(未来とは原則的に未知なものである)、かざしたカナリヤの反応を読み解く能力、そのカナリヤの反応から次の一歩を思考する能力である。

 かくして温故知新主義の正体が明らかになったが、著者の言及はそこで終わりではない。その「温故知新主義」も、実は全ての歴史は興亡を繰り返すという「興亡史観」を母体とするものであり、興亡史観は数ある史観のひとつにすぎないとする。ちなみにすべての史観は5つのタイプに分類できるのだそうで、他の4つは「右肩下がり史観」「右肩上がり史観」「勢い史観」「断絶史観」である。

 どの史観をとるのも見立て次第ということだが、とはいえ「興亡史観」以外は実はとても剣呑で野蛮なプログラムが忍び込みやすいことを本書は訴えている。「右肩下がり」はニヒリズムだし、「右肩上がり」はファシズムだし、「勢い」はポピュリズムだし、「断絶」は革命思想となる。なるほどなるほど。ばっさばっさと切っていくのは痛快ですらある。

 したがって、興亡史観こそが歴史を教養にするには必要な態度であり、それは「温故知新主義」という形をとるということで、めでたく論は完成する。その過程は、とにかく饒舌というか過剰というかあんたは古舘伊知郎かというくらいまくしたてられ、圧巻なことこの上ない。明治時代の弁士ってこんな感じだったんかな。その「勢い」にあてられて、ついつい読書中にやってくる仕事のメールの返事まで饒舌な文章で返してしまった。同僚は面食らっちゃったかもしれない。

 

 ところでぼくはむかしから「温故知新」というコトバは好きであった。座右の銘といってもよい。もっとも著者のようにこの言葉の深部にどこまでせまっていたかはわからないが、なんとなく本書が語り倒すようなことをぼんやりと思ってはいた。僕の心づもりは”新しい局面にあたるにあたっては歴史にヒントがある”とか”この先なにがおこるかのヒントは過去の似たような歴史にある”くらいのつもりだが、この”ヒント”くらいのあいまいな感じは著者のいうところの「温故知新主義」とそう違わないのではないかと思ったのである。

 ぼくが歴史にヒントをすがるのは、新しい局面というものに対していつも小心者であるというに過ぎない。「なんとかなるだろう」という楽観視や「なせばなる」のような気合がどうしても僕にはもてず、臆病風にふかれてしまう。そんなとき、せめて過去に類例がないかを思いめぐらし、その結果から少しは傾向と対策、あるいは覚悟を決めるといったに過ぎない。

 ただ、この「傾向と対策」という態度が僕をして、なんとなく結果的にはいまも特に破綻なく健康で安定的な生活を導くに至っているのではないかともちょいと思う。未来に対しての不安は消えないし、相変わらず僕は新しい世界や局面に対して臆病になりがちだけれど、その警戒心が歴史に何かヒントをもとめ、それが今回の場合にあてはまるかあてはまらないかも確信はもてないけれど、何も考えずにつっこむよりはまだ精神的に負担が少ない。結果、現在の僕のステイタスは心身の健康も家庭も仕事もまあまあ悪くはないんじゃないかとは思っているのである。そんなしみったれたことを「温故知新」といっては荻生徂徠に怒られるかもしれないが。


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