こんばんは。
本日の京都は朝からとてもいいお天気。
気温も陽射しも、少し早い夏を思わせるようなものでした。
もう少し、春の穏やかな風を楽しみたいものですが、
熱気をはらんだ風は駆け足で夏を目指しているのでしょうか。
…あっと言う間にGWも終わり、ようやく日常が戻ってきたと
思ったのも束の間、またもや週末。
なかなか元のサイクルに戻れそうにない宗流です^^;
さて。
今日はここからは少し真面目なお話ですが、途中まで読んで頂いて、
苦手だと思われた方は、どうぞスルーして下さいね。
…前回も若干元気に欠けたお話となりましたが
今回もどうも微妙な心持ちです。ゴメンナサイ。
こういう時って重なるものなのでしょうかね。。
宗流、先日ある邦画のDVDを観てからというもの、
なかなか気分がすぐれません。
それは体調がではなく、心境が、なのですが。
2008年の上映当時、マスコミにも大きく取り上げられたので、
もしかしたらみなさまの中にも、この映画をご覧になった方が
いらっしゃるかもしれません。
「闇の子供たち」
観終わった後あとまで、何とも言えない閉塞感が
胸を締め付けているような気分になりました。
それほど私には衝撃的で重い内容の作品でした。
私は映画のレビューを上手く伝えられそうにありませんので、
詳細な内容には触れませんが、この作品はタイの幼い子供たちの身に起こる
目を逸らしたくなる惨状を背景に、映画の主題となる軸が展開していきます。
子供である事、貧困である事、そんな理由で人間の人間たる権利が
何の存在意味も持たないなんてあるのだろうか?
またその逆であれば、どんな権利も得る事が赦されるのだろうか?
そんな解決を見る事のない問いが、今も胸に浮かんでは消えています。
私は普段、あまり理論立てて物事を考える方ではないように思います。
目で見たもの、肌で感じた事、感情が動く時の瞬間に頼りがちです。
その分、もしかしたら色んなものの許容量があまり大きくないのかもしれませんね。
そしてフィクション・ノンフィクションであれ、何らかの情報を得て
それが怒りや悲しみ、疑問や不信感へと変換された時に
うまくその整理がつかない時があります。
猫が自分の毛づくろいをして、その舐めた毛を毛玉として吐き出すように
私も心の中に溜まった毛玉を吐き出せればいいのですが、
物質として質量があるものではないせいか、
それはなかなか簡単にはうまくいかないようです。
陽が昇る事、光が空に満ちる事、闇が視界を遮る事…
それは地球の上に足をつける者の上にあるべき自然な事なのでしょう。
でも、それが当り前ではない現状が世の中にはある。
物に光が当たれば、反対側には影ができる、
でもそれは方向を変えれば光は影に、影は光に変わる。
でも、その方向が変わらない状況があるとしたら…
それは一体何を持ってすれば変わるものなのでしょうか。
【※ 本日の画像 すずらん】
ヨーロッパでは、この花を5/1に贈る習慣があり
贈られた人には幸福が訪れると言われているそうです。
また一般市場にはドイツすずらんが出回っているのですが
野生の日本種のものは「君影草」と呼ばれています。
ヨーロッパ種は葉から花軸が立つような形で花をつけるのですが
日本種のものは葉が花を抱き込むような形で花を咲かせます。
そこから上の和名がついているそうです。
宗流にはすずらんはどこかランプシェードを連想させます。
この花の届ける幸福が光に満ち、それが広く世界を照らせばいいのに…。
宗流
和装小物 宗流
http://www.sou-ryu.jp