【改題】ひとり公論(IT公論)

アラフィフとなりIT土方卒業したのでタイトル変更しました
こちらはどちらかといえば再録中心

ヒトはヒト、よそんちはよそんち。

2010-03-21 06:24:00 | メルマガ移行
No.98 (もうすぐ100号)
  
【my格言】
-下請けに作業やってもらうときに「すみませんがお願いできますでしょうか」と平身低頭だったのに、それを上に報告するときは、「ヤツらグズグズしてたんで『やれ!』といっときましたよ!」なんて、まるで命令したかのように。(20081017)

(格言と本文とはほぼ、関係ありません) 

 
 
おつかれさまです、龍澤です。

 
また、「ムカシ話」を思い出したので、書きます。

ムカシは、いくつかの零細SIer(とはいっても、自らSIなんてできるわけもなく、ただエンジニアを右から左へ横流しして利ざやを稼ぐだけの会社たち)から案件を紹介してもらっていた。
その案件というのは、多くは、「ブラック」と揶揄される中堅SIerから降りてくる仕事なのだが。。 

僕はよく、「通勤が遠いから」という理由で、断っていた。
その頃の僕のこだわりで。。片道DoortoDoorでおよそ45分を超える案件はお断りしていた。

それが、先方からみると相当気に食わなかったらしくてね。
小僧が何をぬかすか、と。通勤ラッシュに揉まれるのが企業戦士じゃないのか、通勤ラッシュを経験してこそ社会人として一人前じゃねーのかよ、等々。。

思い返せば、複数のヒトたちから似たようなことをなんども言われた。
そして、僕の中ではその事実を未だに消化しきれていないようだ。(だからこうやって、書き出して「膿を出しきる」必要がある)

案件の紹介っていうのはビジネスマン同士のビジネスのやりとりなわけでしょ。そこに「オマエは、社会人としてどうなのよ」という「見下し」が入ってくるからねえ。。

ブラックな案件をどんどん最底辺層にまわして、IT土方の人権を蹂躙してコキ使って利ざやを稼いでいるヤツらに「社会人として云々」なんていわれたかねーよ、
と、強く強く思っていたし、ギョーカイ体質のようなものに対してことごとく反発していた時期があった。

 
それに、自分は経歴書の自分の希望欄のところに、その旨(通勤は45分以内)明記してるわけだからね。
先方はそんな自分の希望などカンゼン無視して、IT土方案件をどんどん紹介してくる。
たとえばデータセンターの案件とかになると、そもそもロケーションからして遠いからねえ。。
人の集まらない、東京郊外、東京近県の案件をあえてセレクトして、僕のようなフリーの小僧(まさに「最底辺層」)に紹介しているフシもあった。「仕事を紹介してやるだけありがたいと思え」と。。

 
確かに自分も生意気な小僧であったことは間違いなく、今となれば少々反省もしているが、現場での自分の生産性を高いところで維持するために、通勤ラッシュに長時間もまれないこと、というのは自分の中でゼッタイ条件としてあった。
なぜなら、朝から、仕事が始まる前から疲れてしまうからだ。
自分はゼッタイ、「通勤ラッシュ」っていうものに慣れることはないだろうな、という確信があった。

 
それとね、若造にふってくるIT土方案件なんて、どうせロケーションが田舎だろうが都心だろうが、キツいに決まってるんだから、それだったら少しでも通勤がラクなほうがいいよね。。
それなりに条件の良い仕事というのは中間でみんな決まってしまって、我々のところまで落ちてくる仕事なんてロクなもんはなかった。

 
まァ、お断りできる、というのはフリーの特権でもあるけれど。。 会社に属している方々はなかなかそうはいかないだろうから。
でも、「断る」という行動に対して常にリスクを背負ってはいる。

仕事を選べる立場ではないのに、背伸びして選んでいるところからして、自殺行為に近いものがあったかもしれない。
でもあの頃、気を張って零細SIerの魑魅魍魎たちと対峙していた経験は、今となって相当役に立っている。

 
 
本題。
  
僕はだいぶムカシから、「職住近接」っていうのは「ワーク・ライフ・バランス」的にゼッタイ正しい選択に違いない、っていうのは、身体でわかっていた。
2時間も通勤ラッシュに揉まれるというのは、どう考えてもオカしい、と。。
そんなことは、少し考えれば誰にでもわかることだ。

その頃は「職住近接」というコトバも「ワーク・ライフ・バランス」もなかったけれど。。

 
かつて僕が小僧だった頃、郊外に家を建て、長時間ラッシュにもまれて通勤してくる企業戦士の生き残りみたいなヒトたちが、かさにかかって僕を「見下し」にかかった。「オトナになれよ!」と。
なぜ僕を口撃してくるのか? といえばそれは、嫉妬心からであったに違いない、と今となっては断言できる。企業に属さず、都心に住んで自転車通勤してる僕がうらやましかっただけなのだ。

僕は、通勤ラッシュを避けるために最終手段として、案件の多い都心に住まわざるをえなかっただけなのだが。。
自分の主義を通すために、自分の収入に相応しくない家賃の物件を借りていたから、生活も苦しかった。

 
彼らの言い分としては、「オマエのためを思って。。」忠告してやってる、みたいなことを、飲み屋で語ってたけどさ、僕のことを「いくつになってもふらふらしてる、社会性のないヤツ」と考えたくて仕方がなかったみたいだけど、結局ウラを返せばただ羨ましいだけ。
「夜の部」(飲み)になるとしきりに僕に絡んできたよなぁ。。
(そんなこともあって、僕は未だにサラリーマンの飲み会(ただのグチ大会)が好きではない)

 
僕は今でも、「いい歳こいて」、陽気のいいときは自転車通勤をしてるし、通勤ラッシュに揉まれてない。
そんな僕は、未だにガキでしょうか? 未だオトナになっていないのでしょうか?
家族を養い、一家の大黒柱として、フリーという身分でありながら必死で社会人たろうと頑張っているのだけれど。。
 
 
いっぱしの会社に就職し、郊外に家を建て、2時間かけて通勤することを受け入れることが「オトナになる」ことなのか?
逆にいえば、それを受け入れさえすればいっぱしの社会人になれるのだろうか? 人間的な素養の部分はどうでもいいの??
結局、「典型的なサラリーマンっぽくなる」だけでしょ。かつてはそれと「オトナになる」ことがうまくオーバラップしてたらしいんだけど。。
今はそんな時代じゃない。
 
 
都心の地価が下落してきた頃、郊外に家を建てたことを若干後悔し始めたヒトたちが、すこしずつ「職住近接」のメリットを認めざるをえなくなってきていた。
その頃の「彼ら」の動揺ぶりをつぶさにみていたが、結局彼らは、都心でのほほーんと自転車通勤してた僕よりもよっぽどオトナではなかったように思う。

 
「彼ら」は、郊外に庭付き一戸建てを建てる、という時点で、「勝ち組」であったはずなのに。。(「あった」と過去形なのがポイント)

僕も、条件付きで「彼ら」が「勝ち組」であることを許容してもよいと考えている。なぜなら、家を買うという行為は男子たるもの、最高のビックイベントだし、その大変さというのはよぉく知っているつもりだから。
 
でも、勝ち組だったら別に、都心の賃貸住宅にひしめきあって暮らしている人間たちをちらちら横目で気にしなくともいーじゃん。互いに違った世界に住んでいる人間として、共存してゆけば。

勝ち組であれば、も少しゆったりと余裕を持って構えていればいいものを。。
都心の家賃が下落し、サラリーマンが続々都心に流入してくるのをみて、すぐに動揺する。

確固たるものがない。ただ、「周りがそうしているから」という理由で郊外に一戸建てを買って移り住んでいるだけなのだった。
そして、「諦観」というものが感じられない。

郊外型の生活、絵に書いたようなマイホームパパ、休日は家族でドライブ、家族の笑顔がある暮らし、みたいなイメージを、実現させていれば、僕らのような最底辺層の人間が気になることもないでしょう? (と、ヒニクのひとつもいいたくなる)

僕だって、そういう「マイホームパパ」を実現しているヒトたちに対して尊敬の念を持つことだってできる。だが、そういうヒトたちがなぜか「上から目線」(かつてはこのコトバもなかった)でかかってくるので、反目せざるを得なかった。

 
 
かつて、中流が崩壊した、あるいは崩壊しはじめている、といわれたものだ。

郊外に家を建てるサラリーマン、というのは、自分が「中流」として確固たる地位を獲得し、もはや揺らぐことはないのだ、と周りに宣言しているようなものだった。
中流として確固たる地位を獲得した、という事実が勝ち組なのだ。

揺るがない中流のヒトたちが見下していた僕らは、「一億総中流時代」の中流の中の下層であった。中流の中でもそのようなヒエラルキーが存在していた。というか、「彼ら」が意識的にそのヒエラルキーを作り出していた。
「彼ら」は、見下す人間を見つけないとやってられないのだ。

それが崩壊した、というのはつまり、中流として確固たる位置づけを獲得しても、別に今の世間的にはうらやましく思われない、というか。。

中流のヒエラルキーが、ぐしゃぐしゃになってきてるわけね。中流の中でも多様性が生まれてきている。これは、日本の「豊かさ」がさらに一歩進化した証左であり、僕的にはとてもよい傾向であると思えるのだが。。
結果として僕のような人間が「下克上」できる可能性が大きくなってきたわけだし。

でも、「確固たる中流」のヒトたちにしてみると、少々都合が悪くなってきているのかもしれない。

そういうヒトたちは、自分のコドモらに「確固たる中流」を目指せとはいわないのだろう。
自分のライフ・スタイルに自信があるのであれば、自分のコドモたちにも同じ道を歩ませるはずだが、そうしない。

はっきりいってしまえば、自分のコドモらに対して、かつて自分がヒエラルキー的に見下していたような種類の人間になることを彼らは奨励しているような気がしてならないわけね。
僕にははっきりとそのように見える。でもそれは、「負け組」の行動パターンと同じではないのか?

 
おかげさまで、といったらいいのか、かつての「中流勝ち組」サラリーマンと僕らのような都心の狭い賃貸に暮らすフリーの人間(「フリーター」ではない)との対立の構図というのも、薄れてきていて。。
正直、その対立の構図が薄れてきていることで、僕のモチベーションが下がってきているというのもあるんだけど。。 
「今にみていろ」的な感情がなくなってきているからね。
 
 
 
結局、「ヒトはヒト」なのです。
僕はコドモの頃そのように教わったし、未だに「ヒトはヒト」というのは僕の座右の銘的なものとして君臨している。

みんな、「ヒトはヒト」って教わらなかった? 「●●ちゃんが持ってたおもちゃ買ってえ」とか「●●くんち夏休み海外旅行にいくんだって!」とか、親にいうと、「ヒトはヒト!」っていわれませんでしたか?

そして、コドモがいらっしゃる方であれば、コドモに今でもそう言うでしょう?
ヒトはヒト、よそんちはよそんち。

親が、他の家庭と自分の家をヒエラルキー的に比較していれば、コドモもそうなる。
親が、他人の職業と自分の職業の「貴賎」を考えているのであれば、コドモもそういうオトナになる。