何回も書いてるのかもしれないけど、
オイラの高校大学の同期とかのさ、いわゆる「何億のカネを動かしてますよ」的発言に対して、やっぱり違和感があるわけね。
そういうヤツらはもう日本経済の中心ですらあるから、管理職とかになってへーきでそういうことを言う。
でもオイラは、違和感はあるけれども、90%以上、そういうヤツらのことを頼もしく思っている。ココロからエールを送ってはいる。だが。。
そもそも「働く」とはなにか?
ひとつ。シンプルな経済原則である「安く買って、高く売る」。さっきの「何億のカネを動かしてますよ」は、突き詰めればこれに該当するのだと思う。
もうひとつはね、「何か」を行って、それにより結果を出して、それにカネを払ってもいいと考える人間が一定人数存在して、カネを受け取る、と。
オイラはもちろんこっちだ。
前者と後者には、大きなミゾがある。このミゾについて、今後、今よりももっと考えてゆきたい。
それにしてもこんなシンプルな経済原則に気付いたのが30代後半だってんだから。。遅すぎるよね。(しかも経済学科卒ですから!)
オイラはフリーでやっているわけで、オイラが行う作業の方向性、品質について、幸いにも今現在、カネを払おうと思う会社が存在する。
ただしそのカネは、一過性のものだ。つまり、働いた分だけ払う、という形態。
別にそれはそれでいい。こちらも合意しているのだから。
「結果」に対してカネが払われるのであって、その結果というのは、出したらおしまい。
何を言いたいかというと、本来は成果物に対してカネは払われているはずなのだ。
だのになぜ、オイラたちは、日雇いドカタのように、人月単価でカネが払われるのだろうか?
なぜ、人月働いたエビデンスとしての「勤務表」をもってカネが支払われるのか?
オイラはフリーになってから一度も、「物品」を納品したことはない。「システム」を納品したこともない。ソースコードをCDROMで納めたこともない。
だのになぜ、オイラは暮らしていけるのだろうか?
という根本の疑問に、立ち返る時期がきているんだよなあ。。
でもこの先はパンドラの箱なのだ。
オイラの高校大学の同期とかのさ、いわゆる「何億のカネを動かしてますよ」的発言に対して、やっぱり違和感があるわけね。
そういうヤツらはもう日本経済の中心ですらあるから、管理職とかになってへーきでそういうことを言う。
でもオイラは、違和感はあるけれども、90%以上、そういうヤツらのことを頼もしく思っている。ココロからエールを送ってはいる。だが。。
そもそも「働く」とはなにか?
ひとつ。シンプルな経済原則である「安く買って、高く売る」。さっきの「何億のカネを動かしてますよ」は、突き詰めればこれに該当するのだと思う。
もうひとつはね、「何か」を行って、それにより結果を出して、それにカネを払ってもいいと考える人間が一定人数存在して、カネを受け取る、と。
オイラはもちろんこっちだ。
前者と後者には、大きなミゾがある。このミゾについて、今後、今よりももっと考えてゆきたい。
それにしてもこんなシンプルな経済原則に気付いたのが30代後半だってんだから。。遅すぎるよね。(しかも経済学科卒ですから!)
オイラはフリーでやっているわけで、オイラが行う作業の方向性、品質について、幸いにも今現在、カネを払おうと思う会社が存在する。
ただしそのカネは、一過性のものだ。つまり、働いた分だけ払う、という形態。
別にそれはそれでいい。こちらも合意しているのだから。
「結果」に対してカネが払われるのであって、その結果というのは、出したらおしまい。
何を言いたいかというと、本来は成果物に対してカネは払われているはずなのだ。
だのになぜ、オイラたちは、日雇いドカタのように、人月単価でカネが払われるのだろうか?
なぜ、人月働いたエビデンスとしての「勤務表」をもってカネが支払われるのか?
オイラはフリーになってから一度も、「物品」を納品したことはない。「システム」を納品したこともない。ソースコードをCDROMで納めたこともない。
だのになぜ、オイラは暮らしていけるのだろうか?
という根本の疑問に、立ち返る時期がきているんだよなあ。。
でもこの先はパンドラの箱なのだ。