現在「晩秋」といって差し支えないと思いますが、晴れの日には未だ半そでの方、いますよね。
これも温暖化の影響なのでしょうが、早春あるいは晩秋に半そでで闊歩している
日本人の方は相当増えています。(東京しか知りませんが)
神宮外苑いちょう並木の紅葉は、やっとうっすら色づき始めた様子で。。
年々遅くなってゆきます。
葉が落ちきるのが、最近は12月中旬。つまり、都心はそこまでは秋ということです。
(と、いちょうは判断している。。)
あと10年もすれば、クリスマスまで紅葉がみられるという事態になってゆくのでしょう。
-「ココロのセマいヒト!」2
自分のやるべきことをしないで手伝ってもらってばかりいるが、ココロヤサしい
「自称」ココロのヒロいヒト
VS自分の仕事はきっちりやるが、それ以外のことは線引きしてやらない、「他称」ココロのセマいヒト
という図式だと思うのです。
自分の仕事をきっちりやって(かつそれが他人にも認められており)、さらに
他人の世話も焼くようなデキたヒトはこの話とは関係ありません。
この図式でどちらを支援したいかといえばゼッタイに後者なのです。
後者は前者につけこまれて自分の領域以外のところで無間地獄に陥らないよう
防御しているわけです。その代償として、前者からの「ココロのセマいヒト!」
攻撃に耐えなければなりません。
現代では特にそういう状況です。
自分の仕事を終えて、余暇を楽しんでいるときすら前者につけこまれるので、
余暇も余裕がないフリをしておかなければなりません。
前者は、常に後者の余裕につけこもうとしており、後者の余暇は自分の仕事をきっちり
こなすためにゼッタイに必要なものなのだ、という配慮すらできません。
それどころか、後者の余暇を奪って、後者が自分の仕事すらきっちりできない状況に
追い込み、後者を前者に引きずり込もうとすらするわけです。
でもなぜ、自分のやるべきことはきっちりやっているにも関わらず「ココロのセマいヒト!」
呼ばわりされなければならないのか。。特に、自分のやるべきことすらやってない
前者からそういう攻撃を受ければ「ふざけんな」ということになってきます。
前者、すなわち「コマってるんだから手伝えよ」といってくるヒトたちは、長期的に
統計をとってみればコマっていることが多いはずです。なぜかそのヒトたちに集中して。
そういうヒトたちは生活に進歩がないのです。
状況をカイゼンする能力がない。
そして、常に他人を利用しようとする。
利用したいのであれば前者どうしで傷を舐めあっていればいいのです。後者、つまり、
少なくとも自分の仕事だけはきっちりやろうとしている人間のジャマをしてまで
利用することはない。
-都会っ子の田舎体験 2007年06月11日05:46
東京のコドモって、田舎で育った自分らよりも何倍も、教育カリキュラムの中に
「自然に親しむ」みたいなのが組み込まれてる。まあ田植えとか野菜を育てるとか
郊外で虫をとるとかetc
最近ふと思ったことは、なぜ、東京のコドモにそういうカリキュラムが必要かといえば
「体験」が絶対的に不足してしまうから、というのはわかる。つまり、栄養補給
みたいなもんね。
で、なぜ、田舎のコドモの教育ではそういうカリキュラムが少ないかといえば、
日常生活でおおよそ体験できるから、という理屈が成り立つはずなんだけど。。
成り立たないじゃん、ということ。
田舎のコドモのほとんどは、地方都市に暮らしているわけで、地方都市の中に
「町っ子」(駅前の繁華街とかに住んでる)は、ほとんどコンクリートジャングルの中に
暮らしている。ライフスタイルはほとんど都会と変わらん。
地方都市の中の郊外に暮らしているコドモだって、大自然に囲まれているわけではない。
確かに、車で30分も飛ばせば、ホントの大自然に出会えるわけだが。。
車で30分のところにコドモどうしで行くわけもない。
つまり、田舎のコドモのほうが「栄養」不足になってゆく可能性がある、っていうことね。
ところで、都会っ子の「田舎体験」みたいのは、それが「非日常」であるという
共通認識があるから親も子も喜んでやっているのであって、それが「日常」になったら
死んでしまうぞ。
田舎体験というのは、結局はずっと都市で生きてゆくための「教養」のひとつにすぎない。
「サバイバル」なものではないってこと。
田舎体験が生半可な「教養」として組み込まれてゆくから、ハンパな「アウトドアライフ」とかが
流行るんだよな。日帰りあるいはせいぜい1泊ぐらいの「アウトドアライフ」すなわち
田舎体験の延長しかできないんだよ。それ以上自然の中にはとどまれない人種なの。
そういう自覚は持ったほうがいいと思うけどね。
自分は田舎で育ったから、完全にアンチ田舎体験派になってしまっていて、いわゆる
「アウトドア」は大キライだ。
車でたとえればいかにも4WDみたいなのよりはロードスターのほうが好きだ。
これも温暖化の影響なのでしょうが、早春あるいは晩秋に半そでで闊歩している
日本人の方は相当増えています。(東京しか知りませんが)
神宮外苑いちょう並木の紅葉は、やっとうっすら色づき始めた様子で。。
年々遅くなってゆきます。
葉が落ちきるのが、最近は12月中旬。つまり、都心はそこまでは秋ということです。
(と、いちょうは判断している。。)
あと10年もすれば、クリスマスまで紅葉がみられるという事態になってゆくのでしょう。
-「ココロのセマいヒト!」2
自分のやるべきことをしないで手伝ってもらってばかりいるが、ココロヤサしい
「自称」ココロのヒロいヒト
VS自分の仕事はきっちりやるが、それ以外のことは線引きしてやらない、「他称」ココロのセマいヒト
という図式だと思うのです。
自分の仕事をきっちりやって(かつそれが他人にも認められており)、さらに
他人の世話も焼くようなデキたヒトはこの話とは関係ありません。
この図式でどちらを支援したいかといえばゼッタイに後者なのです。
後者は前者につけこまれて自分の領域以外のところで無間地獄に陥らないよう
防御しているわけです。その代償として、前者からの「ココロのセマいヒト!」
攻撃に耐えなければなりません。
現代では特にそういう状況です。
自分の仕事を終えて、余暇を楽しんでいるときすら前者につけこまれるので、
余暇も余裕がないフリをしておかなければなりません。
前者は、常に後者の余裕につけこもうとしており、後者の余暇は自分の仕事をきっちり
こなすためにゼッタイに必要なものなのだ、という配慮すらできません。
それどころか、後者の余暇を奪って、後者が自分の仕事すらきっちりできない状況に
追い込み、後者を前者に引きずり込もうとすらするわけです。
でもなぜ、自分のやるべきことはきっちりやっているにも関わらず「ココロのセマいヒト!」
呼ばわりされなければならないのか。。特に、自分のやるべきことすらやってない
前者からそういう攻撃を受ければ「ふざけんな」ということになってきます。
前者、すなわち「コマってるんだから手伝えよ」といってくるヒトたちは、長期的に
統計をとってみればコマっていることが多いはずです。なぜかそのヒトたちに集中して。
そういうヒトたちは生活に進歩がないのです。
状況をカイゼンする能力がない。
そして、常に他人を利用しようとする。
利用したいのであれば前者どうしで傷を舐めあっていればいいのです。後者、つまり、
少なくとも自分の仕事だけはきっちりやろうとしている人間のジャマをしてまで
利用することはない。
-都会っ子の田舎体験 2007年06月11日05:46
東京のコドモって、田舎で育った自分らよりも何倍も、教育カリキュラムの中に
「自然に親しむ」みたいなのが組み込まれてる。まあ田植えとか野菜を育てるとか
郊外で虫をとるとかetc
最近ふと思ったことは、なぜ、東京のコドモにそういうカリキュラムが必要かといえば
「体験」が絶対的に不足してしまうから、というのはわかる。つまり、栄養補給
みたいなもんね。
で、なぜ、田舎のコドモの教育ではそういうカリキュラムが少ないかといえば、
日常生活でおおよそ体験できるから、という理屈が成り立つはずなんだけど。。
成り立たないじゃん、ということ。
田舎のコドモのほとんどは、地方都市に暮らしているわけで、地方都市の中に
「町っ子」(駅前の繁華街とかに住んでる)は、ほとんどコンクリートジャングルの中に
暮らしている。ライフスタイルはほとんど都会と変わらん。
地方都市の中の郊外に暮らしているコドモだって、大自然に囲まれているわけではない。
確かに、車で30分も飛ばせば、ホントの大自然に出会えるわけだが。。
車で30分のところにコドモどうしで行くわけもない。
つまり、田舎のコドモのほうが「栄養」不足になってゆく可能性がある、っていうことね。
ところで、都会っ子の「田舎体験」みたいのは、それが「非日常」であるという
共通認識があるから親も子も喜んでやっているのであって、それが「日常」になったら
死んでしまうぞ。
田舎体験というのは、結局はずっと都市で生きてゆくための「教養」のひとつにすぎない。
「サバイバル」なものではないってこと。
田舎体験が生半可な「教養」として組み込まれてゆくから、ハンパな「アウトドアライフ」とかが
流行るんだよな。日帰りあるいはせいぜい1泊ぐらいの「アウトドアライフ」すなわち
田舎体験の延長しかできないんだよ。それ以上自然の中にはとどまれない人種なの。
そういう自覚は持ったほうがいいと思うけどね。
自分は田舎で育ったから、完全にアンチ田舎体験派になってしまっていて、いわゆる
「アウトドア」は大キライだ。
車でたとえればいかにも4WDみたいなのよりはロードスターのほうが好きだ。