運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

星野道夫ふたたび

2006年08月14日 00時39分10秒 | Weblog
私の誕生日は11月5日の朝の8時20分、そして、パートナーは5月11日の夜の8時20分生まれである。
誕生日の数字がことごとくが逆さまなせいなのかどうか、彼と私の感動のツボもいつもマギャクである。

その二人が、松屋で行われていた星野道夫展の会場に足を踏み入れたとたん、ほぼ同時に、感無量に。やはり、圧倒的だ。いいものはいい。

かつて、何度も観たはずの作品も、読んだはずの彼の言葉も、まるではじめて出会ったかのように、一回ごとに違う角度から、そのときどきの私たちを照らす。
『忘れていないか』『ちゃんと生きているか』そう問われてしまう。

彼の撮ったものたちはなぜすべて、こんなに生きているのだろうか。
カリブーも、白熊も、白頭ワシも、花も、岩も、大地も、稜線も、何もかも。
もしも、空から神様がこの地球上のすべてを愛情をもって俯瞰したならきっとこんな感じに見えるのだろうと思ってしまう。

星野道夫がアラスカと出会った瞬間は、神田の古本屋でシシュマルクという村の本を手に取ったとき。
そのときに彼の中をはしっだであろう静かな電流を、勝手に思い浮かべて身震いして、さらに、
   『  私たちには、多くの選択などないのかもしれない。
      それぞれの人間が
      行き着くべきところに
      ただ行き着くだけである。      』
という彼の言葉にうたれてしまう。
それは決して自力を放棄した受身の者の言葉ではないだけに
それをも超える、大きなものがあるということを厳かに感じさせられるのだ。

最近、ようやく合点がいったことがある。
映画であれ、小説であれ、音楽であれ、私が思わず泣けてしまうものは共通して
誰かの目の前に、その者の運命が姿をあらわす瞬間が描かれている部分だということだ。
ささやかな、予言的な象徴であれ、美しい音楽とともにクローズアップされているシーンであれ、とにかく泣けてしまう。

それにくらべ、我がパートナーは、運命と出会う部分はとんと響かず、運命を切り拓くシーン、立ち向かうシーンにやたら感動するタチだ。
先日、亀田親子のタイトル戦を観るために、早々に帰宅してきた大興奮ぶりだった、が、これは誕生日が逆なせいではなく、男と女という性別の違いか。
(男って、なぜ格闘技が好きなのだろう。)

というわけで、このブログを見つけてくださった方の中には、この紛らわしいタイトルに、占いか何かを期待され方がいらっしゃるかもしれないけれど、実はただ、『運命と出遭う時』のシーンにいたく弱い私めが、感動したものをつれづれに紹介していきたい、そう考えて始めたブログなだけなのであります。どうぞヨロシク。