数年前、はじめて「4分の1の奇跡」の入江監督と
当時は編集者で我が夫、いまは自らも映画監督と称して全国を好演している人を
引き合わせたたまサロンで、その入江監督の最新作「天からみれば」を観ました。
あの時、入江さんは初対面の我が夫(当時)の顔を見るなり
『わー、なんでか泣けてくる~」と涙を何度も拭いてたけれど
かれは私には
「あんなの映画じゃないよ、あれで映画監督といっているのは不遜だよ」と
「4分の1」のことを評していたっけ。
それがいまや自分も会社で映画を作り、
いつのまにか、その「4分の1」と対の作品扱いに収まっている経過はわからないけれど
いずれにしろ、きっかけになった場所での上映会なんて感慨深い☆
後に大石順教尼となる女性の壮絶な人生、そこから至る、受容と、見守りの心、強さ、明るさ、。。
究極の人がいう言葉は共通に「よかったね」だと知りました。
かの、青森の、弘前の、すべての時間を他者と神さまにあずけきって、
寝る間もない方も、多くは語らず、陰で配慮と努力をされて、
「よかったね」だけおっしゃいます。
映画の中で平行して描かれる、順教さんに育てられた画家、
南正文さんの絵は、ほんとうに、
いのちのつよさ、はかなさ、やさしさ、きびしさ、・・・が昇華されていて素晴らしいのです。
桜の中から、世界を見守る龍、
あれは、実際にいつもこの世界にいて、あのようにこちらを観ているに違いないと感じました。
順教さんの両腕を切り落としたことで、結果としては
その魂の真の輝きを発揮させるまでになるという役割をした、養父、
つまり、天から見れば、人知ではわからない役割分担とはたらきがあり、
すべてのことは絶対に必然。。。そこまでがこの映画では語られています。
けれど、さらに思うのです。
順教は、心から敬愛していた養父が乱心して自分の腕を切り落とした直後、
その父の罪が軽くなりますようにと、まず嘆願し、
自分は見世物小屋で見世物になりながら稼いだお金で、彼の墓を建てるのです。
『お父さんがわるいんじゃない』・・そう、背景には、彼を裏切り、甥と駆け落ちして、
残った家族全員を死や苦しみに陥らせる妻の存在があり、
そしてその背景には、そんなカルマというか、からくりに立ち入ったりかかわったせねばならない、
魂というものが、長年の転生の間に積んだなにものかがあるとしたら・・・
そういう業と念の限りない繰り返しを断ち切って、今生限りでいっきに、
元の魂を白紙に、生まれたときの美しい白布にと戻すことができるかもしれない、
そんな順教の、類まれなるたましいのつよさにつながる
すべてのたましいの願い、元に還らせたいという天の願い、があったのではないのかと。
そして、それを見事に成就し、人をも育て、
晩年には、軽やかに、あかるく、たのしく、
「はい、これでおしまい、ほな、さいなら」・・
そう、美しい顔でこの世を去った順教さんだと聞くのです。

無知(知識の意味ではなく、痛みを知らないということ)であることのかなしさ、残酷さ、無明というのでしょうか。
腕の無い人を見世物小屋で、見せようとする人も見ようとする人がいることも、
ひどい言葉をかけることも、南さんの子供時代の周囲の人として考えられない態度、いじめ、・・
そのすべてがかなしく痛くて、神さま、わたしたちをごめんなさい、でしたが、
時が変わり、最近の画像では、人々はみんな、もう、みんな同じと、わかってきている。
あらゆる差別はいらないと知り、助け合うことを学び、あのようなことが減っている。
わたしたちも、少しはましに、よくなってこれているのだと信じたい。
そういえば、エンドロールにあった名前は協賛によるサンクスなのだとしたら、
子ども時代、見世物小屋が大好きでよく通っていたという、我が元夫の名も見つけ、
罪滅ぼしになったかなと思いを馳せたのでした。
挿入唄を唄っているのは、一緒に「つながってる!」という曲作りをした仲間、
いのちのコンサートを続け合唱曲作りをがんばっている
ゆげちゃんこと弓削田くん・・
ゆげちゃん、あなたの澄んだ声がこうして流れていることが、本当に嬉しい、よかったね。
わたしたちは、みんな、元に還ってたましいを輝かせて、
本当の意味でかしこくなって、
植物や、岩や砂や、風や、海や、動物や、
みんなが協力しあって保ってきたこのいのちの星の美しい天国で、
共存して支えて、愛し合っていかないとならないときに
ほんとうに来ているから、
いまごろまだ、これからさらに、あの色、この色と
模索ばかりしていないで、
たましいが生まれたときにいただいたきれいな白色に還ろう。
順教さんも笑って黙って待っていてくれるから
早く、気がついた人から元に還ろうね。



当時は編集者で我が夫、いまは自らも映画監督と称して全国を好演している人を
引き合わせたたまサロンで、その入江監督の最新作「天からみれば」を観ました。
あの時、入江さんは初対面の我が夫(当時)の顔を見るなり
『わー、なんでか泣けてくる~」と涙を何度も拭いてたけれど
かれは私には
「あんなの映画じゃないよ、あれで映画監督といっているのは不遜だよ」と
「4分の1」のことを評していたっけ。
それがいまや自分も会社で映画を作り、
いつのまにか、その「4分の1」と対の作品扱いに収まっている経過はわからないけれど
いずれにしろ、きっかけになった場所での上映会なんて感慨深い☆
後に大石順教尼となる女性の壮絶な人生、そこから至る、受容と、見守りの心、強さ、明るさ、。。
究極の人がいう言葉は共通に「よかったね」だと知りました。
かの、青森の、弘前の、すべての時間を他者と神さまにあずけきって、
寝る間もない方も、多くは語らず、陰で配慮と努力をされて、
「よかったね」だけおっしゃいます。
映画の中で平行して描かれる、順教さんに育てられた画家、
南正文さんの絵は、ほんとうに、
いのちのつよさ、はかなさ、やさしさ、きびしさ、・・・が昇華されていて素晴らしいのです。
桜の中から、世界を見守る龍、
あれは、実際にいつもこの世界にいて、あのようにこちらを観ているに違いないと感じました。
順教さんの両腕を切り落としたことで、結果としては
その魂の真の輝きを発揮させるまでになるという役割をした、養父、
つまり、天から見れば、人知ではわからない役割分担とはたらきがあり、
すべてのことは絶対に必然。。。そこまでがこの映画では語られています。
けれど、さらに思うのです。
順教は、心から敬愛していた養父が乱心して自分の腕を切り落とした直後、
その父の罪が軽くなりますようにと、まず嘆願し、
自分は見世物小屋で見世物になりながら稼いだお金で、彼の墓を建てるのです。
『お父さんがわるいんじゃない』・・そう、背景には、彼を裏切り、甥と駆け落ちして、
残った家族全員を死や苦しみに陥らせる妻の存在があり、
そしてその背景には、そんなカルマというか、からくりに立ち入ったりかかわったせねばならない、
魂というものが、長年の転生の間に積んだなにものかがあるとしたら・・・
そういう業と念の限りない繰り返しを断ち切って、今生限りでいっきに、
元の魂を白紙に、生まれたときの美しい白布にと戻すことができるかもしれない、
そんな順教の、類まれなるたましいのつよさにつながる
すべてのたましいの願い、元に還らせたいという天の願い、があったのではないのかと。
そして、それを見事に成就し、人をも育て、
晩年には、軽やかに、あかるく、たのしく、
「はい、これでおしまい、ほな、さいなら」・・
そう、美しい顔でこの世を去った順教さんだと聞くのです。


無知(知識の意味ではなく、痛みを知らないということ)であることのかなしさ、残酷さ、無明というのでしょうか。
腕の無い人を見世物小屋で、見せようとする人も見ようとする人がいることも、
ひどい言葉をかけることも、南さんの子供時代の周囲の人として考えられない態度、いじめ、・・
そのすべてがかなしく痛くて、神さま、わたしたちをごめんなさい、でしたが、
時が変わり、最近の画像では、人々はみんな、もう、みんな同じと、わかってきている。
あらゆる差別はいらないと知り、助け合うことを学び、あのようなことが減っている。
わたしたちも、少しはましに、よくなってこれているのだと信じたい。
そういえば、エンドロールにあった名前は協賛によるサンクスなのだとしたら、
子ども時代、見世物小屋が大好きでよく通っていたという、我が元夫の名も見つけ、
罪滅ぼしになったかなと思いを馳せたのでした。
挿入唄を唄っているのは、一緒に「つながってる!」という曲作りをした仲間、
いのちのコンサートを続け合唱曲作りをがんばっている
ゆげちゃんこと弓削田くん・・
ゆげちゃん、あなたの澄んだ声がこうして流れていることが、本当に嬉しい、よかったね。
わたしたちは、みんな、元に還ってたましいを輝かせて、
本当の意味でかしこくなって、
植物や、岩や砂や、風や、海や、動物や、
みんなが協力しあって保ってきたこのいのちの星の美しい天国で、
共存して支えて、愛し合っていかないとならないときに
ほんとうに来ているから、
いまごろまだ、これからさらに、あの色、この色と
模索ばかりしていないで、
たましいが生まれたときにいただいたきれいな白色に還ろう。

順教さんも笑って黙って待っていてくれるから
早く、気がついた人から元に還ろうね。



