運命と出会う瞬間

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自分に正直、の定義は?

2009年12月19日 23時51分17秒 | Weblog
人が動物と違うのは、ただ、欲望に正直なだけではない、何か、があるゆえ、だと、私はなぜか、本能的に子供のときから思っている。
神や宇宙のかけらと同じものをもっているって。それは誰でも同じ。
ただ、最近、自分に正直であることと、自分の「欲」に正直ってこととが混同されて、いいわけや気休めにすりかえられていたりする.
誰をどう傷つけても言いということではないと思う。
いい人をやめると楽になる、という曽野綾子の本が売れているけれども、私は、その背後にある、「いいひと」は嘘である、という前提が嫌いた。いい人は、人目のためにあるのではないと思う。
人目がなかったら、いい人じゃなくなるんだったら、もともと、人のためにって気持ちが自発的には湧かない人なんだろうって思う。
ストイックに生きようなんてばかなことをいいたいんじゃないし、わたしだって、迷ったり泣いたりする弱い人間だ。

ただ、私は思ってしまう。
逆に、好き勝手に徹したくても、欲望のままに、誰かや何かを踏みにじろうと思っても、そうしようと思っても、そうしたくても、どうしてもできないで苦しむ、人間の中にある光るものを。私たちはその光をもつゆえ、きっと、人なんだと。もし、誰もみていなくても、縛るものもなくても、それを感じる感性が、品性が、きれい、穢いと、古来、日本人が感じてきていたものなのだろう。
卑近な例だが、たとえば我が家の主人は、こっそり、私の携帯を夜になると見ていたことが昨年よくあって、でも、おかしいと思ってきいても、きっぱり、違うとウソが言い張れた。結局、やはり見ていたと、本当のことがばれたときは、しくしく夜中に泣いていた

から、本当に心配して、一晩背中をさすったりハグしたりしたものだった。 なのだから、あのとき、何ひとつ、疑われる要素のない私のを見ていたんだから、あきらかに、おかしな言動をして、トイレにまで携帯を隠し持っていったり、肌身離さなくなった主人のを、今度は私が見るのなんか、かまわないはずでも、それでも、どうしても、見れなかった。
そこまではできなかったのは、誰かのためでなく、自分の何かのためだった。

人はまちがうから魂を汚れをつけてしまうこともある、それは本当に、私も、みんな同じ、けれど、汚れたら、そこからどうずるか。それを認めるか認めないか。
人のせいにしてしまうか、それとも、それをきれいに洗わずにはおれないか、私は人には、後者につながる「何か」が備わっているのじゃないかと 信じたい。そして、ゆるしたり、ゆるされたりを知りながら、みんなで進んでいくんじゃないかと・・・。
自分が新しい人生をはじめたいと言って別居したいとか、離婚したいとか、一方的に頼んできていたのに、あとになって、きゅうに、
たくさんの笑顔や楽しい記憶を、まったく違う話に作りかえてまで、自分のせいでなく私のせいにしてしまおうとするのは、わかってはいても、利害関係のためには、いいはらなきゃならないとか??いったいなんのためなんだろう・・おひとよしついでに、反論もせずに彼の希望通り消えてあげたらいいのかもしれないが、私も、生きていかなければならないし、真実を曲げてまで、不当に扱われなければならない存在でも、そのために生まれたのでもないと思う。それでは、せっかく宇宙に産んでもらっている、この自分に対して申し訳ない。自分に正直って、それこそこういう場合に使うんじゃないのかな。むずかしい。

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2 コメント

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対立のためでなく (sunaonasum)
2009-12-22 01:16:13
七さん、携帯にもこわい言葉をいただきましたが、私の日記は、何度も誠意をこめてなんとか理解しあいたい、歩み寄りたいと呼びかけたことへ、なにも反応していただけずの、ため息の
ひとりごとで、対立が目的ではありません。
作為も嘘もありません。
昨年、伊勢神宮で神様の前に額ずいて、みなさまに祝福いただいてからちょうど、今日で一年です。先日、伊勢でヒューレン博士と世界平和を祈られたとか。世界の平和は目の前の人と、家族と、からはじまる、マザーテレサが言っていました。謙虚に正直に、向かい会えたら、認めあえたらいいですね。
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Unknown (Unknown)
2009-12-21 12:31:39
ここまで書くとは上等じゃないですか。
ありがとうございます。
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