今日は終戦から68年。
この大戦直前に生まれたので、
戦争の真記憶は勿論ゼロ。しかし終戦間際が
物心の付き始めでしょうか・・
空襲警報のサイレン
色柄も記憶にある防空頭巾に決戦服
町内の防空壕に走る人々
疎開先で見た夕焼け
断片的な記憶がよみがえる
終戦後の記憶はもうハッキリした物です
街角に立つ傷痍軍人
MPの闊歩する通り
馬力運送の往来。
食糧難や物資不足は、当時のワタクシには
あずかり知らぬ事ながら
家族、否 日本の今日がある を思えば感慨深い
この大戦直前に生まれたので、
戦争の真記憶は勿論ゼロ。しかし終戦間際が
物心の付き始めでしょうか・・
空襲警報のサイレン
色柄も記憶にある防空頭巾に決戦服
町内の防空壕に走る人々
疎開先で見た夕焼け
断片的な記憶がよみがえる
終戦後の記憶はもうハッキリした物です
街角に立つ傷痍軍人
MPの闊歩する通り
馬力運送の往来。
食糧難や物資不足は、当時のワタクシには
あずかり知らぬ事ながら
家族、否 日本の今日がある を思えば感慨深い
街の利発な子供と田舎の能天気な子供の相違がここでもはっきり。経験も記憶もその後の人生に大きな影響。
年だけは同様に過ぎてゆきますが。
後何回鎮魂のこの日をお互いに迎える事が出来るのでしょう。
父の卒業した小学校が、模擬原爆で20年の7月に破壊され、
校長先生を含む3人の先生が殉職されました。
今、その小学校では二女が学び、3人の御霊を祀った殉職碑が中庭にあります。
B29が、自ら落とした原爆の爆風と放射線を浴びないように
「落としたら逃げる」の練習をしていたようです。
毎年7月に鎮魂の会を開いて、その事実を語り継いでいます。
頭にかぶせられた毛布を払いのけ、焼夷弾の火花が花火のように見えたというのは、多分聞き伝えの記憶でしょうね。
戦後の記憶ははっきりと残っています。物のない時代で、祖母と米を持って汽車に乗っているとき検閲があり、足で座席の下に米の袋を蹴り込んだことを覚えています。
戦後は父の仕事先の呉市にいましたが、連合軍兵士の話、夜の女、混血児のことなど話せば尽きません。
「ギブミー、チョコレート」とMPのジープを追う子ども、映画のシーンではない現実のものでした。
米軍の軍需物資に助けられたのも事実ですが、給食の脱脂粉乳のスープには泣きました。
あれから68年、長い年月が過ぎたのですね。
68年で幹線道路から違った道に入っていまったかなぁ・・
でも二女ちゃんの学校には「鎮魂の会」があるなんて・・
戦後史だけでもきちんと教えて行くべきと思うのですが。
大阪の下町では 解放された**国人が大暴れしたり
進駐軍のジープをながめたり・・と、ケイケン豊富な少女時代を過ごしました。
が、あの脱脂粉乳のスープには泣かされました。どうしても喉に通らず、オェ~となって(笑)