私たちは「公共」というと、とりあえず国家とか地方自治体とか、社会福祉制度とか、そういうできあいのものを思い浮かべる。
しかし、発生的にいうと公共は自然物のようにそこにあらかじめ用意されて転がっているものではない。公共は私人の自己犠牲と信用された供与によって作り出されるものである。
ロックやホッブズによる近代市民社会論のロジックは簡単に言うと次のようなもの。自然状態において「人は人に対して狼である」。そこは「万人の万人に対する戦い」の場になる。
だから、自然状態では、われわれはほとんどの資源を「他の狼」からおのれの生命財産を守るために費やすことになる。それでは心穏やかに暮らすことも、創造的な仕事に集中することもできない。
だから、われわれの先祖は、社会契約によって、私利私欲の追求を自制し、私権や私財の一部を公共に委嘱して、それを負託された公共体が私人たちを統制し、守る仕組みを作ったのである。
ほんとうに近代市民社会がそんな風にして出来上がったのかどうか、私は知らないが、近代のある地点で、ヨーロッパの人たちは、共同体は私人が自己利益の追求を自制し、私権私財の一部を公共に委託したことから始まったという物語を採用した。
「公共的な人」というのは、この物語にリアリティを与えることのできる人である。それは必ずしもこの物語にリアリティを感じている人ではない。
むしろ、公共という物語が空洞化してることに不安を覚えるがゆえに、身銭を切ってでも公共を立て直さなければと思っている人である。私はそういう人のことを「公共的な人」と呼びたいと思う。
残念ながら、現在の私たちの国の「公人」たちの多くは「公共的な人」ではない。彼らは国民の私権の行使を制約し、私財を吸い上げることには大変熱心だけれど、そうやって排他的に蓄積した国民資源をおのれの私財に付け替えることにも等しく熱心である。
公共のために資材を投げ打つよりは公共物を私有化する術に長けた人たちが我が国のリーダーや指導層には広く分布しているようだ。彼らはいわば「公人の皮をかぶった私人」たちである。
彼らのような狼たちにいくら食い物にされてもまだ柱石が揺るがないほどわが国家機構や地方自治体が堅牢であることに驚くほどだが、さすがにここまで「公共」が疎かにされると、共同体の基盤も危うくなってきた。
身銭を切ってでも公共を再建しようとする人たちが現れるのは、今の日本の全領域で起きている「公共の空洞化」に対する補正の動きである。
全世界で脅かされてるリーダーたちの言動や対処。国は身銭を切れない人を助けて、身銭を切れる人は国の対策より有効なことを社会に提供してもらった方が良い。国は休みたくても休めない従事者の人に充分な手当てをしてもらいたい。お金だけじゃない。