バブル期以前までは、「何を買うか」ではなくて、「何を作り出すか」によって自分自身のアイデンティティは形成されていた。
それが80年代後半からの消費文化は、そのルールを変えてしまった。「労働」ではなく「消費」が、人間の第一次的な社会活動になった。
「何を作るか」ではなく、「何を買うか」を基準に、人間の値踏みをするようになった。その場合、消費の原資となるお金をどのように手に入れたかは、原則的に不問に付される。
「お金に色はついていない」とバブル期にバブル紳士たちがよく口にした言葉である。確かにその通りで「色」がついているのは商品の方だ。だから、消費者がどの商品を選ぶかは深い意味がある。
この新しい貨幣観は、私たちの労働観にも本質的な変化をもたらした。「最も少ない努力で最も効率良く、最も大量の貨幣を獲得できるのが『よりよい労働』であると」
労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量された。バブル期以降は、その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値が考量されるようになった。
だから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が、最も賢い働き方だということになる。そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根本から傷つけられていった。
子供たちが学ばなくなったのも、この労働観の変質と同様に説明できる。今でも子供たちは、学歴の重要性をそれなりに認識している。
けれども、彼らにとって最優先の問題は、学歴をどれほど少ない学習時間で獲得するかなのだ。できるだけ少ない学習努力で、できるだけ価値の高い大学の学位を手に入れるか。
費用対効果という基準から言えば、そういう学生が「最も賢い」ということになる。いまはほんとうにそういう学生で溢れている。ほんとうにそうなのだ。
大学で教えているときに、授業の最初で学生たちが訊いてくるのは、「この教科は最低何点で単位がもらえますか?」とか、「この教科は何回まで休めますか?」という事だ。
これは必ず訊いてくる。もう日本中どこの大学でもそうだ。訊かれれば、内心不愉快な思いを押し殺して最低基準を答える。最低基準を年間授業計画に開示しなければならないシステムにもなっている。
大半の学生は、単位を取るための学習努力のミニマムを知ることが、科目登録に際しての最優先事項なのである。何を学びたいのか、とか学びの内容は、残念だがかなり低い選択事項なのである。
(次回に続く)