青裸々日記 Aorara Diary

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「自信至上主義」の危うさ。

2010年09月13日 17時37分46秒 | 青裸々日記。
稲穂(千葉県四街道市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 人間、自信が大切と言います。
 自信は「自分を信じる」と書きますが、
 信じるからには、それに足りる根拠がなければいけません。
 その根拠を作ることは、
 実はとても難しいのです。
 これはあえて、とことん自信がなくなるカヲがをしていけばわかります。


 たとえば。

 「優しくて誠実で、人当たりのよい人」がいたとしましょう。
 いつもニコニコとしていて、人の意見を尊重したり、汲むことが出来る。
 しかし、同じ人でも、見る人が違うと、
 「優柔不断で重くて、めんどくさい人」という、まるっきし逆の評価が下されてしまう場合があります。
 しかも、「優しさ」にもいろいろあるわけで、
 よく言われる例として、
 言いにくい意見を直接言うのも、
 言いにくい意見を言わないで思い知ってもらうのも、
 とりあえずはまあ、どちらも「優しさ」にはなるわけです。
 しかし、それが奏効しなかった場合、
 注いだ優しさの全ては無駄になりかねず、
 結果的に「あれは優しさだったのか」と思い悩むことにつながり兼ねないわけです。
 さらに言うと、受け取る側の気分いかんで、
 たとえ悪意がなくとも同じ人に対する評価でも違ってくるわけです。
 まだあります。
 「形容詞」というのは概して境界が曖昧で、
 たとえば真面目と不真面目という相反するもののの境目なんて、
 一つや二つだけの事例から判断するのは、極めて妥当性がありません。
 ある程度の期間の性向を総合して、やっと大まかな判断ができるというかどうかというのが、
 「性格」というものの本質ではないでしょうか。
 さらに、「形容詞」というのは比較によって発生するのであって、
 極端な話、地球上に1人しか人間がいなかったら、
 優しいも厳しいも、真面目も不真面目もないわけです。
 同じ性格でも、母集団によってはどれだけ自分と性質や格が違う人が集まっているかで、
 自分がどういう人間のつもりでいようが、
 その評価なんていくらでも覆されてしまうのです。


 こういうわけで。

 人の性格、長所は表裏一体なわけで、
 「優しさ」一つ取っても、そのまま自分の価値を信じる根拠として耐え得るものかは、
 一概には言えないのです。



 そもそもの話、
 「自信が必要です」
 「自信が持てなくて苦しいです」
 こんな考えにこそ、どこか偏りがあると気付く必要があります。
 自分の能力や性格は、それが自分自身だという理由だけで、
 正しく等身大の判断をすることが出来なくなってしまうもの。
 …であれば、自分自身の性格について思い悩むこと自体、
 ある種、無意味なのです。
 ただし、自分を見誤るのが必然だとするなら、
 もはや自分に対する評価を下すことに終止符を打ち、
 自分よりも目の前の相手に、どれだけ誠心誠意、意欲や気持ちや愛情、そして自分のすべてをぶつけるかの方が、
 余程大切だと思うのです

 しかも、自分に理想があったとしても、
 その資質をどう活かせば人の心を打てるかなんて、
 どこにも保証はないのです


 要するに。

 「優しい人」よりも「優しくしていたい人」。
 「素直な人」よりも「素直でいたい人」。
 「頑張り屋さん」よりも「努力を好きでいたい人」。

 こんな考えでいたほうが、
 かえってベストを尽くし、自分自身を最大限に活かせると思うのですが、
 いかがでしょうか。
 私だけの意見で終わらなければよいのですが。

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