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焼津神社の日本武尊像(静岡県焼津市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
私達は人間である以上、
悲しいかな完全無欠、全知全能ではありません。
そうである以上、失敗を経験しない人生などありえませんし、
欠点を抱えているのは当たり前であるばかりか、
ひいては、性格なんて表裏一体のものですから、誰に対しても文句なんていくらでも付けようはあるわけです。
要は、人生というのは不平不満や挫折感との付き合い、これに尽きるわけです。
しかし。
私達は人間である以上、
良心がありますし、人の幸せにくみすることで喜びを覚える生き物でもあります。
理想や完璧な状態、一点の曇りもない人間と比較すれば、
絶対に勝ち目はありません。
しかし、自分の個性が人の幸せの役に立ったとか、
自分の能力が生きたとか、
自分なりにやれていること、つまり理想にどれだけ近づけたか、実現できたかが重要ではないかと思うんです。
完全無欠でないから70%でも止めました、
これではせっかくそこにある力を、
10%どころか少しも人のために使えないことになってしまいます。
これでは、助かるハズの人、幸せになるハズの人が、
犠牲になってしまうのです。
☆ ☆ ☆
もちろん、こんな類の話は強引の極みだと思います。
自分の個性をそのまま出してしまえば人に嫌われる。
無力感で一杯というか、実際に無力で無価値なんだから煽るのはやめにしてほしい。
こんな風に、挫折感や罪悪感が強いほど、
自分を褒められたりすることに抵抗を感じるものです。
人の幸せの一部分になれなかったという経験は強烈なものですから、
先にお話したように「人間は完璧ではない」以上、
あるいは挫折者も大勢いる以上、
もうどうせ自分なんて誰の力にもなれない、ダメな奴なんだと居直る人がいるのは、
ある種、当たり前といえば当たり前の話だったりするのです。
しかし、どうでしょう。
それまでの経験から全てを予測し、推し量るのは少し無理があります。
たまたま挫折経験が多くあったり、
個性が裏目に出てしまったというだけの話です。
ただし、挫折感にまみれた人に
「成功体験もありますよね」
「自分の長所を見ましょう」
…と励ましてしまいがちですが、
そう一筋縄でいくなら、挫折感なんていうもので苦しみ、困る人はいないわけです。
挫折感というフィルターひとつあれば、
どんな成功体験や長所も「完璧主義」で見てしまい、
「本当に幸せになってくれていたとは限らない」
「そうやって自分の長所だとか言うからまた自分の個性で人を傷つけてしまう」
などと、挫折感に支配された人に対して、かえって追い詰めてしまうことがあるのです。
…そこで、私から提案があります。
公平に見て、人を不幸にし続けても平均な人生、
悪意に満ちた人生を送ってきたならば、
そもそも自分の至らなさを嘆いたりはしないものです。
自分はなんてダメなんだという落ち込みが酷いほど、
実はその人が良くなりたいという意志や良心を持てているということです。
なまじっか上手くいかないことが続いてしまっていると、
ともすれば自分を見失い、
捨て鉢になってしまいがち。
でも、完璧な人間がいない以上、
ベストを尽くすことに重きを置き、
結果についてはフィードバック、つまり反省して次に活かす考えこそが、
なにより大切になってきます。
失敗はしてしまうもの、躓きはどうしても起きてしまうものです。
躓かない人なんていません。
しかし、上手に躓くことは出来ます。
「上手な躓き方」というのは、
自分なりにベストを尽くしても至らなかった、だから改善しようという姿勢に顕れるのではないでしょうか。
ベストさえ尽くせば、
上手くいったら人は幸せになるし、
失敗したらしたで、挫折を無駄にしない気持ちになれるのです。
これこそが挫折感から好循環を呼ぶ、唯一の方法ではないでしょうか。