伊勢湾台風50年ということで色々な番組が組まれそうだ。
昭和34年9月26日。
中学2年生のときだ。
この台風は太平洋上では890ミリバール前後の猛烈なもの。
名古屋へ上陸して929ミリバールが記録されているものすごさだ。
ごーごーごと今までに聴いたことがない恐ろしい音。
みしみしみしと家が鳴る。
から~んから~んと瓦が飛ぶ。
玄関の戸に太いつっかい棒をしてあるのだが
あまりの強さに、棒が止めてある玄関の上がり小口の(横になっている柱?)
がそりかえって、外れそうになる。
父親は、合羽を着て外を補強している。
私達兄弟は、玄関のつっかい棒を必死で押し、玄関の戸が抜けないよう頑張る。
しばらくして、風がす~っとやむ。
いわゆる台風の目だ。星が見えた。
しばらくして又風と激しい雨だ。
風がまわる。向きが変わる。
行った! 助かった。家が倒れずにすんだ。
借りている家は、岐阜県で有名な「岐阜の和傘」を作っていた仕事場のあとの部屋を借りていた。部屋が小さいので押入れの天井をぶち抜き、屋根裏に弟と暮らせるような場所を作っていたが、そこも無事だった。だから、よくぞ耐えてくれたとおもったものだ。
朝になって便所から北を覗くと「あれ!家がない!」。倒壊していた。
我が家から少し南へ行った家も倒れていた。
当時は 岐阜市で 全壊は約400戸。
さっそく中学校へ行ってみた。
屋根瓦がほとんどない。 グランドは、学校の横を流れる「荒田川」の泥水がながれこんで全面を覆っている。臭くてたまらん。学校はめちゃめちゃだ。
吉田君(退職後他界)も来ており、先生になにか手伝うことはないか聞いていた。
親類(母の弟)が名古屋市の港区に住んでおり救助が必要。自衛隊の援助も始まっていた。父は仕事のトラックの上にドラム缶で作った船をつみ名古屋へ救助に向かった。いろいろあったが台風は傷跡を残して去った。
いまだに、あの恐ろしさは膚から消えない。
どうすればよいか準備は出来る。
「鉱石ラジオ」<電池もいらない小さな音しかでないラジオ>を自分で作って持っていたが、それが大活躍した。日本海へぬけた情報も得ることが出来た。
当時の校長は深浦泰平。
「凛とした眉目のあざやかさ」という色紙を僕にくれた人だ。
いまだに、凛として、あざやかな眉目で暮らしたいと思っている。