『共産党と、ものみの塔の似た部分』
日本における『共産党』ですが、残念ながら『ものみの塔』などのカルト宗教とイメージ的にかぶる部分が多いのは、明らかな事実である。
具体的な客観的事実(数字)でも、選挙前の世論調査での支持政党の調査と実際の投票で破壊的カルト宗教の政治部である『公明党』と『日本共産党』では不思議な一致点があるのです。
今度行われるの選挙で『何党に投票しますか』との新聞社などの世論調査の設問に対しては、公明党支持者では半数しか本当(公明党支持)を明らかにしないのです。
アンケートで出る数字の倍程度が、実際に選挙での公明党得票数なのですね。
この数字から判ることは支持者の半数は自分の『公明党支持』の事実を隠すのです。
これが自民や民主では違いが小さく、ほとんど統計の誤差の範囲程度の小ささなのですね。
半数が隠す公明党ほどではないが、他党に比べれば大きく違いのあるのは共産党で、実際の得票数のおよそ6割程度の小さい数字がアンケートの数字として出る。
4割の人々が自分の『共産党支持』の事実を隠すのですよ。
これらの、共産党員や支持者が自分の支持政党を明らかにしたくない事実には、歴史的な無視することが出来ない明確な理由があるのです。
日本共産党は歴史的にみれば、戦前に大弾圧されただけではなく敗戦後にも米軍や政府自民党に松川事件菅生事件など数々の謀略事件をでっち上げられて、大勢の共産党員が検挙され沢山の人が裁判にかけられ多数の死刑判決まで出ていたとんでもない時代を経験しているのですよ。
吉田茂首相の自民党政府の積極的に関与した、これ等の反共謀略の犯罪行為に対して、未だに一片の謝罪も訂正もされていません。
勿論積極的に松川などの警察や政府の犯罪を『共産党の犯罪行為である』と正反対に報道したのは今のマスコミで、このマスコミも全く体制的には変革がなされていないばかりか、当時よりも更に悪化しているのです。
悪人が罰せらることは無く、それどころか犯罪行為に加担した警察官を出世させて幹部に起用しているのが日本の現在の民主主義のレベルです。
権力とは基本的に腐敗して犯罪を行うものなのですが、困ったことに『権力=正義』との国家の原則が有るので、まったく罰せられないのです。
これ等の少し前の国家権力が基本的に持って要る恐ろしい事実を少しでも覚えていれば例えアンケート程度でも警戒する人たちがいても何ら不思議でない。
これとは大きく違い、理由がさっぱりわからないのが公明党です。
しかし共産党以上に隠すには、なにか合理的な理由があるはずなのですよ。
多分とんでもなく不都合な隠さなければ成らない悪いこと(犯罪行為)に手を染めている可能性が高いのです。
通常、何かの積極的な支持者であるなら、公明党や共産党の例のように沈黙するなどは有り得ないのですよ。
普通なら、誰か第三者に聞かれれば大喜びして自分から積極的に大宣伝する、(公明党の態度の正反対に)大いに自分の支持するモノを色々と紹介(宣伝)したくなるのが人情なのです。
『宗教と共産主義と科学』
何年か前の話、エホバの信者が『近頃日本人はみんな怒っている。困ったことだと思いませんか』と戸別訪問にまわっていたのですが、運よく(多分向こうには運悪く)私はちょうど時間的に余裕があり『怒りこそが正義の原動力』『いかにカルト宗教は間違いであるか』と1時間以上語りあった経験があるのですが、
その時の感想は、日本共産党の党員とキリスト教系カルト信者の語り方や性格、特徴が良く似ているのに溜め息が出たのです。
1、生真面目で基本的に善良である。
2、一つの価値観(例えば命は大事とか、争いは良くないなど)を唯一絶対視して仕舞い,価値観とは沢山の部分を含んだ相対的な巨大なもので、単一の部分や断片では無いとの普通の社会常識を失念している。(部分と全体との問題を、全体対全体であると誤解している)
3、日本人であるなら常識的な多元的な価値観を基本的に軽んじるか馬鹿にしている。(真理は一つを文字どうりに心底信じている)
4、価値観が多元的であるとの考えが無いので、善悪二元論に近い単純思考に陥っている。(部分と全体が矛盾する善と善とがぶつかる時があるとの考えが無い)
5、『多元的な価値観』の考え方が最初から無いので、大事な問題でも其々には順番があるとの価値観の優先順位などは、そもそも理解できない。
6、自分の信じる宗教(政党、主義)に対して少しも疑うことが無く、他との違いを善と悪(共産党の場合には正誤)に単純化している。
7、①~⑥なので当然自分の知っている(回りのみんなが未だ知らない)『正しい真理』を自分だけが独占(隠匿)することは『悪い事だ』と思っている。
8、⑦が原因(動機)で、布教活動(政治活動)に自分から行おうとする。
など、実に良く似ていたのです。
『部外者の素朴な疑問点』
>『そもそも共産主義や社会主義でなかった』同じマルクスを解釈しても、読む人によって共産主義ではないものになってしまう。まるで同じ聖書の解釈をめぐって、宗派争いをしているキリスト教徒みたいです。では何を持って自分の解釈だけは絶対正しいと言い切れるでしょう。
つまり(自称)共産主義は信用ならないということになります。』<
これは実は可也大事な指摘で、宗教と共産主義は実に良く似た構造に成っているのですよ。
日本では宗教とは宗派によって色々有るし解釈も色々と『種種雑多』であると考えがちです。
ところが日本以外の世界の一神教世界では大違いで、『神は一つ』で真理も一つです。
宗教が色々あると考えるのではなく日本の破壊的カルトの創価学会と同じで、『一つの正しい真理』と沢山のそれ以外の(撲滅すべき)『悪しき間違い』があると考えがちなのです。
この考え方は宗教だけには止まらない。
今世界中に沢山の国々に共産党が存在するのですが、『正しいものは一つである』とのキリスト教的な考え方が影響して一国一共産党なのですね。
日本でもそれ以外の国々でも共産党内で内部の意見対立から分党した場合に二つが並び立つことは無いのです。
必ず『正しいものは一つ』の原則で、相手側の(関係ない第三者から見ればほとんど違いの無い)二番目のもう一つの共産党は、共産党を詐称する悪質な反共分子と断定して敵(右翼)以上の不倶戴天の扱いになり、最終的にはどちらかが勝つので常に一国で一共産党なのです。
この原則は日本を含め世界共通ですべてに当てはまる大事な共産党原則なのですね。
ところが何ごとにも例外が在る。
面白い現象ですが、あの何でもありの多神教の国インドではソ連派インド共産党とそこから分派した自主独立派のマルクスレーニン派インド共産党とが仲良く連立政権を作って左翼の州政府を作っているのですよ。
流石に世界で最初に0を発見した数学の天才のインド人だけはあると感心しています。
共産党が主張するように共産主義が『正しく良いもの』であれば一つよりも幾つもあるほうが、数学的考察では間違いなく単独より複数の方がより、社会全体にとっては『良い』と考えることが出来るのです。
ところがインドとは違い、元々共産主義は共産党宣言のマルクスエンゲルスに見られるように欧州で生まれているのですから、欧州的な一神教的価値観からは自由ではないのです。
共産主義は欧州ではなく多元的な価値観のインドとか日本で生まれていたら全く違う性格になっていたかも知れないのですね。
それではそもそも『共産主義』とは何であるかの根本的な『問い』が出てくるのですが、この答えは極簡単で『社会科学』の一部であり重要な構成部分なのですね。
共産党の主張する『真理は一つ』の原則ですが、これもある意味当たり前で『客観的な科学的真理』とは一つの問題には一つしかないのです。
科学とはその人の持つ主観などには全く影響されることは無く『正しい』ものは正しく、『間違っている』ものは間違っている。
いくら考えや利害が違っていても客観的真理(科学)は唯一普遍的なものなのです。
科学とは客観的であり普遍的でもある。
ところがこの科学を生んだそもそもの存在とは、歴史的に考察してみれば判るように客観的でもなければ普遍的でもない欧州の一神教(キリスト教)であるのですね。
そして面白いことに一神教的カルトでは、客観的でもなければ普遍性も無いのに、自分ではこの二つを主張するのです。
ですから、
本来社会科学の一部分である共産主義は、勿論自分たちの客観性と普遍性を主張するのですが、ここで、根本的な弱点が生まれてしまったのですよ。
共産党は社会科学の学術研究団体(権威)であるだけではなく、同時に世俗の政治組織(政党)でもあるのですね。
大学教授が、研究者の顔と同時にゼミ内では最高権力者の顔も持っているのですよ。
それに科学では最初から定理や法則、原理があるわけではなく、どんな正しい科学的真理でも最初は単なる一つの仮説なのです。
この二つのもの(権力者と研究者)は、元々持っている性格が大きく違うのです。
権力闘争の政治の世界では『間違い』は間違い程度では済まず『悪』であるのですが、科学では『間違い』に善悪は関係ないので『悪』には決してならず単なる正誤の問題であるので、何処までいっても『間違い』でしかないのですよ。
それに科学的間違いこそが科学の進歩の原動力で、『科学とは間違いの自己修正過程である』との謙虚な考え方が生まれる。
ですから今回の選挙を謙虚に反省し失敗を検証しようとする共産党幹部会声明は大事なのです。
『科学と宗教の意外な関係』
『科学』と『宗教』は今でこそ別々の全く関係ない分野の『独立したものである』と考えられていますが、歴史的に見ると、この両者には部分と全体の関係の様に分かちがたい関連があるのです。
今の様に科学者と宗教の聖職者が別々である社会よりも聖職者が最先端の科学者や医者を兼ねていた世の中の方が遥かに長い歴史がある。
世界的に見ると日本は例外的で宗教者の地位(権威や特権)はそれ程高くは無いが、こんな国は世界から見れば例外的で少ない。
特に一神教世界においては、今でも宗教が『善悪』の全てを判断しており、もちろん科学も例外ではありえない。
その意味で、『人類文化の最高峰』の地位は必ずしも『科学』が独占的に占めている訳で無いのです。
特に個人の中では『何が最高峰であるか』なんてのは個人個人で違ってきて当たり前。
熱狂的な宗教信者にとっては『科学的な正さ』などはそれ程重要ごとではありません。
科学の持っている力の源泉は、精密さ緻密さ以上に、信じるものにも信じないものにも平等に作用する『普遍性』でしょう。
ところがこの『普遍性』は単純系には単純に当てはまるが複雑系には、時には当てはまらない(今の科学ではそこまでの精度が無い)場合が出てくる。
そして人々に密接に関連してくるもの(社会科学)の多くは複雑系です。
複雑系である社会科学では今でも発展途上国状態で『科学の持つ普遍性』に限界があり、新自由主義のようなヴードゥー教モドキまでが現れる始末です。
科学と宗教の関係は今のアフガンのように科学の持つ圧倒的な『力』で都市部や交通機関や政府のような表向きのハード面は完全に(無理やりに)支配下に置いているが、それ以外は宗教(タリバン)が今でも支配していているのです。
この度、更新されていないサイトを整理致しましたので、遅ればせながら、こちらのサイトをブックマークに入れさせて頂きました。
こちらのブックマークには、随分前から(2007年から?)当方のブログ【JUNSKYblog2007】を入れて頂いているのに、申し訳ございませんでした。
多数決原理と科学的真理は別物なのですから。
科学的真理も自動的には多数派にならないし、市民権を得ないんですよ。科学的真理を積極的に教育普及していく主体的な活動があって始めて市民権を得ていくのですね。
これは政策教育、宣伝も同じです。
こうして、正しい科学の思想・理論と正しい科学の政策を両輪として積極的に語る活動こそ科学を思想的にも政治的にも市民権を得る多数派にしていく原動力になるのですよ。
日本共産党はその支持者は大いに思想・理論でも政策でも科学を教育普及、宣伝する主体としてその力量を高めていくべきでしょうね。
昨日からこのブログ少しずつ読み始めたところでした
今まで思い続けてきた何かにガンガン突き刺さる思いです
公明党(学会員)は話にならない、論議できないと言われます が同じ事が共産党にも言える気がしてたんです
今後も一読者として期待いたします
これまでは、逝き世の面影のブログタイトルをそのままHNにしていたのですが、どうも名前としては長すぎて、皆さん不便をおかけしている様なので自己紹介文を変えたついでに短く『宗純』と変更しました。
JUNSKY2010さん、コメント有難う御座います。JUNSKYblog2007と有るのですが結構長い付き合いで、秋田県藤代町の連続幼児殺害事件での全てのマスコミを敵に回しての大活躍には敬意を感じております。
事件の経過は最初から犯人を特定している完全な冤罪モードで未だ裁判中ですが、検察側の主張は有りもしない事故で済ましていた警察の捜査を妨害する為に第二の殺人を行ったのと荒唐無稽な作文なのですが、無理が通れば道理が引っ込むの例えどおりの展開です。富山の冤罪事件と同じで誰か真犯人が名乗り出ない限りは今のように一度自白すると決して覆さないのですよ。人間とは弱いもので悲しい話ですね。
東西南北さん、『科学と多数決原理は別物なのだから。』
が真実であるのは、学術研究団体とは『科学』の範疇に含まれるからですね。
だから科学の手法が採用される。
世俗の政治団体である政党とは基本的に性格が違うのですよ。
政党は多数決原理で動いています。この事実を認めないと話しにもなりません。
にゃんたつさん、はじめまして。
コメント有難う御座います。これからの宜しく御願い致します。
何年か前の古い記事でも結構ですから、興味が有りましたら何かご意見ご感想、コメントを御願い致します。
アポロ関連などは若い人でも大いに笑える楽しい記事であると思います。
「逝きし世の面影」をHNにするのはさすがに長すぎという感じでしたが、勝手に呼び慣らさせていただいた「面影」さんにはちょっとした愛着もあるのですが...、ま、それは当人のご意志を尊重すると致しましょう。
で。
共産党とものみの塔の共通部分。それは私に言わせればハラスメントです。
ハラスメントとはなにか。一般的に思われているような「嫌がらせ」ではありません。それは、「人格に対する攻撃」と「人格に対する攻撃に気がついてはいけない」という合わせ技です。共産党もものみの塔も、無意識のうちに、しかも善意をもってこのハラスメントを行なう。私が共産党を嫌う最大の理由はここにあります。
共産党支持者はすべからく啓蒙主義者です。啓蒙主義者であるということは、自身は相手よりも高い「意識」を持っていると自惚れているということ。つまり相手の人格を己よりも常に低く見る傾向があるということです。
その「傾向」は、表面的な物腰とは無関係です。あからさまにその「傾向」を露わにする者もいれば、一見相手を尊重するようで、その実、そうでない者もいる。啓蒙主義者のこうした「傾向」を支えているのが「権威」です。
私は絶対的な存在である神を信じているから「正しい」。神を信じていない者は「誤り」で人格的にも劣っている。
私は最も普遍性の高い科学を信奉しているから「正しい」。科学的な思考をできない者は「誤り」で人格的にも劣っている。
よって、高い人格を保持する私は人格の劣る者たちの蒙を啓いてあげなければならない。“あげなければならない”は、一見、善意のようですが違います。たとえ善意であったとしても、その前段に「見下し」が入っている。「見下す」から“あげなければならない”のです。己の「見下し」に気がつかない善意は、たとえ本人は善意のつもりでも、客観的には偽善と呼ぶほかありません。
啓蒙主義者たちは、自身が権威に寄り添ってしまうがゆえに自身の「見下し」に気がつきません。その無自覚がハラスメントになる。無自覚のうちに他人を「見下し」て人格攻撃を行ない、また無自覚ゆえに“人格攻撃に気がついてはならない”と命令する。その命令に抗う者には「異端者」というレッテルを貼る。あるいは「科学を理解できないバカ」とレッテルを貼る。
通常、人間は啓蒙主義者たちが思い込んでいるほどバカではありません。たとえ知識と論理では啓蒙主義者に敵わなくても、敏感に「見下し」は察知する。だから嫌うのです。
人間が啓蒙主義者にしてやられるときは弱っているとき。自身の感覚に信頼が持てなくなり、なにかすがるものを欲しているとき。そんなときには、啓蒙主義者の偽善に気がつかず、啓蒙主義者が提示する「権威」にすがりついてしまう。そうして弱った者もまた、啓蒙主義者=権威主義者となってゆく。
すなわち、ハラスメントは連鎖していくのです。
問題は、科学か非科学かですよ。見下しとかけ妹か、そんな問題ではありません。
一般に、科学は普遍性が高いといわれますが、私は誤りだと思っています。なぜか。科学の普遍性には自ずから限界があるからです。その限界は科学を支える理性によってすでに明らかにされています。
“限界のある普遍性”を「普遍性」と端折るのは、私は罪悪ですらあると思う。新興宗教の教祖が“私は全知全能です”といっているようなもの。
科学の普遍性が及ばないもの。それは第一に人間ひとり一人の自由意志です。それは明らかに科学と別個に存在する。いや、そうではなくて、科学は人間の自由意志と「現象の普遍性」とを峻別するところから生まれた。「現象の普遍性」とは、ひとり一人の自由意志とは無関係に、一定の規則に則った現象が観測されること。つまり「現象の普遍性」とは「客観性」のこと。
そうした限定付きの普遍性しか持ち合わせていない科学を人類最高の叡智と持ち上げることの罪悪はいかほどのものか。それこそ「最高の罪悪」かもしれません。
というのも、最高と定義されてしまうことで、もともと峻別されていたはずの個々人の自由意志を科学が侵すようになるから。いや、正確に言うと、科学の名を騙って侵すようになるから。私はしばしば科学を「呪文」と揶揄するが、なぜそういうか、その理由はここにあります。そして悪いことに、この「呪文」の効き目は“最高”なのです。科学的に証明されたことは、各々の自由意志がどうであれ、必ず再現される。
(ただし、その再現性の範囲は、実はさほど広くないが、科学を利用する啓蒙主義者はそのことにはあまり言及しない。)
人間に自由意志があり、科学が自由意志と無関係であるとするなら、政治の世界に科学を持ち込むことは、もちろん禁ずべきことではないけれども、控えめになされるべきなのですね。政治の基本は科学や合理性への信頼ではなく、自由意志を行使する人間の「善性」への信頼でなければならない。政治が「善」を目指すものであり、それがひとり一人の自由意志の結果によってもたらされるのであるなら、それ以外に方法が存在するはずがない。
もし科学に出番があるとするなら、人間が「善性」を発揮する条件を探究するというところにあるでしょう。
そんなことは当たり前です。人間はサルから進化したのは科学ですが、信仰心からそれを否定する宗教団体もあるからです。
しかし、そのような非科学的な勢力に対し、絶えず科学の教育を構成的に行うことが人類の進歩になるのですよ。
科学も非科学も選択するのは本人の自由意志。自殺するのも自由意志。人殺しも自由意志。オウム真理教も自由意志。無限に挙げれるのですが、やはり、非科学には科学を対置して教育していく勢力が人間社会を進歩させていくという科学の役割を真面目に認識したいではなく、しなければなりませんね。自発的な道徳の科学でしょう。
>それはコンプレックスというのですよ。
なぜ、そう言えるんですか?
東西さんのその指摘は、私(愚樵)が、科学に対してコンプレックス(この場合は劣等感というのが相応しいでしょう)を持っているという「断定」ですが、なぜ、あなたが私のことを断言できるのですか? その根拠はどこにあるのですか? 誰もが納得できる客観性をもって示すことが出来ますか?
それができないというのなら、あなたの「断言」は私に対する人格攻撃に他なりません。そして、それが反射的に出てくるということはすなわち、あなたは常に私を「見下し」ていると推論することが出来る。
仮にもしあなたが私を尊重しているのなら、
「なぜ愚樵はそういう考えを持ったのか? その論拠はどこにあるのか?」
という方向で考えを展開させるのが当然でしょうし、またコンプレックスだろうと推測したにしても「断定」になどなるはずがない。「疑い」にはなっても。
つまり、以下のように推論できます。あなたが「断定」した理由は、私の中にあるのではなく、東西さん自身のなかにある。
ここでは相互主義を適用することにして、私もあなたを「見下し」て放言しておきましょう。
(相互主義ですから、あなたの「見下し」が私の誤解だと判明したときには、謝罪の上訂正する用意はあります。先に言っておきます)。
東西さんのあらゆる議論は、東西さんの正しさを証明するための材料に過ぎません。どんなことを主張していようとも、あなたが言いたいことはただひとつ、「東西南北は正しい」これのみ。「愚樵は科学にコンプレックスを抱いている」という「断定」もここから導かれる。
科学は、あなたの正しさを証明するためのツールでしかない。それは、例えば「愛国心」を己の正しさの基準とするのと同じことです。
東西は示したでしょ?人類はサルから進化したという科学を科学と認めることが普通なんですよ。それを「見下し」、「ハラスメント」と理解するのはコンプレックスですよ。
要するに、俺は科学など信じない。俺は信仰を信じる、というだけです。
こんな不真面目な議論をしても不毛ですよ。
科学も非科学も選択するのは本人の自由意志。自殺するのも自由意志。人殺しも自由意志。オウム真理教も自由意志。無限に挙げれるのですが、やはり、非科学には科学を対置して教育していく勢力が人間社会を進歩させていくという科学の役割を真面目に認識したいではなく、しなければなりませんね。自発的な道徳の科学でしょう。
科学を自由意志に摩り替えるような不毛な議論は止めませんか?