よく指摘される共産党のマイナスイメージの中でカルト宗教と共通していそうな要素を箇条書きしてみるとどうでしょう。
・独善的、独尊的
・閉鎖的
・排他的
・不寛容
・狂信的
・教条主義
・画一的(多様性がない、*一括回答する)
(*市民運動をやってる人なんかは体験している人が多いと思いますが、全議員に何かのアンケート調査を求めたりすると、共産党だけなぜか一括回答してくる。国政だけでなく地方議会議員相手でもそう。公明党でもそんなことはしない。)
といったところでしょうかね。それぞれ別個に存在しているようでもありますし、関連しているようでもあります。
『共産党の問題点と共産党の組成が関係』
特に、次の3つの要因が怪しい。
・まず、共産党は「秘密結社」としてスタートせざるを得なかった。(軍事と政治は一体不可分のもので、そもそも政治結社とは軍事組織の性格が有ったのです)
・途中から学歴崇拝を始めた。(1世紀前の結党当時から参加者の大部分は一部知識階級層中心であった)
・途中からマルクス主義が付加価値を帯びた。(これも途中からではなく多分結党当時からの現象でしょう)
『宗教と共産党と科学と』
宗教と共産党と科学と、全く別々のジャンルの三題話的な題名であるのですが、、実はこの三者には密接な切っても切れない一体不可分の関連性があるのですよ。
これ、正反対の別々の話題ではなく、そもそもが『部分』と『全体』あるいは親子の関係であるのです。
近代科学を生んだものは西欧社会のキリスト教のルネッサンスと関連があるのは誰でもが知っていることですが、それなら少し見方を変えればキリスト教を母親として生まれた子供が『近代科学』であると言えるのです。
そして社会科学として共産主義が生まれるのも誰でもが知っているのですが、それならキリスト教と科学と共産党は姻戚関係があるのですよ。
共産党の直接の生みの親が『科学』であり、その偏屈な爺さんが『キリスト教』なのです。
それで幾ら自分自身が否定しても共産党の中にキリスト教的な悪しきDNAが脈脈と生き続けているので時々騒動を起こすのです。
高学歴の謹厳実直な真面目な社会人が、普段は理性で押さえていても酔っ払ったら本能が丸出しになり恥ずかしい行いをする日本の迷惑な酔っ払いを連想する話ですね。
『すべては「一神教的な世界観」に集約出来る』
そして日本の一神教信者(キリスト教)は1%程度の少なさで例外的ですし、世界三大宗教の一つのイスラム教などはもっと例外的で皆無と言ってよい。
何故世界では主流であるキリスト教やイスラム教が人々に受け入れられ無いかの理由ですが、その価値観が日本人には受け入れられないのです。
日本国で唯一、一神教教的な創価学会は日本の宗教とか党派の中では一番嫌われているのです。
これも矢張りその一神教的な価値観が一般市民の怒りを買い、到底受け入れられないのです。
ところが『一神教教的な世界観度数』と言う物差しで計れば、日本国内の全ての組織党派教団などの中では、そもそもの一神教のキリスト教教団を押しのけて、断トツに日本共産党の一神教度数の数値が高いのですよ。
日本の『仏教』は古来からの土着宗教や神道と癒合して進化して、それ以外の世界の『仏教』からは遥かに遠い到達地点にあるのですが、
これと同じことが日本のキリスト教教会にも言えて、世界基準の欧米的な純粋な一神教的では無いのですよ。
今の日本人では9割以上の圧倒的多数がキリスト教式の結婚式あげるのですが、一神教世界では『結婚式』とは、もっとも大事な宗教儀式なので他の宗派の信者の結婚式を行うなどは唯一神の冒涜(棄教)で許されるはずが無いのです。
(一神教教徒にとっては棄教は最大最高の犯罪行為)
日本では一神教であるはずのキリスト教会さえも変質してしまい、今では日本的な多重な価値観の一神教モドキに変質しているのですよ。
今では完璧に『日本的価値観』を受け入れているキリスト教ですが、名前は同じキリスト教ですが幕末から明治大正期には今とは全く違っていた。
当時は欧米一神教世界からの本場直輸入だったので戦闘的で排他的で独善的で不寛容で狂信的でもちろん教条的だったのですよ。
当時は宣教師が街頭に立ってキリスト教の辻説法をしていたのですよ。
こんな方法で仏教徒が悔い改めて、キリスト教信者が増えると思っていたのですよ。
あまりに馬鹿馬鹿しすぎる。
自分達の信じる教義は『絶対に正しい』ので誰でもが、一度でも説教を聞きさえすれば受け入れられると信じていたのです。
日本にキリスト教徒がいない原因は『神の言葉』を一回も聞いたことが無いからだとの信念ですね。
この信念は丸っきり、そっくりそのまま今の日本共産党幹部にも当てはまるのですよ。
有権者が共産党を支持しない理由は『未だ共産党の掲げる政策を知らないからだ』と思っていて、『有権者が共産党の正しく政策を知れば必ず支持する』ので、『共産党を宣伝すれば、共産党は支持される』と、心底思っていて何一つも疑っていないのです。
心底、溜め息が出ます。
今の共産党の持っている特殊性ですが、・独善的、独尊的・閉鎖的・排他的・不寛容・狂信的・教条主義
これ、困ったことにすべて単に『一神教的な世界観』の一言で説明が付くのですよ。
そしてこの態度は大正期までのキリスト教の特徴でもあったのですが、日本共産党が創設されたのは88年前で、これ等と同じ時期であるのです。
そして共産党ですが、一度決めたことは(当時は)『間違っていない(正しい)』のだから変えるのは間違いである。
『原理原則を守ることは正義である』などの官僚顔負けの不思議な官僚的な(政治的でない)発想が批判されること無く生き続けているのです。
芥川 竜之介の「神神の微笑」にありますね、「他国の宗教も日本国では同化してしまうだろう」と。
<引用>
「しかし泥烏須(デウス)は勝つ筈です。」
オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
「私(わたし)はつい四五日前(まえ)、西国(さいこく)の海辺(うみべ)に上陸した、希臘(ギリシャ)の船乗りに遇(あ)いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕(いのこ)にする女神(めがみ)の話だの、声の美しい人魚(にんぎょ)の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇(あ)った時から、この国の土人に変りました。今では百合若(ゆりわか)と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須(デウス)も必ず勝つとは云われません。天主教(てんしゅきょう)はいくら弘(ひろ)まっても、必ず勝つとは云われません。」
老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須(デウス)自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇(ばら)の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明(ゆうあか)りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
<引用おわり>
共産党も、日本に「同化」しない限り未来が無さそうです。
宗教否定の共産主義ではこの日本に通用しない。キリスト教国で生まれた宗教否定論は捨てて、この日本では逆にすべての宗教を大事にするほうがいいのではないだろうか?
つい最近のニュースでは、マンションに共産党のビラを配っていて住居不法侵入で逮捕された共産党員のお寺の住職がいたのですから、共産党が宗教を否定していると言うのは間違いで有るようですよ。
この記事の趣旨ですが、宗教論議ではなくて、
『88年前の、出来た時の時代の面影を伝える共産党』であるとか、
『一度決まったことを、自分自身ではなかなか変えられない共産党』などの不思議な困った話なのですよ。
一言でいうと、このブログタイトルと同じで共産党版『逝きし世の面影』なのですよ。
その上で付け加えますが、もっと積極的に宗教への理解者・擁護者というのがみられればと思います。もちろんカルトなどには徹底的に反対してもらうのは当然です。が、一般に受け入れられている宗教に対してのアピールが少ないように思います。
>この記事の趣旨ですが、宗教論議ではなくて、
ということなので、これで私のコメントは終わらせていただきます。失礼いたしました。ではまた~^^
廃仏毀釈ですが、
この事実は不思議なこと日本国内では極小さなこととして教えられているのですが、実はとんでもなく大きな仏教などの文化破壊活動であったらしいのですよ。
ところが行った連中が国家神道の神官や御用国学者などで、その後に大日本帝国を実質的に支配するのですから、自分の悪事を出来る限り小さく描いているのです。だから記録が少ししかないのです。
今日本で有名であるのはダライ・ラマの言い分そのままの中国共産党がラマ教を弾圧したとのデマ宣伝ですが、これは善悪を正反対に描いたとんでもない話ですよ。
中国革命以前のチベットですが、政教一致の神聖政治を行っていて人口の4分の一は僧侶であったのですよ。僧侶と言っても仏教を学ぶには授業料が必要なので貧乏人は学僧にはなれません。なれるのは壮士坊主と言う比叡山の僧兵のような無給の下働きの下級僧侶で実質は農奴以下の半奴隷的な存在です。
そして、この大量のラマ教の僧兵集団ですが実質的に中国軍よりもインド軍よりも断然強かったらしいのですよ。
イギリスに植民地化される以前のインドとチベットの国境線は、今のようにヒマラヤ山脈の稜線ではなくもっと南の山の麓であったのです。山は全部がチベットの領有だったのです。インド兵はチベットの僧兵に到底勝てなかったのですよ。ところがインドを植民地化したイギリスが強引に国境線を山の頂上の稜線や峠に引き直すのですが、これが1960年代の中印国境紛争に繋がるのです。
この国境紛争時にはインド軍は一方的に中国軍に負けるのですが、4000メートルの高地では平地の兵のインド軍は行軍するだけでばたばたと肺水腫などの高山病で死んだので勝負になら無かったのですが、大昔でも矢張り事情は同じで平地の中国軍は一度も高地のチベットの僧兵に勝てないのですね。
こちらに移行せよということのようなので、こちらに続きを書きます。
さて、秘密結社というものが組織防衛という観点から閉鎖的になるのは、ごく普通のことだと思います。
戦後、それを克服するチャンスが来たのですが、また、米国による弾圧が始まってしまったので、結局、そのままずるずると体質を引きずってしまっているように思います。
こんな話があります。
若いノンポリの自衛隊員たちが休日に「制服」を着て散歩していたら、公園で祭をやっていたそうです。
「楽しそうだな」と思って入って行ったら、「自衛隊は帰れ!」と石を投げられたのだそうです。共産党の祭だったのです。
この若い隊員たちは、たいへんショックを受けたそうです。
まあ、制服を着て入って行く隊員もアレなんですが、かのダボ神閣下にならともかく、そんな若い隊員に石を投げてどうするんでしょう。
ここで、若い隊員たちに共産党を宣伝しようなどという発想がその祭の主催者たちには全くないのです。
鶴見俊輔さんがイラク派兵時に、自衛隊員と家族のための駆け込み寺を開設して相談に乗っていましたが、そういう発想がないのです。
支持者を増やすべく熱心に布教活動をしていながら、その一方では警戒心というか敵愾心というか、旺盛なので無用に敵を作ってしまうわけです。
カルト宗教もまた熱心に勧誘している一方で、いろんな理由で増えてもらっては困るという矛盾した面を抱えています。
それは秘密結社云々とは何の関係も無いと思いますよ。
共産党は党員名簿を公開していませんがアメリカのように民主党や共和党の党員名簿を一般公開して誰でもが閲覧可能などは特殊すぎる例で世界には例が無いのですよ。
アメリカの制度ですがあれは民主共和両党は政府の一機関として公的な特権が与えられているからで、何処の国でも一般公務員の名簿は公表しているのです。
今回のコメントですが、護憲左派のRunnerさんの意見とは思えないですね。
共産党云々の話ではなくて、それは当然であると思いますよ。
その話は正反対に、共産党は左翼の癖に穏健であるとの逆の話であるのですよ。
東大ポポロ事件を失念しているのではありませんか。?
大学当局にも認められている正式な公認学生団体『ポポロ劇団』が政府や米軍の謀略事件である松川事件を題材にした演劇発表会の会場に私服警察官4人が密かに入っていたのを発見される。
内3人を学生が取り押さえて謝罪文を書かせるわけです。
警官が学生運動のつるし上げにあうわけですが、これを警察は『暴行罪』で逮捕、起訴するのですが地裁、高裁共に『学生の行為が大学の自治を守るためのものであるゆえに正当である』として無罪になるのですが、この後が何時ものお決まりの筋書きで最高裁で差し戻しとなるのですよ。
高裁ではなく、地裁に差し戻され地裁の平目裁判官はもちろん有罪で上告した高裁でもや張り有罪で最高裁は当たり前ですが有罪だったのですが、日本国は三審制ではなくて、何と驚くことに5審制だったという。
日本では基本的に逮捕された段階で被疑者は有罪で裁判が始まったら被告が有罪になるまで裁判は終わらない恐ろしい仕組みがあるのですよ。
それが、西洋のルネッサンスとしわれる時期、神学論争、神権政治などに対して、「人」の立場に立った「人文主義」そして人文科学が認められるようになった、ということをある本で知り、本文を興味深く読ませていただきました。
共産党については、とある住民運動に最初は熱心に参加していた党員が、ある日突然手のひらをかえすように引き上げてしまったことを覚えています。
だからといって、反共にはくみしませんが、支持するにしても消極的なものになってしまいまました。
神学とか哲学などの『人文学』は「人文科学」とは普通は呼ばないのではありませんか。?
科学とは客観的な第三者の『検証』で物事の正誤を判定するものですが、検証作業が基本的に不可能である神学などの人文学は『学問』ではあるでしょうが『科学』といえないと思います。
その意味でアメリカで一時大流行したフロイトやユングの精神分析学なども『第三者の検証』が不可能か、あるいは極めて困難であるので学問ではあるが科学ではない。
その為に『偽科学である』と断じる自然科学者も大勢いるようですし、向神経薬の進歩で今では以前のような勢いは無いようですっかり寂れ果てています。
科学と人文学との違いは、この客観的な検証が可能かどうかの違い以外にも、
科学は物事の正誤を論じるだけで基本的に善悪には関心を示さないのですが、
人文学がこの反対で『善悪』の方に重きを置いているらしいのですよ。
それで、日本の『新しい歴史教科書を作る会』の面々ですが、面白いことに会員の中には正式な歴史学者がいなくて教育学者が『歴史の教科書』を作っているのです。
歴史学は基本的に物事の正誤だけを問題としているし客観的的な第三者の検証も可能です。だから間違いなく社会科学の一分野です。
ところがこの作る会の教育学者ですが、正誤にはそれ程の関心は無くて『善悪』にえらく拘るのです。
しかも第三者の客観的な検証作業を嫌うのですね。だからこの『教育学』とは社会科学としての『教育学』では無くて、別のジャンルの『人文学』としての学問なのです。
自然科学ですが、物事の正誤を調べる手法は、対象物を徹底的に細分化していき小さなミクロな存在にして解明する顕微鏡的なやり方が主で、
その正反対な大きな対象を大きなままでマクロに監察する手法の生態学とか気象学などは歴史も浅くまだまだ未発達で発展途上段階です。
そして数千年の歴史がある自然科学よりも高々長く見積もっても数百年ていどの歴史しか無い社会科学は、もっと発展途上であるのです。
対象物が社会なので、自然科学の得意の手法である細分化とか分類、顕微鏡的な観察が出来ないのと、気象学と同じで検証作業がとんでもなく長い時間がかかる困難があるので発展が遅れているのです。
今の共産党の色々な問題点も矢張りこの検証作業の困難さが理由ですね。
ごく最近の話ですよ。
この手の話はよく聞きます。
つまり、ここで言いたいことはましまさんが体験されたように、
>とある住民運動に最初は熱心に参加していた党員が、
>ある日突然手のひらをかえすように引き上げてしまったことを覚えています。
というのと同種の話です。
支持者を増やそうとしているようで、その一方で、???という行動が見られるのです。
ここでは共産党の閉鎖性というテーマで紹介していますので、また、別のエピソードも明日紹介します。
「大学になんか行ったらろくな人間にならない。それよりも、社会に出て苦労させた方がよほどよい人間になる」
徳球さんにとって、大学とは、体制側が作った価値観がうごめくいかがわしい空間だったのでしょう。
ところが、そんな共産党が今や高学歴を売りにする政党になっています。
東大を出なければ党首になれないとまで言われています。
こういう、言わば「学歴エリート」集団が独善性や独尊性といった性格的傾向を持つことはある意味当然ではないでしょうか。
つまり、元々、そういう性格的傾向を持った人を集めたから、党の問題点となってしまったように思います。
この国の教育体系が歪んでいること、その歪みの中心に東大があることは、「問題意識」を持つ人なら、もはや、説明の必要はないでしょう。
かつて田中角栄元首相は、この歪みを是正すべくフランスのバカロレア方式を導入しようとしましたが、当時の文部官僚たちの猛反対にあって頓挫してしまいました。
結局、歪みは放置され、その後さらにひどくなっています。
この国で、いわゆる「一流大学」と呼ばれる所へ入学した者は大なり小なりある種の精神病理を抱え込んでしまう。
この場合、学歴は「外的根拠」となるためです。
「外的根拠」なしにその種の精神病理を抱える者は、本格的に「精神病」とみなされ笑われるのですが、「外的根拠」がある場合は世間的にはスルーされるし、本人も批判精神を損ねてしまう。
「いや~、○○さんちの○○ちゃん、東大に合格したの。偉いわね~」などと近所中のオバチャンに誉められると、誰でも簡単に木に登ってしまうものです。
しかも、共産党はすすんで、そういう者を集めて幹部にしているのですから、ここで「集団心理」というものも発生してしまう。
似た者同士が集まると相互に正当性を確認し合うので、外的根拠が増幅強化され、批判精神はさらに失われる。
そもそも、人は何のために東大に行くのでしょう?
家の近所にあって通学に便利だったからでしょうか?
学びたい学科が東大にしかなかったからでしょうか?
敬愛する学者が現在東大に勤務していたからでしょうか?
逆に、この国の教育体系に疑問を感じて「東大にだけは行きたくない」と言う者もいる。入れるかどうかは別にして。
ピーターさんや河島英五さんのように、エリート高校に通いながら大学に進学しなかった者もいる。
尾崎豊くんにいたっては、高校も中退してしまった。
果たして、左翼精神を持った者が東大に進学するのだろうか。
そう考えると、そもそも東大出の者に反体制がつとまるのか、左翼がつとまるのか、共産党がつとまるのか。
といった疑問もわいてきます。
余談ですが、似たような理由で、「巨人ファンの共産党員」というのも私的には怪しげです。