近頃ネット世界では、内田樹神戸女学院大学名誉教授の『ネット上の発言の劣化について』と、武田徹恵泉女学園大学教授の『反原発vs.原発維持 単線的な2項対立を乗り越え、社会の「総リスク」を減らす視点で議論をしよう』が、議論を呼んでいるというので早速自分でも読んでみた。
『実に判りやすい』公衆便所と化したネット空間
内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』ですが、この『主張』の対象者が近頃ネット世界だけに蔓延る小林よりのりの漫画で『真実の歴史を知った』(親や世間や日教組の先生に騙された)と思っている、いわゆる嫌韓嫌中の若者達なら、実に判りやすいし、誰もが納得する話である。
彼らのネット上の『他人を傷つけ自分自身も傷つける』ネットゲリラ的な匿名による悪罵の数々の不思議は、まさに宗教的な呪術であり『呪いや、たたりの一種』であるとの、内田樹氏の判断は素晴らしく私としても何の不満も無いし全面的に賛成したい。
心優しい日本の若者達は(インド秘密仏教系の)密教的な丑の刻参りのように誰にも見られない深夜に匿名で、自らの傷ついた自我を何とかして癒したいと思い、ネット空間の憎むべき対象相手に悪罵の限りを尽くしている。
これはネットの仮想空間で、しかも匿名で誰にも見られていないからとの条件付きである時にだけ、やっと出来る程度の超消極的なマイナーな現象なのですね。
『呪いは一方向ではなくて双方向』
『呪い』ですが、本当に呪いが実現する為の絶対条件として、呪う側と呪われる側の双方の(無意識の)協同作業が必ず必要であり、片一方(呪われる側)が無視すれば『呪い』は成立しないと、『痩せゆく男』でスティーヴン・キングは語っている。
これは今のネット世界での日本の哀れで小心な極右青年の『呪い』や『たたり』にもぴったりと当て嵌まります。
極少数の例外を除けが、この様な恥ずかしい行為は面と向かって昼間に堂々とは『絶対に出来ない』のですね。
此処が似ている様で欧米キリスト教等一神教世界でのネオナチなど極右とは大きく違うところなのですが興味深い。
欧米や中東世界など一神教世界では実名で写真まで掲載するフェイスブックが流行り、対照的に日本では匿名のツィッターが流行る。
日本とは違い彼等は実名でネットに主張を投稿して実際に実行するのです。ノルウェーで100人を虐殺したキリスト教原理主義などとは日本のネットウヨの例は正反対なのです。
ところが内田樹の主張が問題なのは、彼の『論』の主語に当然あるべきネットウヨとか嫌韓嫌中とかの文字が何処を探しても無いことなのです。
これが不思議にも省略されている。
普通なら書き忘れる筈が無い。
書き忘れで無いなら、これは如何も、最初の話自体が根本的に『違っている』(善意の思い込みか勘違い)可能性が高い。
それでは、この内田樹が『ネット上の発言の劣化について』で取り上げている相手とは誰か。
そう疑問に思って再度読んで見れば、ネット空間で匿名で呪いの言葉を垂れ流す哀れな連中として密かに取り上げているのは、現実のネット世界に存在する嫌韓嫌中ではなくて、実はそれとは縁もゆかりも無い『対象』らしいのです。
『政官産学報、原発安全神話鉄の五角形』
驚くことに、この記事で内田樹の考えている対象は、何と何と、福島第一原発事故の現実の余りの悲惨さの影響で『脱原発』を主張している人々なのですよ。
安全神話の呪縛から原発推進のしがらみから抜け出せない政府やマスコミや原子力村の学者などに対して『非難の声を上げている』人々の当然の正しい主張を、『批判や罵倒部分がある』との理由付けで『呪い』であると正反対に描いているのですから恐ろしい。
この『ネット空間の呪い』は内田樹の脳内にだけある特殊な妄想であり現実ではない。わざと大事な主語を意識的に抜いて反原発運動を攻撃するとは、何とも主張が胡散臭く陰湿であり、卑劣。
内田樹の悪賢いところは、必ず有る筈の主題の対象者を明らかにしていなくて、読者に推測させるように誘導していることでしょう。
自分のエアーな御用学者の醜い主張に対して、少しは後ろめたさを感じているのだろうか。
もう一方の武田撤の主張は『単線的二項対立は褒められたものではない。乗り越えられなければならない』との主張はもっと露骨で浅ましい。
福島の現実を見れば誰でも感じる(今までの間違っていた原発推進)『怒り』に対して、『褒められないことである』(間違いで、悪い)と断定しているのですから、その目的は明白である。
何とかして今の盛り上げる『原発反対の世論』に水を差したいのですね。
武田撤は、(3・11以前の状態のように)あからさまに『原発は安全で夢のエネルギーである』とは言いたくても言えない。
それで、仕方なく発言方向を若干判りにくく修正しているのですが、ゲリラ的に正体を隠して反原発を攻撃する卑劣で薄汚い『隠れ原発推進論』の邪まで醜い印象操作(世論誘導やプロパガンダ)でしょうね。
『危機に瀕している原発安全神話』
3・11事故以前の原発安全神話全盛時なら滅多に見られない種類の文章ですが、安全神話が危機に瀕している現状では原発安全神話の大悪党小悪党の魑魅魍魎がわんさかわんさか湧いて来て、色々な場所で蠢動しています。
ネット芸人の阪大物理学教授の菊池誠教祖は、今までどうりの相変わらずの卑劣なやり方で、長年原発安全神話を告発している広瀬隆氏を『とんでもである』と個人攻撃をしている。
ところが3・11までなら大成功している同一手口なのですが、福島第一原発の爆発で世界が変っていた。
ニセ科学を批判したつもりが、自分の薄汚いニセ科学ぶりが世間にばればれである。天に唾するの例えのとおりで、告発したつもりが薮蛇になる。
今現在では、マコト君はエアーな御用学者の筆頭に名前が上げられている始末である。
マスコミにちやほやされた電波芸人の香山リカも同じようにブログで『反原発は引きこもり』と主張、およそ科学者の端くれなら恥ずかしくて書けない種類のゴミであり、当然みなさんに批判されている。
この香山リカは、当然の謝罪におい込まれたのですが、その謝罪の文書の支離滅裂の情けなさ過ぎる無内容には流石に呆れる。低レベルで思考力の劣化が激しい。
内田樹は『ネット上の発言の劣化について』の直前に『140字の修辞学』なる記事がアップされていて、他人事ではなくて自分自身がツイッターで不愉快な目に遇った可能性が可也高い。
この事実も大きく影響しているのでしょうが、時系列的に考えれば、この香山リカが原発安全神話(いかがわしい脱原発との印象操作)を振り撒いてネットで袋叩きに遇うさまを見て、今回の内田樹の『ネット上の発言の劣化について』の記事が書かれた可能性の方が高いでしょう。
だから当然あるべき主語(脱原発)が無いのです。
お間抜けエアー御用学者の菊池誠や香山リカのように、はっきりと主語を書けば自分がどうなるかの結末を良く知っていた。
それで意識的に巧妙に主張の核心部分を抜いて、非難の矛先が自分に向かないように注意深く用心している。一言でいえば小心で悪賢い小悪党ですね。
内田先生は、ときどき敢えて読者が誤解するような書き方をするので注意が必要です。(重要なこと、重要な単語を文中から敢えて隠す)
内田樹先生が好きなものは、思慮深くて知性と教養があるもの。社会的地位があって排他的でなく友好的なもの。優しく豊かなもの。煌びやかでゴージャスなもの。
甘美で優雅で心地の良いもの。
豊かな財産と広い交友関係を持つ大人。付き合って愉快で楽しく才能のある若者。
嫌いなものは、偏狭で卑屈なもの。排他的で許容量の狭いもの。知性も教養も財産も無いもの。やがて糾弾されるであろう狭量な権力者。評価されるべき価値のある才能も技能も無い社会的弱者。
虐げられた大人。不愉快な若者。
しかしながら、それにもかかわらず、社会的弱者、知性も教養も無い若者、偏狭で卑屈で醜い人々を『救済しようとする人』は賞賛する。
弱者を救済することは、強者にとっても居心地の良い社会を構築することになるという主張はする。
ここで、社会的弱者、つまり内田先生に疎まれる弱者は誤解する。
内田先生はわれわれ弱者の味方である、と。
これは誤解であり、内田先生の著作(ブログも含めて)の陥穽である。内田先生は、弱者の直接的な味方ではない。
弱者を救済しようとする強者を賞賛しても、自身が直接的に(不愉快な)弱者と交わり、弱者を救うという行動は取らない。(もちろん、だからといって内田先生が糾弾されるいわれも無いんですが)
つまり、弱者の直接的な味方にはなるつもりはない。この点については、社会的弱者であり且つ内田先生の信奉者の方は心得ておいたほうが良いように思います。
内田先生を非難しているわけではなく、社会的弱者の方は、心得ていたほうが良いということです。
『私は人類を愛する、しかし隣の親父は憎らしい』by ドストエフスキー
ドストエフスキー氏は正直でした。(隣の親父とは、身近にいる不愉快な弱者(ネトウヨも含む)のことでしょう)。
よく内田樹を正しく客観的に観察していますね。第二次世界大戦時に証明されたような日本人の中産階級の知識層の典型的ないやらしさや卑劣さを彼も持っているのですが、内田樹はそれ以外の別の『何か』を持っている。
この『別の何か』が皆さんが『特別』に見えるので、それで多くの人々に支持される所以なのでしょうが、あれは欧米キリスト教のアッパーミドルのインテリ階層の特徴と同じであろうと、思っているのですよ。
キリスト教の教義を抜きにしては理解出来ない。だから私が反発を感じるのですが、彼が俄然注目を浴びたのは内田流格差論ですね。
俗論、内田流格差談義の腹立たしさ
2008年02月23日 | 経済
俗論、内田流格差論が流行った理由
2008年02月24日 | 経済
内田流格差論を一言で説明すれば『生臭坊主の説教と同じで真実みが無い』、ところが皆さんはこれにころっと騙された。
福田康夫の首相の辞任会見時の、『私は自分を客観的に見れるんです。貴方とは違うんです』がえらく評判が悪い。
何故でしょうか。?
辻褄が合わないのですよ。
なぜなら大流行の内田流の特徴とはまさに福田康夫の、『私は自分を客観的に見れるんです。貴方とは違うんです』であり、
普通の多くの人は、内田氏の論の如く自分を客観的には見れない。
しかし『自分を客観的に見る』事は、政治家にとっては、否、政治家以外の全ての人にとっても一番大事な事柄ではないでしょうか。
福田康夫の『私は自分を客観的に・・・・・』を聞いて『そのようで有りたい。』納得したのは私だけだった。
今までのインテリは、哲学だ、世界観だと大上段に構えて長たらしく出来る限り小難しく書いて有るのが此れまでのやり方だった。
哲学者は普通の市民が理解できるようでは値打ちが下がると思っていたんですよ。
今まで取り付きにくくて誰も読まなかった哲学を判りやすく書いた事は内田樹の功績でしょう。
『哲学』だと市民が警戒する。
内田樹の一番の成功の秘訣は哲学を『哲学です』とはっきり言わなかったところでしょう。
ソクラテスやアリストテレスやカントの言葉を現代日本語に翻訳して判り易く解説して見せた。
これでは、なるほど評判になるわけです。
しかし、内田樹のとりあげている『論』はどれもこれも、典型的な観念論哲学の王道で『彼ら以前の観想モデル』から一歩も出ていません。
内田樹を知ったのは内田流格差論からで、氏の格差論を一言で表現すると『格差は気持ちの持ちよう』で、古今東西の観念論哲学者の普遍的な典型例です。
内田樹が哲学を解り易く解説した功績は大でしょうが、所詮俗流観念論では実社会に適応させるとトンデモナクなる見本が内田流格差論です。
過激な意見なら、あれは社会に害毒を流す俗論で最悪。
穏健な批判でも痛みを和らげる麻薬か実態を隠す煙幕の役目しか果たせないでしょう。
内田樹の格差論は、ほんの一部の例外を除いて、日本で深刻な格差問題の解決方法には何の役にも立たないまったくのガラクタです。
そういったことを踏まえて内田氏の「論」をどのように受け取るかは、これまた個々人に課せられた「任務」の問題でしょう。ガラクタと受け取るならそれでもよし。何か特別なものだと思いなして、そこから行動を起こすのもよし。観念論だからといって役に立たないわけではない。それを実践しようとする者にとっては。
「ネットは公衆便所である」と私は言いましたが、訂正させてもらいます。「ネットは糞溜めである」と。
(汚くてスミマセン。)
公衆便所と糞溜めの違いは、下水処理場に繋がっているかどうかです。公衆便所は処理場に繋がっている。糞溜めは繋がっていない。公衆便所と比喩すべきものは、宗教でしょう。宗教という公衆便所の機能は、人間が垂れ流す汚物を「あの世」という処理場へと運ぶこと。宗教者は公衆便所の清掃人ですね。
宗純さんが好みそうな定義でしょう(笑)
人間はコミュニケーションを喰らう生き物だが完全な存在ではない。消化できない汚物を日々垂れ流す。それを公共の場に投棄しては精神の衛生状態が悪くなって仕方がない。だから、どこかへ流して処理しなければならない。宗教はその役割を担っているわけですね。
欧米流の一神教は近代の下水処理システムだと言えましょう。人々は教会という公衆便所に集まって汚物を放りだし、「あの世」の下水処理場へ送る。「あの世」には強力無比の処理人が待ち受けていて、いかなる汚物もたちどころに浄化してしまうはずなんですね。
ところが現実にはこのシステムはあまり上手く働いた試しがない。配管が杜撰なのか「あの世」がそもそも存在しないのかは定かではないが、糞尿はいつも「この世」に溢れ出して、諍いを生み出している。戦争ですね。
日本は現在に至るまで、欧米流の糞尿処理システムを整備したことがない。いや、明治維新からしばらくの間、実験的にシステムを稼働させてしまいましたが、すぐに故障して下水場管理人だったはずの天皇が「オレは人間だ」といって任務を放り出す始末。もっとも、日本人はもともと糞尿処理をシステムに頼らず、「そこいら」で用を足して自然へ帰すというやり方をしていたので、天皇が任務放棄してもさほど困らなかった。困るようになったのは、欧米の真似をして、いや欧米以上に近代化を進めてしまってから。あちらこちらが舗装されて「そこいら」で用足しが出来なくなったんですね。若い世代などは「そこいら」で済ますということすら知らなくなってしまった。で、ネットで用を足すということを始めたが、ここは溜まる一方。臭くてかなわない。さすがの内田氏でも「臭いは気の持ちよう」と言えないほどに(笑)
ここで上のコメントに戻りますが、内田氏は「臭い」とは言っても、それを掃除しようというつもりはない。自分の「任務」だとは思っていないし、自分には自分用の便所があるとも思っている。ですが、大半の人間が鼻が曲がってしまっているところへ、キッチリと「臭い」と指摘はしたんですね。
>私自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは
>「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」
>という拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている。
はあ?少し変ですね。なぜ、拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したのか?という考察が抜けています。
それは、この社会が、お金が無いと、殺されるか刑務所に入れられるような社会システムであるということです。
しかし、内田先生が若者であった時代、つまり1980年代から、1990年代は、お金が容易く手に入る時代だったのです。
だから、それでも差しさわりが無かったんですね。わたしも、その時代に、アルバイトで生計を立てていたのでわかります。
一日8時間、一月20日働けば、結構面白おかしく、贅沢に暮らせました。
バイトが終われば居酒屋に繰り出し、カラオケボックスで大騒ぎして、幸せな気分でぐっすり眠る。
例えばスーパーのレジ打ちが時給1100円。一日8時間一月20日働けば、17600円。
今、その同じスーパーは時給900円です。月収14400円。たかが32000円の差だと思うなかれ。
この差は大きいんですよ。必要経費である、家賃60000円。水道光熱費30000円。通信費5000円。健康保険10000円。国民年金14000円として。
昔は、一月の可処分所得は57000円。しかし今は、25000円。
内田先生はこの大きな差額について、考慮していない。
内田先生の貧乏な青春時代には、お金が容易く手に入った時代だったのです。その感覚を今に持ち込まれても困惑するばかり。
あのう、内田先生、先生の青春時代みたいに今はお金(刑務所に入れられない費用、生物学的生存に必要な費用)が、お気楽に手に入らないんですけど…。
ということですね。
格差よりも、貧困というのが問題だと思うのです。
『どんな職業でも、誠実に地道にコツコツ働いていれば、人並みの暮らしが出来る。
これが安定した平和な社会にとって大切なことだと思うのです。』
格差なんて、どんだけあっても良いのですが、人が真面目に地道に誠実に働けば、人並みな暮らしが出来る。
つまり、結婚して、子どもを産み育て一人前の大人にする。
これが実現できる社会でなければ、人類は滅亡すると思うのです。
内田先生のブログ記事、内田流格差論(格差って何だろう)のなかでこんな記述があります。
>私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、
>私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。
>私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。
これも酷いと思います。
あいつは、学ぶべき長所もなければ、付き合っていて利益を得ることも無く、むしろ、損害を被ることの方が多い。
それでもなあ、ご縁があって知り合いになったんだし、困っているときに知らん振りもできないから、自分の利益にはならないけど、いっちょう一肌脱いでやるか!
そういう友だちは、内田先生にはいないんですかね。
学ぶべきものなんてなくても、被害を被ることの方が多くても、やっぱり友だち。友だちって、功利的なものではなく、不合理なものだと、私は思います。
内田先生の論考に批判的になるのは、弱者や困っている人を助けるのは、一義的に正しいことであって、二次的で功利的な理由の故ではない。
という思いが強い方だと思います。
蛇足ですが、格差と貧困の問題はまったく別です。これを取り違えては、いけません。
今、その同じスーパーは時給900円です。月収144000円。たかが32000円の差だと思うなかれ。
この差は大きいんですよ。必要経費である、家賃60000円。水道光熱費30000円。通信費5000円。健康保険10000円。国民年金14000円として。
昔は、一月の可処分所得は57000円。しかし今は、25000円。
景気を回復させるためには、総人口に占める生産人口の割合を減らさないようにする必要があります。 それには、非労働者が多い女性や高齢者などの就労支援や、場合によってはワークシェアリングを導入する、などの失業者対策の政策が重要です。
上の他の投稿コメントに影響されたのでしょうが、内容的にはこの場所ではなくて一つ前の、経済のカテゴリーの『米国ソブリン危機(Xデー)を秋まで先送りで、止まらない円高』への方がぴったり行くと思います。
ネット上の印象操作とは話がずれて仕舞うのですよ。
資本主義経済ですが、必ず循環するものですが何事にも例外があり、そのほとんど唯一の例外が我が日本国なのです。
経済とは良くなったり悪くなったりと周期的に循環していて同じではなくて数年後には必ず変化して8~10年で元に戻るのですが、ところが日本では20年間一定の位置に止まっているのですよ。
この事実は私が長年主張していたのですが、この不思議な日本国独自の事実に、やっと数年前からはぼちぼちと気が付く人が現れた。
ところがですね。
この連中ですが、口を揃えて人口減少を理由に挙げているが笑止千万。
馬鹿馬鹿しすぎる。
多分わざと間違えて人々を勘違いさせているのでしょうね。
日本は確かに少子化しているがお隣の韓国は日本以上に少子化ですよ。
欧州諸国もほとんどの国は少子化ですし、先進国や先進国に近い国々はすべて少子化。
少子化で無いのは米国だけの例外であるのです。少子化論を唱える学者ですか、多分何かの工作員(真実を誤魔化すための煙幕)かそれとも単なるお馬鹿さん。
『総人口に占める生産人口』なる言葉自体が間違いで正しくは生産人口の中から働かない学生などを除き定年退職後にも働いている人を加えた本当の数字である『労働人口』なのです。
この違いは大きいのだがわざとこの連中は間違えていて、人々に間違った結論に誘導しているのですよ。
日本が高度成長していた時代と、停滞している今の労働人口には全くの差が無いのですよ。
統計とは、恣意的にこの様に幾らでも操作が可能なのですね。
湧泉堂さんのコメントも矢張りこの記事ではなくて内容的には前の方で紹介した、経済のカテゴリーの、
俗論、内田流格差談義の腹立たしさ
2008年02月23日 | 経済
俗論、内田流格差論が流行った理由
2008年02月24日 | 経済
の方が内容的にぴったりだったでしょう。大昔の記事でもコメントは大歓迎です。
これでは、今回の主題である、『ネット上の印象操作』とは話がずれて仕舞うのですよ。
内田樹ですが、右翼論壇の作る会とか日本会議などの連中と比較すれば、その知識とか判断力のレベルの高さは段違い。
なぜか世間の人々にとんでもなく人気がある養老孟司に比べても矢張り知性の高さは段違いですよ。
だから内田樹人気が高い理由があるのだろうと思うのですが、記事にも書いたが主張は何とも腹立たしい。
20年前のバブル時代なら私も大賛成するが、今の現実問題には何の役にも立たないばかりが放射性汚染物並の害毒を流す。
それにしても『大学教授が主張したから』との理由が大きいのですよ。
同じ内容を例えば清水寺の管主が発言していたら、私としては『なるほど、なるほど。』としか言わないし決して反対しないのです。
何故なら、あれは経済論ではなくて単なる宗教的な道徳論であり、それ以上でもそれ以下でもない。
これは世間の評価でも良く似た話で、坊主の説教ではなくて大学教授の発言なので、何かの科学的な論説ではないかと誤解する人が必ず生まれる。
内田樹の悪質なのは、この様に人々をある種の錯覚に誘導する技術が長けていることでしょう。
だから私が口を極めて非難している訳です。
内田樹ですが神戸のプロテスタント系のミッションスクールの教授なのですね。
今では日本国のキリスト教も随分穏健化して完全に『日本化』したのですが、明治大正期では今とはまったく違う宗教だったのですよ。
欧米から来た宣教師が街角に立ち辻説法していたのですね。
日本にキリスト教徒が何処にも無いのは人々が『本当の真実の言葉』を聞いたことが無いと信じていて、一言聞くことが出来れば全員がキリスト教に入信すると思っていたらしい。
アフガニスタンのタリバンも真っ青の狂信者集団であり何とも考えが偏狭で恐ろしい。
内田樹ですが、あれはキリスト教の何かのミッション(教育宣伝活動)なのですよ。多分。
判りやすいように記事の本文に5行ほど書き足しておきました。
ところが、ある程度以上の知識層では得られる情報量が違い、敗戦する前から十分に戦争の悲惨な結末は理解していたのですね。
ところが彼等は極々内輪では真実を語った可能性もあるのですが、困ったことに仲間内でも少人数なら戦争での物資欠乏などの消極的な不満程度でお茶を濁す。
もう少しの人数なら当たり障りの無い話で済ます。
もっと大勢の前で語るときは君子豹変で帝国大勝利だの神州不滅だの八紘一宇だの陳腐なスローガンの戦争賛美を叫んでいたのですね。
これでは日本の石原慎太郎であるとか経団連の米倉弘昌会長であるとか読売新聞の渡辺恒雄など、
今の日本国の特権階級の実に思いあがった国民蔑視、大衆罵倒で自らを誇示するヒロイズム、卑しい選良主義などと同じ、腐敗はその極に達している。
彼等は例外なく自分達が庶民層とは違う『特別に選ばれたものである』との意識を連中は持っているのですが、戦前のインテリ層でも、やっぱりある程度は同じような特権階級意識があったし、その特権意識に吊り合った矢張り腐敗もしていた。
戦前に自分の体を張って、真実を伝えようとしたのはごく一部の共産党幹部程度で、他の知識層は見てみぬふりで、大勢の前では自分の思っていることの正反対を恥ずかしげもなく語っていた。
永井荷風のように恥を知っていて、語ることを拒否した良心的な消極的反戦派など例外ですよ。
他の大多数は、自分では心の中では反対している負ける戦争を積極的に煽っていたのですよ。情けない。
まさに、今の内田樹ですよ。
本当に腹が立つ。卑劣の極みです。
その後の、愚樵さんの宗教は公衆便所であるとの論には、メカニズムに対しては異論は無いのですが、この場所での論評は控えさしてもらいます。
何しろ今回他のコメントにはもう少し記事に即してのてコメントをと主張した手前、宗教のカテゴリーを持っているブログ管理者としては、示しつかないのですね。