何とも嘆かわしい話である。
大学が安易に秩序維持の目的で国家権力の一部である警察力に頼るなどは、大学自治や学問の自由の放棄に近い愚行であり、本来はあってはならない不祥事であろう。
トルストイの平和主義や『自由主義的な刑法学説』を講義して、当時の鳩山一郎文部大臣から『共産主義である』として追放された京大法学部教授滝川幸辰を支持して学生や教授陣が自主退学して抗議した『滝川事件』の、反権力・自主独立の京大の伝統が泣くというものです。
『無意味な受験地獄の大きな弊害』
お隣の韓国は日本以上の受験地獄ですが、これは科挙の試験の伝統がある東アジアだけの特殊例で世界から見れば珍しい出来事らしい。
高等教育の基本は本人に意思と能力があれば、後は大学に入って努力で伸ばせば良いのであって、日本のように入り口を狭めて合格者を極端に絞り、後は4年間も遊び呆けても卒業できる大学制度など勿体無い話である。
世界に比較して日本の大学生の勉強時間が最低らしいし、日本国内に限っても小中高校生よりも断然大学生の方が一番勉強時間が短い逆転現象が起きている。
読書数も矢張り最低である。
日本では大学入学までは文字どうり必死になって勉強するが、受かると卒業までの4年間は褒美としてモラトリアム状態で、怠けても大学当局が学生を救ってくれる麗しき互助組織か共同体状態なのです。
その為に、今の全ての大学教授は例外なく、口を開けば『近頃の学生は勉強し無い』と嘆く情けない有様になっている。
そういえばカンニング騒動が始まるまで、大騒動だった大相撲でも親方連中は『近頃の力士は稽古をしない』と口を揃えて嘆いていた。
共通点はどちらも入学(関取)資格取得の入り口ではトンデモなく厳しくて難しい。
ところが一度難しい資格を取ると後は互助会組織か共同体意識で余程のことが無いと身分が安泰なのでね。
これでは幾らでも八百長が蔓延るはずですよ。
本来は、入り口は問題ではなくて、入ってからの方が大切なのです。ところが日本の大学の学生も大相撲の関取もこの基本を完璧に失念しているのです。
今度の騒動で、19歳の予備校生とか八百長メールの力士の問題点よりも、そんな制度設計をしていた大学当局や大相撲理事会の『責任』の方が、はるかに重いことに気が付くべきでしょう。
『実は長い、日本の大学の歴史』
日本では明治維新後に大学認定された歴史だけを公表する風潮があり、それなら一番古くても東大の133年前程度の長さにしかならないが、現存する大学で日本最古の大学は京都にある種智院大学で弘法大師空海が828年に創設しているので1200年の伝統があり、世界最古と言われている1088年設立のイタリアのボローニャ大学よりも遥かに古い長い伝統がある。
1209年創設のケンブリッジや1096年創設のオックスフォード大学など全ての欧州の伝統ある大学は最初は教会付属の神学校として設立しているのです。
ですから工学部などがこれ等の有名大学の正式な『学部』とされるのは19世紀以降の極最近の出来事ですよ。
これ等の高等教育機関は日本でも事情は同じで、最初は神学(教理)を教える学問所として設立されたのです。
鎌倉仏教の浄土真宗の開祖親鸞は今までの世間の常識の反対の、『善人なほもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや』と他力本願での救済の精神を説いている。
これを今度の事件に当てはめてみると、
『かしこは皆大学試験に合格できる、いわんや阿呆をや』とは今回ならなかったのですが、受けたのが国立京都大学だったからでしょう。
受験関係者は大学人であると同時に、全員が間違いなく公務員(官僚)ですよ。 日本では公務員相手に不正を働いたなら間違いなく警察に突き出される。
京都大学にしたのが根本的な間違いで、ここは京都にある大学でも、西本願寺系の本願寺派の1639年創立の龍谷大学とか、東本願寺の真宗大谷派系の1665年創設の大谷大学 だったら教祖親鸞の他力本願に免じて見逃してくれて『いわんやアホをや』と入学を許可したら『美談』になってハッピーエンド。万々歳となり迷える人々はみな救済されている?かも知れないのです。
『アホこそ入学させるべき』である。
何故なら、『善人なほもて往生をとぐ』ので勿論勉強がよく出来る賢い受験生は学校側が入学させるのは当然である。
しかしそれ以上に、教育の最も大事な基本的な考え方に立ち帰れば、実は現実に目の前にいる勉強が出来ない愚かな者たちこそ親鸞上人の教えに則り『いわんや阿呆をや』と、勉強させて賢くする教義上の必然性が本来あるかも知れないのです。
確かにカンニングは褒められた行為ではないにしろスポーツに八百長がつきものと同様にテストにはカンニングがつきもの、それを警察に頼るとは大学側も恥ずかしくないのでしょうかね?
なんにしろブログ主さんが仰るように入るのは大変だが入ってしまえば・・・ の体制に問題があるのでしょうね。
仰られているように,たいへん恥ずかしい行為ではありますが、相撲の八百長も試験のカンニングも直接禁じる法律が無いので何れも法律的には違法では無いのですね。
これ等は組織内部の極内輪の規則には明確に違反しているのですが、力士も受験生も大学や相撲協会の業務そのものを妨害する意図は何も無いのです。
ですからこれは道徳問題に近い話なのです。
そしてこれ等の道徳とは本来は個人の『内心』に由来するのですから、これを今回のように公権力が介入するなどは近代社会では本来はあってはならないことなのです。
確かに道徳的ではあるかも知れないが、都条例で石原慎太郎が漫画で近親相姦を描くことを禁止するのと同じような話で、前近代的なアナクロニズムでしょう。
それにしても京大関係者は大反省して頂きたい。
これでは大学人などと言える水準には無くて、小役人的な官僚発想程度ですよ。
今の日本の深刻な停滞や、その昔の科挙の試験で秀才中の秀才を登用していた中国の清帝国、李氏朝鮮の腐敗停滞の原因を考えれば、自ずと判ると思うのですが、
既に決まっている定説を一定時間内にどれだけ正しく答えられるかを厳格に選抜していけば、基本的に小役人程度の人材しか集まらないのです。
何も起こらない太平の世の中であればそれでも十分でしょう。
平時なら許されても、今のような世界が激動期に入っているような世界では、常識や定説を打破するこのような人材こそ、高等教育や高等文官試験では必要とされているのですよ。
『誰もやらなかった』ことが発覚した時には、事の善悪とか正誤の判定以上に、この『誰もやらなかった』ことを最初に行った決断力と独創性、勇気こそ賞賛するべきではないでしょうか。
冷戦崩壊後、世界は大きく変わってきているにもかかわらず、日本は今までと変わることなく相変わらず、良かれと思って今までの定説どうりにアメリカの指示どうり国家経済を運用したなら『失われた20年間』が生まれたのです。
京大やその他の大学はこの19歳予備校生のような人材こそ今の日本に必要なのだとの認識が無いのですよ。
世間の評価は、成功したら偉大な革命家で、失敗したら単なる犯罪者なのでが中身は五十歩百歩であり、沢山の失敗例から極少数の偉大な発見や革命的な発明、歴史的な改革が生まれるのです。
今の日本国のように失敗を全員で叩いていても何も生まれません。