『強者と勝者とが同一とは限らない』
全ての勝負事に共通する原則ですが、 同じ選手、同じチームでもモチベーションやコンディションが同じとはいえず、その時々で少しずつ違っているので『勝つ時』もあればその反対に『負ける時』もある。
『必ず強い方が勝つ』なら、そもそも競技して勝負する意味が無い。
明らかに弱い方が勝つことが、時々確率的に起きるから『競技』や『ゲーム』や『賭博』が成り立つ。
ですから国際サッカー連盟(FIFA)世界ランキング45位の日本でも、ランキング1位のブラジルに100回ぐらい試合すれば何回かは必ず勝つことが出来るものです。
日本のサッカーも自国開催(日韓共催)時には個々の選手のモチベーションが最大限に盛り上がったので3勝も例外的に勝つことが出来たが、何時もの海外開催のワールドカップでは今まで一勝も出来ていなかったのです。
毎回、1試合で得点が最大1点止まりなので引き分けが精一杯で、勝てなかった。
南アフリカでの対カメルーン戦で日本の勝利には外国の新聞の中には『日本のHONDAが快走』などの見出しもみられたようですが今回は、試合開始前の国歌『君が代』斉唱時に行儀の良いことで知られる日本の選手の態度が、何時もとは明らかに違っていたのです。
此れが幸いした。
『小石は幾ら時間が経っても巌には成らない』
普通は、コケが生えた大きな巌が時間が経って、風化してばらばらになって小石になってしまう。
小石や砂が堆積して出来た礫岩と言うのも確かにあるが、これは岩の中でも一番弱く時間が経てば元の小石や砂に戻ってしまう。
ですから君が代の歌詞の『小石が巌になる』との意味は『ありえない奇跡的な出来事』の意味ではないでしょうか。?
それなら国家の武装を禁じた憲法9条なんかは、国家の根本的な命題(国家の根本)である『国家の暴力』を否定しているのですから、これはもう『さざれ石が巌に成る』君が代の歌詞の意味とは非常に近い。(国家の本質とはこの『公的な暴力』のことであることは剥き出しの暴力に走るイスラエルや北朝鮮のようなプリミティブな国家の行動が証明している)
そして何かの奇跡が起きないとFIFAランキング19位のカメルーンには45位の日本が勝てる見込みは極めて少ない。
『それにしても君が代は不思議な歌である』
世界の国々、例えばフランスの『ラ・マルセイェーズ』やアメリカの『星条旗よ永遠なれ』は実に前向きでもあるが外向きにも攻撃的で前進する歌であるが、『君が代』は内向きで決して攻撃的でなく自己完結型で行進曲ではなく『その場にとどまる』歌なのです。
色々な意味で『君が代』は日本国の国歌として考えると世界的に見ても実に不思議な存在で、何しろ『日の丸』大好きの日本の街宣右翼が軍歌を流す事はあっても『君が代』を流すのを聞いた試しがない。
『君が代』を歌うことが今以上に強制されていた太平洋戦争中でも、万歳突撃の時とか集団自決の時にみんなが『君が代』を歌いながらなんて、聞いたこともない。
この理由は、サッカーの中田英寿元選手も言っていたが、『君が世』のメロディを聞くと誰も彼もが『気分が萎える』『気持ちが落ち込む』為らしいのですよ。
『君が代』には、聞いた者たちの気分が落ち込みモチベーションが確実に低下させる不思議な作用があるようなのです。
これを利用しない手はありません。
ワールドカップなど国際試合などでは試合開始前の国歌斉唱の時に日本選手は耳栓をして相手国側選手だけに聞かせるのです。
頭の固い日本サッカー協会が採用しそうにはありませんが、良いアイデアだと思うので岡田監督に誰か推薦して下さい。
今回、予選の第一試合でカメルーンに1対0で勝ったのは良いが喜んでばかりはいられません。
今までのワールドカップでは自国開催(日韓共催)の時を除けば、すべて一大会(予選3試合)で1得点しか取れないのが日本の今までのサッカーの歴史です。
今回一点で一勝するとは実に効率的な試合運びなのですが、何時もの1大会1得点だとすると、カメルーンより強いオランダやデンマークとの後の2試合は完封負けの可能性が高いでしょう。
何故予選の3試合で合計しても1点だったかですが、これはもう『君が代』のモチベーションを確実に下げる効果が悪い方に働いたのです。
今回日本チームはワールドカップの試合前の『君が代』斉唱時に、選手みんなでスクラムを組んでヤケクソで歌っていましたよ。
これが良かったのです。
学校の卒業式などで子供達に綺麗に整列させて背筋をまっすぐに姿勢よく礼儀正しく『君が代』を歌く事を強制する文部省は大反省して頂きたい。
あの『君が代』の歌詞やメロディは、みんなでスクラムでも組んでヤケクソで歌ってちょうど良い程度になる、不思議な歌なのです。
『忌野清志郎とロック君が代』
1999年に反戦、反体制の忌野清志郎がパンク・ロック風にアレンジした『君が代』を収録したアルバム『冬の十字架』が大手のポリドールから発売される予定だったが、同社が発売を拒否、何度も発売中止騒動に巻き込まれる。
2003年4月日本武道館のコンサートはTOKYO FMなどJFN加盟する全国のFM各局に放送されたが忌野 清志郎は予定になかったロック『君が代』や『あこがれの北朝鮮』などを歌い一部その部分が放送されなかった。
世界一短く、何処の国の国歌とも違い気分が萎える陰気な『君が代』が忌野清志郎という反戦ロッカーによって見違えるように素晴らしいモチベーションを上げる歌に変身しているから不思議である。
忌野清志郎バージョンの『君が代』なら、何も文部省や石原慎太郎、米長邦雄が強制しなくても子供達は喜んで歌うであろうと思うが、誰も歌う気がしない今のままでないと気に入らないのだろうが、困ったものだ。
義務教育での義務『君が代』が誰彼の例外なく気分を萎えさえモチベーションを下げるので、誰にでも嫌われても当たり前だと何故気が付かないのかと不思議でならない。
それでは何時まで経っても『君が代』が街宣右翼にまで嫌われる今の情勢に変化は生まれないだろう。
国家等が権力を使って、一方では国歌として『君が代』を歌いなさいと強制しているが、もう一方では清志郎が歌う『君が代』を歌ってはいけません、聞いてもいけませんと禁止するダブルスタンダード。
忌野清志郎曰く、
『歌というのは誰かに歌えって言われて歌うものじゃない。』
『誰も「歌うな」とやめさせる権利はない。』
『歌いたいやつが、歌いたい歌を、歌いたいときに、歌いたいように歌うんだ。』
『昔にあった、君が代ブギ』
今のように北朝鮮バッシングの結果、世間全体が極度に右傾化した時代では考えられないかも知れないが『朕はたらふく食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね』などというプラカードが共感、支持されていた時代には、パンク・ロックの清志郎以上に過激な『君が代』のブギウギバージョンが歌われていた。
山岳会の納会などの酒席で全員が盛り上がって来たところを見計らって『斎戒沐浴、皇居遥拝、君が代斉唱』などといいながら直立不動で『き~み~い~が~よう~は~』と歌いだす。
『ちよに~い~やちよ~に』辺りまで来る頃にはその場の盛り上がっていた雰囲気は10度Cは下がり完璧に白けきって今までの陽気な気分が一変する。
十分にその場が萎縮し一気に盛り下がったところで、ありったけの声で絶叫する。『イエーー!!』
後はブギウギのリズムで踊り狂いながら各自があらん限りの大音声で『さざれ~いし~のブギウギ♪』『踊れテンちゃん♪』『歌えテンちゃん♪』『コケのむすまで♪』と歌いまくるのですが、最後のしめがことのほか難しい。
予めアサヒビールの王冠を二つ用意して隠し持っておく。この王冠には中央に大きく★マークがあるのですよ。
踊り歌い終わる時に後ろ向きになる。この時にアサヒビールの王冠をまぶたの上に被せてから一気に振り返り両手を大きく広げて見得を切ると、両目が★になっているので大概のものはあっけにとられ肝を潰す。一人でも良いが大勢で演じると効果も倍増する。
この『君が代ブギ』は、今でも誰か数人が行えば十分に宴会用の一発芸としては通用すると思うのだか今では誰も演じないらしい。残念。
イスラム文化圏のトルコで、受け狙いで全裸になって逆立ちしデンデン太鼓を股間(肛門?)に挟んで鳴らしたお笑い芸人江頭に対してスタジアムに集まった数万のトルコ人観衆が激怒して暴動一歩手前になっている。
イスラム圏ではないが、これほど世の中が病的に右傾化した日本では、『君が世ブギ』を実際に公開の場で行えば何か問題に成るかも知れないが各自の責任であり、私には何の責任もないことは言うまでも無い。
ワールドカップで国歌が流れるとき,胸を張って一生懸命歌っている選手もいれば,黙っている選手もいる.国歌に対する気持ちは人それぞれだから,歌うのも歌わないのも自由である.ナショナリズムのせめぎ合いのような場でありますが,それでもその程度の常識は許容される.
イングランド代表のルーニー選手が国歌を歌ってなかったのは,彼の出自がアイルランド系だから,というのは考えすぎ?
忘れてよい事と、忘れてはいけない事がある。
英国のキャメロン首相が今月15日、38年ぶりにイギリス領の北アイルランドで1972年に起きた英軍がカトリック系(アイルランド系)デモ隊に発砲し14人の非武装の市民を殺した『血の日曜日事件』について、
イギリス政府として『不当であり、容赦できない。政府、国の代表者として深く遺憾に思う』と下院で初めて謝罪しています。
今まで英政府としては謝っていなかったのですね。
そして40年近く前の話なのでイギリス人の多くは忘れているが、やられた方のアイルランド系は忘れるはずが無い。
例えイングランド代表(イギリス国籍)であったとしてもルーニー選手がアイルランド系だったら、素直にイギリス国歌を歌う方が異常でしょう。
当然歌わない。
アメリカでもヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリが徴兵されたが黒人の自分には『ベトナム人を殺す理由が無い』として徴兵拒否してチャンピオンベルトを剥奪された60年代当事には、
オリンピックの短距離では一位から3位まで全てアメリカの黒人選手であったのですがメダル授与の場面で星条旗と国歌斉唱に全員が顔を背け拳を突き上げてアメリカを象徴する国旗や国歌に抗議していたのです。
今のように黒人が『星条旗よ永遠なら』を無邪気に歌う方が矢張り問題ではないでしょうか。
今の日本に置き換えたら、派遣社員や落ちこぼれニートで社会保険にも満足に入れない若者はある意味で60年代のアメリカの黒人青年と同じで、日の丸や君が代に背を向けてこそ社会的に見て正しい態度なのです。
感涙に咽びながら歌うも良し。そっぽを向いて拳を突き上げるも良し。そこは全く個人の自由だが、それでも多くの者が支持するからこそ国歌としての価値がある。
それに『君が代』は「祈り」なんですね。だからモチベーションなど上がりようがないが、「祈り」は共感してこそ効果があろうというもの。強制されて反感を抱きつつ唱える「祈り」は「呪い」に他ならない。『君が代』を強制するバカ共は、自分が愛しているはずの国家に「呪い」をかけるように誘導しているようなもの。国歌斉唱を拒否する左派の方がよほど愛国者です。
>今までのワールドカップでは自国開催(日韓共催)の時を除けば、すべて一大会(予選3試合)で1得点しか取れないのが日本の今までのサッカーの歴史です。
その歴史は岡田監督とともに始まりましたが、今回はそのジンクスを岡田監督みずから打ち破ってくれるでしょう。なぜなら、岡田監督は我が母校の先輩であらせられるから。
論理もへったくれもありません。理由はただそれだけ。天皇陛下バンザイ、と同じです(笑)
>日の丸や君が代に背を向けてこそ社会的に見て正しい態度なのです。 <別に僕は『君が代』が特に好きでもないし『天皇陛下万歳』でもないが「これが正解」って言われると違和感しか抱かない。他国の(特に欧米系の)国歌がイケイケGoGo的な曲調なのに対し、『君が代』は旋律もオーケストレイションも「ありきたり」でなく特異なポジションにあるという意味に於いて結構、自尊心をくすぐられて好きです。(歌詞は結構どうでもいいですが)
忌野清志郎氏の姿勢が共感を覚えますね。
在日三世でJリーガーのの鄭大世(チョンテセ)選手は北朝鮮が44年ぶりのワールドカップ出場で、韓国籍のままで北朝鮮代表としてランキング一位のブラジルと対戦する。
試合開始前の北朝鮮国歌の斉唱時には人目もはばからず号泣したそうですが、これほど鄭大世(チョンテセ)選手にとっては、日本人の我々では考えられない程度に、国歌斉唱が意味があったのですね。
国家とはそもそも何であるか。?
国歌の象徴である国旗国歌の意味とは何かを思わず考えない訳にはいきません。
>『それに『君が代』は「祈り」なんですね』<
>『「祈り」は共感してこそ効果があろう』<
『強制されて反感を抱きつつ唱える「祈り」は「呪い」に他ならない』<
とは流石に愚樵さんは鋭い。
『祈り』が実際に力があると信じられていた平安時代には密教が大流行するのですが、祈りと呪いとは同じものの裏表の関係にあり、当然呪術的な『呪い』も大流行して祟り神としての菅原道真や崇徳天皇が恐れられもしていたのです。
尋常でない非業の死や恨みをのんで死んだ人はそのままでは成仏できないで現世に災いをもたらす。これ等の『祟り』や『呪い』を恐れて、『神』として祭ったのが日本的な宗教の特徴なのですが、『君が代』も『祈り』の一種なのですから扱いを間違うと間違いなく現世に彷徨い出て祟るでしょう。
『君が代』が『祈りの歌』であり、ここが他所の国の行進曲としての『国歌』とは違うのだと言うことが根本的に分かっていない人が多すぎるんでしょう。
自民党政府が1999年に国歌として正式に法制化したのに間違いの元がある。
日の丸の起源は船印なので元々シンボルなのですが、『君が代』の起源は全く違う。
元々日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』の巻七、賀に歌の「読み人知らず」の『わがきみは・・・・』で長寿を寿ぐ『祈りの歌』だった。
此れを軍楽隊のイギリス人フェントンが作曲して出来上がったが、皇室の式典用で、当事は今とは違い日本人が誰彼の区別無く国歌として歌うようなことはしていなかった。
また基本が雅楽なので普通の国歌のように大勢が歌えるような歌ではない。
最初から『君が代』はそんなことは想定していないのですから当たり前です。
それなら何故国歌として不適当な皇室の儀典用の歌の『君が代』が国歌になってしまったかというと、官僚同士の縄張り争いで、国歌を作りたかった文部省官僚が、当事最大の力を持っていた宮内省官僚に敗北したからだとの説が有力です。
暫定国歌だった『君が代』ですが、日本が軍国化していく過程で次第に国歌として国民意識のなかに定着しやがて国民生活において慣習法化していくわけです。
しかし決して法律で決まったものではなく、人々が何となく国歌だろうと思っていた程度の暫定国歌だったのです。
この国家意識の強烈に強制した大日本帝国時代でも暫定国歌だった『君が代』を、民主主義国の日本国の国歌に小渕首相がしたのが騒動の始まりなのです。
とまれ、歌わせるかどうかは別問題でしょうが。色々あれど、一応は国歌ですよってなってて、んで国歌には敬意を払う(という言い方でいいのかな)。というのが、慣習になってるみたいですし。
そういや、どこかのサイトで、アメリカのように移民が多い国だと、国旗や国歌でアメリカ国民だというアイデンティティーを植え付けないと国家として成り立たない。翻って、日本のように、ほとんどが(例外はありますが)単一民族の国で、一々国旗や国歌を強制して、日本国民であるという事を意識させる必要があるのかって感じの意見がありましたね。
しかし、今回の考察は、ネトウヨからしたら、こいつを死刑にしろと言いたくなるでしょうね。
- 姓はアイルランド系ながら家系図はなく親戚にもアイルランド出身者がいないため、本人曰く「アイルランド系だと思う」
とあります.
まあ,リバプール出身で家族がカソリックというのだから,まずアイルランド系でしょう.ルーニー選手にはアイルランド代表の資格もあるようです.
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ところで当方は脳神経医でも音楽療法士でも無いので真偽は解りませんが、「君が代」にそんな効果があるとすれば、平和のために全世界へ広めるべきですね。入学式と卒業式だけなんて勿体無い。毎朝歌わせても良いくらいです。社民党や共産党などの方々も、すでに憲法解釈でボロボロに骨抜きにされた九条を守ろうなんて叫ぶよりも、「君が代」を歌おうと主張なさったほうが、よっぽど効果が期待できそうです。
なにはともあれ、今後とも宜しくご協力の程、お願い申し上げます。
『何かに対して怒っている』ことだけは理解できますが、
残念ながら『何に怒っているか』が分からない。
現役時代の中田のパスが気に入らないのだろうか。??
ichiro.jrさん、
『君が代』が『気分が萎える』作用があるのは、何も中田が指摘するまでも無く、誰でもが知っている事実で真新しい事はなにもないのですよ。
誰でもが知っている周知の事実だが、誰でもが世間を憚って口には出さないだけです。
ですから、
>余計な論を煽るような事まで口出すな!って言ってやりたい気分だ。お前は一体何様のつもりかと<
などの怒りの感情が何故自分に芽生えたのかと、もう一度冷静になって、ご自分を省みる事が大事でしょう。
普通ならここは怒る場面ではないのですよ。
誰でもが知っている事実だが、誰も公衆の面前では口に出さない真実とはイソップ童話の裸の王様の話と同じで、賢い大人は誰も口にしない。
口に出すのは頑是無い子供ぐらいなのです。
ですから中田を批判するなら『そんなことなら誰でもが知っている。愚かな子供の態度をするな』と非難するべきでしょう。
>『他国の(特に欧米系の)国歌がイケイケGoGo的な曲調』<
欧米系云々は、此れは誤解です。
日本以外の全ての国歌はイケイケGoGo的な曲調なのであり、唯一『君が代』が例外なのです。
何故『君が代』が大きく違うかと言うと、そもそも国歌としては出来上がっていないのですよ。
もともとの目的が違っていたので、出来上がりが違っていて当たり前なのです。
根本的なところの認識が間違っています。
>『特異なポジションにあるという意味に於いて結構、自尊心をくすぐられて好きです。』<
他人の好き嫌いなどの主観問題は論じたくは無いが、
国際試合など外国との問題であれば当然国際的なルールや見方が優先されるのです。
ガン黒少女が目立つ事は事実ですが、本人が思っているほどには美しくも無ければ知性的でもない(阿呆に目える)のと同じです。
>『忌野清志郎氏の姿勢が共感を覚えますね。』<
この部分だけは同感です。
で、ichiro.jrさんはパンク・ロック『君が代』を人前で歌った事がありますか。?
普通は歌わないでしょう。
そして、誰であれ忘年会とか慰労会など、あるいはコンパとかパーティーなど、または結婚式の披露宴で歌を歌う場面で、ご自分か、あるいは誰か同僚や上司が『君が代』を歌う場面に遭遇したことがありますか。?
普通は無いはずです。
誰か、いたとすれば可也の変人で、普通は誰も人前では『君が代』は歌わないのですよ。
理由は簡単で、正に中田が言った『聞いたもののテンションを下げる君が代の不思議な作用』が理由なのです。
もしも私の言葉が信じられないならご自分で一度これ等の場所で『君が代』を独唱してください。
私の言った言葉が真実である事が極簡単に証明されるでしょう。
『最上の帽子は頭にのっていることを忘るるような帽子である。最上の政府は存在を忘るるような政府である。』ように、
『国家』も存在を意識しなければ為らないとすれば良い国家であるとはいえない。
最良の国家とは、存在を忘れるような国家ではないでしょうか。?
在日三世でJリーガーの鄭大世(チョンテセ)選手が、韓国籍のままで北朝鮮代表としてワールドカップに出場して北朝鮮国歌の斉唱時には感極まって泣き出すなどは、感動的ではあるが、矢張り『羨ましい』というよりも『悲劇的』でしょう。
アイルランド系でイギリス代表としてワールドカップにでたルーニー選手なんかも『国家』と自分が所属する民族と自分のアイデンティティとの間に同じ問題を抱えていたのでしょう。
我々一般の普通の日本人のように『国家』も、それを象徴する国旗も国家もそれ程意識せずに生活していると言うのは、やはりこれは良い事なのです。
そういえば少し前に民主党旗を日の丸二つを使って作った事件で大騒ぎしていた自民党など右翼がいたのですが、考えさせる事件の対応でしたね。
どんどん民主主義が後退している証拠でしょう。
昔は『君が代ブギ』まであったのですが、清志郎のロック『君が代』は遥かに保守的で穏健なのです。