1月17日というと「阪神大震災」があまりに有名になりすぎてしまった。
10年前のあの日。起きるとも眠るともなく、半覚醒のまどろみの時間に揺れを感じ、目を覚ましながら最初に気づいたことは、蛍光灯の豆球(常夜灯)が切れていたのに、揺れでフィラメントがひっついたのか、暗く光っていたことである。この常夜灯、夜にはやはり切れていた。点いたのは地震の直後だけだった。
すぐに寝床からTVのスイッチを入れる。地震情報がテロップで流れはじめる。
関西で地震がありました。
そのうち、各地の震度が入り始める。岡山は震度3。
それでも私にとっては生まれてからこの方、一番震度の大きな地震だった。
最初のうち、震度が大きかったのは京都南部。神戸の「こ」の字も出てなかった。
淡路島から神戸付近が中心とわかったのは7時から8時になってからではなかろうか。
そのうち、阪神高速の倒れた映像などが流れ始め、大変な地震だったことがわかり始める。
本当に被害がひどいところはその情報さえ、伝えることができない所ということがわかる。
この日、東京から客が来ることになっていたが、新幹線もずたずたになっており、来れるわけがない。来岡はまたの日になると思いこんでいたところ、11時過ぎに、今日はと部屋に入ってきたのでびっくりした。昨夜のうちに来岡していたのかと思ったが、そうではなくて、今朝東京からという。
7時過ぎの新幹線に乗ろうと東京駅へ向かっていたら、新幹線が止まっているとの情報が流れ、そのまま羽田へ行き、飛行機で来たとのこと!
岡山空港からそのままやってきたので、地震の被害の酷さもまだわかっていなかった。
最初に聞いたのは「で、いつ東京へ帰る予定?」「金曜日」「じゃあ、金曜日の飛行機を押さえよう!」というと、「2~3日たったら新幹線も動くでしょう?」という。そんな程度じゃないことを説明し、すぐに帰りの飛行機の予約を入れさせる。少し遅れたら、飛行機の予約も難しくなる所だった。
社会人の院生でドクター論文の公聴会を翌18日に控えていたMは神戸の出身。神戸には両親がいるが17日は電話が輻輳しており連絡も取れず(そういえばよそから岡山にも電話がかからなくなっていたとあとで聞いた。)、18日の発表後夕方から、何時間かかるかわからないのを覚悟の上で神戸を目指して行った。家は倒れたがご両親は幸い大きなけがもなく、二人を連れて岡山に戻ってきた。
時計をもう数年戻した、1月17日(日)。
この日は下の娘のセンター入試の二日目だった。上の娘は15日の成人の日(昔は成人の日は1月15日に固定されていた)を岡山で迎え、月曜からの大学の講義のために東京へ戻る新幹線に乗っていた。
わたしはセンター入試の監督で立ち番をしていた。
と昼過ぎ、監督に当たっていない同僚が、急用といって電話が入っていると連絡してきた。
監督をその同僚に変わってもらって、電話を受けると父危篤の連絡だった。
博多の母から東京の兄へ連絡が入り、兄の家族が連絡してきた。家に電話してもだれもでない(そう言えば家内は上の娘を駅へ送って、倉敷へ行くと言ってたな)。センター入試だし、私は絶対職場にいると思ったとのこと。
訳を話して監督を別の人に変わってもらい、そのまま一人で博多へ向かう。
結局、父は倒れたときにそのままいってしまったようで、博多へ着いたときはすでに病院から自宅へ戻されており、近所の人が2~3人集まってくれていた。
という訳で、1月17日は個人的には父の命日であったが、ご存じの通り、社会的には阪神大震災の日となってしまった。
いずれにしろ合掌の日である。
10年前のあの日。起きるとも眠るともなく、半覚醒のまどろみの時間に揺れを感じ、目を覚ましながら最初に気づいたことは、蛍光灯の豆球(常夜灯)が切れていたのに、揺れでフィラメントがひっついたのか、暗く光っていたことである。この常夜灯、夜にはやはり切れていた。点いたのは地震の直後だけだった。
すぐに寝床からTVのスイッチを入れる。地震情報がテロップで流れはじめる。
関西で地震がありました。
そのうち、各地の震度が入り始める。岡山は震度3。
それでも私にとっては生まれてからこの方、一番震度の大きな地震だった。
最初のうち、震度が大きかったのは京都南部。神戸の「こ」の字も出てなかった。
淡路島から神戸付近が中心とわかったのは7時から8時になってからではなかろうか。
そのうち、阪神高速の倒れた映像などが流れ始め、大変な地震だったことがわかり始める。
本当に被害がひどいところはその情報さえ、伝えることができない所ということがわかる。
この日、東京から客が来ることになっていたが、新幹線もずたずたになっており、来れるわけがない。来岡はまたの日になると思いこんでいたところ、11時過ぎに、今日はと部屋に入ってきたのでびっくりした。昨夜のうちに来岡していたのかと思ったが、そうではなくて、今朝東京からという。
7時過ぎの新幹線に乗ろうと東京駅へ向かっていたら、新幹線が止まっているとの情報が流れ、そのまま羽田へ行き、飛行機で来たとのこと!
岡山空港からそのままやってきたので、地震の被害の酷さもまだわかっていなかった。
最初に聞いたのは「で、いつ東京へ帰る予定?」「金曜日」「じゃあ、金曜日の飛行機を押さえよう!」というと、「2~3日たったら新幹線も動くでしょう?」という。そんな程度じゃないことを説明し、すぐに帰りの飛行機の予約を入れさせる。少し遅れたら、飛行機の予約も難しくなる所だった。
社会人の院生でドクター論文の公聴会を翌18日に控えていたMは神戸の出身。神戸には両親がいるが17日は電話が輻輳しており連絡も取れず(そういえばよそから岡山にも電話がかからなくなっていたとあとで聞いた。)、18日の発表後夕方から、何時間かかるかわからないのを覚悟の上で神戸を目指して行った。家は倒れたがご両親は幸い大きなけがもなく、二人を連れて岡山に戻ってきた。
時計をもう数年戻した、1月17日(日)。
この日は下の娘のセンター入試の二日目だった。上の娘は15日の成人の日(昔は成人の日は1月15日に固定されていた)を岡山で迎え、月曜からの大学の講義のために東京へ戻る新幹線に乗っていた。
わたしはセンター入試の監督で立ち番をしていた。
と昼過ぎ、監督に当たっていない同僚が、急用といって電話が入っていると連絡してきた。
監督をその同僚に変わってもらって、電話を受けると父危篤の連絡だった。
博多の母から東京の兄へ連絡が入り、兄の家族が連絡してきた。家に電話してもだれもでない(そう言えば家内は上の娘を駅へ送って、倉敷へ行くと言ってたな)。センター入試だし、私は絶対職場にいると思ったとのこと。
訳を話して監督を別の人に変わってもらい、そのまま一人で博多へ向かう。
結局、父は倒れたときにそのままいってしまったようで、博多へ着いたときはすでに病院から自宅へ戻されており、近所の人が2~3人集まってくれていた。
という訳で、1月17日は個人的には父の命日であったが、ご存じの通り、社会的には阪神大震災の日となってしまった。
いずれにしろ合掌の日である。