最近流行の「そんなの関係ねえ」っていうヤツが嫌いだね。子どもたちが真似しているのを見ると「バカがうつるからやめろ」って言っちゃうね。しかしあんなのが流行語大賞に選ばれるんだろねおそらく。
人は一人では生きられなくてあらゆる関係の中で生かされていると思うんだよね。美しい日本人は「人のふり見て我がふりなおせ」とか「情けは人のためならず」とか他人との関係の中で学んだり成長したり、そして人の心の痛みを自分の痛みとして想像できる感性を持っていると思うんだよね。しかし「そんなの関係ねえ」って言ってしまえばそこからの思考は一切停止して関係を絶つことになり無関心を装うって楽に生きることができるのだろうな。それが今風なのかもしれんけれどそういう感覚が自己中や利己主義(これらを田舎では「我が前だけ」という)や自分勝手や無関心やその他諸々の日本人が抱えている美しくない部分の本質を「そんなの関係ねえ」の一言で言いあらわしているような気がするなぁ。人との関係や自然との関係の中で生かされているという感謝を持つことが、美しい日本人が持っている謙虚さや自己犠牲につながるのだろうと思うんだよね。それが良いか悪いかは議論の分かれるところなのだろうけれど。
組合ではこの時期に秋闘キャラバンということで学校を回って歩いて、我々を取りまく情勢を知らせたり組合加入を勧める活動をしている。オレも先週は他の学校を回ってきたし今日は自分の学校に他の人たちが回ってきた。もちろん専従休職で組合から給料をもらっている人たちは仕事だろうけれどオレらは年休を取って参加している。オレが思うに年休を取って組合加入を勧誘して歩いているのは教職員くらいではないかと思うね。
学校を回っていると色々な人がいることに驚かされる。丁寧に話を聞いてくれる人がほとんどだけれど中には「組合」と言った瞬間に顔色が変わって目が三角につり上がったり、急に忙しそうにしたりするヤツもいる。オレは趣味で組合活動をしているから自己満足の範疇なのだけれど、年休を取って自分だけのためでなくみんなで少しでも良くなろうと思って活動している人間を前にしてそういう態度は社会人としてどうなのかと思ってしまうね。まあ相手にとっては保険のセールスと同じレベルなのだろうけどね。それぞれ加入できない理由があるにせよ、顔色が変わるほど嫌っているからには何か嫌がらせを受けたか、びた一文余計な金は払いたくないただのケチだと思うよ。
上を見たらきりがないけれど教員だと30代後半で月の基本給が35万円に到達するのでオレから見れば処遇については満たされていると思う。だから教育がどうとか、働き方がどうとか、主権者を育てるとか、ポリシーを持たず目の前に与えられた仕事を何の疑問も持たず処理すればある程度の生活が保障されるから組合などの運動体は必要ないのかもしれない。昔は組合は仕事をしない人たちの集まりだとか言われた時代もあったと聞くが、今は組合にも入らず政治的な思考やポリシーをもたず仕事に対する情熱もなく生活の糧としてだけ働いているサラリーマンの方が問題だと思うんだなぁ。
学校を回っているとポリシーを持たず与えられたことだけ忠実に処理するものわかりの良いYesマンが多いのにはがっかりするね。もっと骨のあるヤツはいないのかと思うときがある。国の政策としてもの言わぬ教師ばかりにさせられたから仕方がないけどちょっと寂しい気がするなぁ。例えば事務室に「こんな授業がしたいからこれを準備してくれ」とか「子どもがかわいそうだからここを直してくれ」などという要求などほとんどないし情熱が伝わってこないんだよね。
その反面ものわかりの良くないワンマン管理職も少なくなったけど未だにいるね。ワンマン=リーダシップだと勘違いしていたり、かつて中学生を相手に怒鳴って言うことを聞かせていた時と同じ感覚で教職員を恫喝するヤツもいるし、自分のことは棚に上げて前向きな提案をしないくせに何かにつけて文句を言うヤツもいる。そんな校長がいていじめられている教職員がいるうちは組合をなくすことはできないと自分を鼓舞するのでありますなぁ。
久々に熱くなって長々と書いたけどつまりは我が前だけでなくみんなで良くして行こうよと言いたいわけ。「そんなの関係ねえ」じゃなくて社会との関係の中で自分にできることは何かを考えてみたらどうかと思うわけ。そしてその第一歩として組合に入ろうよってことなんだけどね。独善的だとか宗教か?とか言われてもオレはそう思うんだなぁ。
人は一人では生きられなくてあらゆる関係の中で生かされていると思うんだよね。美しい日本人は「人のふり見て我がふりなおせ」とか「情けは人のためならず」とか他人との関係の中で学んだり成長したり、そして人の心の痛みを自分の痛みとして想像できる感性を持っていると思うんだよね。しかし「そんなの関係ねえ」って言ってしまえばそこからの思考は一切停止して関係を絶つことになり無関心を装うって楽に生きることができるのだろうな。それが今風なのかもしれんけれどそういう感覚が自己中や利己主義(これらを田舎では「我が前だけ」という)や自分勝手や無関心やその他諸々の日本人が抱えている美しくない部分の本質を「そんなの関係ねえ」の一言で言いあらわしているような気がするなぁ。人との関係や自然との関係の中で生かされているという感謝を持つことが、美しい日本人が持っている謙虚さや自己犠牲につながるのだろうと思うんだよね。それが良いか悪いかは議論の分かれるところなのだろうけれど。
組合ではこの時期に秋闘キャラバンということで学校を回って歩いて、我々を取りまく情勢を知らせたり組合加入を勧める活動をしている。オレも先週は他の学校を回ってきたし今日は自分の学校に他の人たちが回ってきた。もちろん専従休職で組合から給料をもらっている人たちは仕事だろうけれどオレらは年休を取って参加している。オレが思うに年休を取って組合加入を勧誘して歩いているのは教職員くらいではないかと思うね。
学校を回っていると色々な人がいることに驚かされる。丁寧に話を聞いてくれる人がほとんどだけれど中には「組合」と言った瞬間に顔色が変わって目が三角につり上がったり、急に忙しそうにしたりするヤツもいる。オレは趣味で組合活動をしているから自己満足の範疇なのだけれど、年休を取って自分だけのためでなくみんなで少しでも良くなろうと思って活動している人間を前にしてそういう態度は社会人としてどうなのかと思ってしまうね。まあ相手にとっては保険のセールスと同じレベルなのだろうけどね。それぞれ加入できない理由があるにせよ、顔色が変わるほど嫌っているからには何か嫌がらせを受けたか、びた一文余計な金は払いたくないただのケチだと思うよ。
上を見たらきりがないけれど教員だと30代後半で月の基本給が35万円に到達するのでオレから見れば処遇については満たされていると思う。だから教育がどうとか、働き方がどうとか、主権者を育てるとか、ポリシーを持たず目の前に与えられた仕事を何の疑問も持たず処理すればある程度の生活が保障されるから組合などの運動体は必要ないのかもしれない。昔は組合は仕事をしない人たちの集まりだとか言われた時代もあったと聞くが、今は組合にも入らず政治的な思考やポリシーをもたず仕事に対する情熱もなく生活の糧としてだけ働いているサラリーマンの方が問題だと思うんだなぁ。
学校を回っているとポリシーを持たず与えられたことだけ忠実に処理するものわかりの良いYesマンが多いのにはがっかりするね。もっと骨のあるヤツはいないのかと思うときがある。国の政策としてもの言わぬ教師ばかりにさせられたから仕方がないけどちょっと寂しい気がするなぁ。例えば事務室に「こんな授業がしたいからこれを準備してくれ」とか「子どもがかわいそうだからここを直してくれ」などという要求などほとんどないし情熱が伝わってこないんだよね。
その反面ものわかりの良くないワンマン管理職も少なくなったけど未だにいるね。ワンマン=リーダシップだと勘違いしていたり、かつて中学生を相手に怒鳴って言うことを聞かせていた時と同じ感覚で教職員を恫喝するヤツもいるし、自分のことは棚に上げて前向きな提案をしないくせに何かにつけて文句を言うヤツもいる。そんな校長がいていじめられている教職員がいるうちは組合をなくすことはできないと自分を鼓舞するのでありますなぁ。
久々に熱くなって長々と書いたけどつまりは我が前だけでなくみんなで良くして行こうよと言いたいわけ。「そんなの関係ねえ」じゃなくて社会との関係の中で自分にできることは何かを考えてみたらどうかと思うわけ。そしてその第一歩として組合に入ろうよってことなんだけどね。独善的だとか宗教か?とか言われてもオレはそう思うんだなぁ。