昨年の総選挙では、野党共闘を壊すために仕組まれたような民進党の希望の党への突然の「合流」というドタバタがありました。しかし逆流を乗り越え立憲民主党が立ち上がり野党共闘を継続できました。この大きな共闘の流れは労働運動にも広がり、ナショナルセンターの枠を超えて「総がかり」運動が新たな展望を切り開いています。そして市民団体と労働組合が共闘するためには、特定政党支持を組合員に押し付けるやりかたでは限界があり、要求に基づくまともな労働組合運動への変革が求められていることの現れだと思います。そういう時代に旧来のしがらみによる指示待ちの狭い運動ではなく、緩やかに繋がった大きな運動の中心を担っていく展望が必要だと思います。それが組合員としての誇りにつながると思います。
今学校は、ワンマン校長やパワハラ校長がなくなった訳ではありませんが、それよりも物分かりの良さそうな顔をしながら、全体での議論を避け個別の断りにくい関係のなかで承諾させ、外堀からじわじわ埋めていく新たな形のトップダウンがやられている気がします。例えば本来研修は権利であり主体的であるべきなのに、誰も望んでいない研修をこちらの都合など関係なく押し付けてくる。ですから私たちはバラバラにされず団結して全体の場で議論する関係に持ち込まなければならないと思います。
そしてやはり闘うことが大事だと思います。闘うとは何も校長とケンカすることではありません。時にはケンカするのもいいですが、会議でひと言発言することだって小さな闘いであって、これは勇気のない自分との闘いとも言えます。そんな小さな闘いを支え、励ます組合でありたい。
一部のプロだけが運動を引っ張っていく時代ではないし、指示を出せばその通りに動いてくれる組織でもない。課題や悩みや痛みを共有した上で自分なりのやり方で仲間とつながって、みんなで一歩ずつ支えあって闘っていく。そしてその小さな闘いを支えて積み重ねる組合にしていきたい。
今学校は、ワンマン校長やパワハラ校長がなくなった訳ではありませんが、それよりも物分かりの良さそうな顔をしながら、全体での議論を避け個別の断りにくい関係のなかで承諾させ、外堀からじわじわ埋めていく新たな形のトップダウンがやられている気がします。例えば本来研修は権利であり主体的であるべきなのに、誰も望んでいない研修をこちらの都合など関係なく押し付けてくる。ですから私たちはバラバラにされず団結して全体の場で議論する関係に持ち込まなければならないと思います。
そしてやはり闘うことが大事だと思います。闘うとは何も校長とケンカすることではありません。時にはケンカするのもいいですが、会議でひと言発言することだって小さな闘いであって、これは勇気のない自分との闘いとも言えます。そんな小さな闘いを支え、励ます組合でありたい。
一部のプロだけが運動を引っ張っていく時代ではないし、指示を出せばその通りに動いてくれる組織でもない。課題や悩みや痛みを共有した上で自分なりのやり方で仲間とつながって、みんなで一歩ずつ支えあって闘っていく。そしてその小さな闘いを支えて積み重ねる組合にしていきたい。
まあ、レッテル張りして色分けしかできない昭和な人たちに何を言っても思考停止なので、若い人たちとつながっていきたいと考える昨今です。