Truth Diary

旧満州からの引き揚げを語る

 本日近くの市民センターで旧満州から引き揚げて来られた方のお話を聞く会がある事を教えられ聴いてきた。発起人および語る人はいずれも私と同年の方。
 前者は日中友好協会宮城県泉支部長で、放送大学宮城学習センター前教授のT先生。後者は2歳で旧満州から引き揚げて来られ、山形県立の高校教師を永年勤められ校長を最後に退職された、Sさん。
これは、Sさんが亡くなる寸前の母親の回顧談をメモしておいたもので、満州で多くの異国人、特に中国の方に親切にしてもらった事、そのお蔭で無事帰国できた事を多くの人達に伝えたいとみんなの前で語る決心をした。この事は母が果たせなかった子等が引き継ぐ義務ですらあると熱く語られた。 Sさんのご両親は山形から青雲の志を抱き「王道楽土」のスローガンのもと当時多くの青年たちがしたように、新天地、満州国建設に大きな夢を託し海を渡った。旧満州(現在の中国東北部)の哈爾濱(ハルピン)という人口220万人の都市で父親は役所の建設技師として働いていたそうで、当時のハルピンはロシア、満州、朝鮮、日本人など多民族が生活するモダンな自由都市だったそうだ。
 終戦の3か月前に父親に召集令状が来て、母一人で上は10歳から下は8か月の5人の幼い子供を育てるために慣れない店員などして働き苦労したが、幸い無事父親が復員し家族揃って喜び合った。前後して突然ソ連が侵攻してきて一家7人、命からがら引き揚げ船の出る錦州港までの移動を余儀無くされ800Kmを汽車や徒歩で、時には野宿しながら向かったと言う。食うものが無く、また伝染病などで体力の無い子供やお年寄りは次々と亡くなったそうである。そうした苦難を、母親は幼子が重いリュックを背負い健気にも母を励ましてついてくる姿に勇気づけられ初志貫徹し家族全員で本土の土を踏むことが出来たと回顧していたそうだ。中国の市井の人々は皆親切だったこと、人種に関係なく皆で助け合い協力して暮らす事が大事だという事を後世に伝えることが母からのメッセージだと話を結んだ。 

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