今、先の大戦中当時の忌まわしい戦場と同様な映像が溢れ、戦禍に苛まれる市民等の姿が日常茶飯事化している。
80年前の応召で中国大陸で戦病死した父と叔父の兄弟慰霊像建立は、本年8月16日付河北新報に投稿文*別掲 が掲載されたが、今月福島の菩提寺に完成した。像はひとつ笠を冠った2体の若いお坊さまで、この像は大崎市の石材店で見かけた時一目でこれだと思った像で福島まで搬送し、現地の石材店で台座と建立の趣意碑を合せ竣工した。
台座には平和の象徴の白い鳩、そして父が出征時に万感の思いで玄関の壁に揮毫した辞世の句を刻んだ。「人生三十有余年 春宵一盃の酒で見る夢の如し」ここで終わり結びは無かった。その結びは自分と同じような戦禍に苦しむ人達の無い世界の希求という文言ではなかったのか、その無かった処を、「来世に託さん戦禍無き世を」と私なりに付けてみた。
先の大戦での多くの戦没者は自分無き後、世はきっと平和な世界が来ることを信じながら、若き命を国に捧げたのであろう。建立した慰霊像で戦火に散った兵等の遺言として世界平和の尊さを永く後世に伝え残したい。戦死者らの強いい思いを汲み世界中の戦禍で一般市民から難民となった方々の援助活動支援として毎月少ない額だが寄付をさせてもらっている。
* 亡き父と叔父、いずれも先の大戦で敗戦色濃厚になってから中国大陸に出征して本国からの補給がままならぬまま戦病死(栄養失調)した。
父は農家長男とあって、当初応召は免れていたが戦局いよいよ厳しくなり、32歳になってから根こそぎ動員で、叔父は若干21歳で満洲鉄道の職場から出征し戦病死した、まだ独身だった。
残すものは何も無かったから、居た存在を誰にも知られぬまま永久に忘れ去られることは何とも虚しい。
兄弟二人とも異国の土となり、本国へはひとかけらの骨さえ帰国がかなわなかった。
骨壺には石ころ二つだけと母が嘆いていた。遅くなり過ぎたが没後80年経った今、吾子を亡くした当時の祖父母の無念さを思い、餓死状態で戦場の床に伏せながら帰郷の念が叶わずに異国で斃れた”みたま”の靖ならん事を祈り、遺児の私が慰霊像を建立したい。
像の台座には平和の使いの鳩、そして出征時父が揮毫し残していった辞世を刻んだ、趣意書には私の家族と母、姉にあたる伯母の名を刻んだ。この兄弟像のように安らかで平和な世界を祈って。