タイトルとして適当かどうかは
わからないが、自分が育ち、
移り住んだ街には、なぜか作家
と縁のある街が多い。
作家は五万といるから偶然住ん
でいる人は今も自分の住む街に
いるのかもしれないが、
今回、2人挙げたい。
1人は、遠藤周作、もう1人は
村上春樹である。
大学時代の2年生から4年夏まで
玉川学園に住んだ。
小田急線が見下ろせる坂の途中の
家で、その前に住んでいた横浜市
二俣川が、父の会社の同僚の借り
上げ社宅であったのを持ち主が
戻ってきたため、急きょ出ること
になり、広めの家を探してもらって
住んだ家だった。
その坂の登り切ったところに、広い
敷地の屋敷があり高い生垣の向こうに
はどんな家があるのかもわからな
かった。
近所の噂では、遠藤周作の家との
ことだった。40年くらい前には
彼は”狐狸庵閑話”という本を
出していて、そこで、柿生の里の
わび住いと書いているから、柿生
の先、玉川学園であったと思われる。
また、遠藤周作は、1940年頃
西宮市仁川月見が丘に住んでいた。
実家がそこのあって、慶應の予科に
通っていた頃、実家に帰るたびに
ほっとした。というようなことを
神戸っ子という月刊誌に1965
年に、思い出すことという短文を
寄せている。
私は、小学3年から中学1年まで
西宮市仁川町4丁目に住んでいた。
これも、父が年老いた祖母のために
会社で探してもらった家だったが
近くには、大きなお屋敷が多く
そのうちの一つは、敷島紡績の
社長の家。大きな外車が停まって
いた。
また、村上春樹も西宮に住んで
いて、デビューの頃の作品には
神戸の香りがする。
そのあと、船橋市の習志野台に
移り住んだが、ここも私が会社
勤めで通った工場のすぐそば。
また文化人といえるかどうか
笑福亭釣瓶の住まいは、西宮市
目神山にある。甲山(かぶとやま)
をちょうど東にくだれば関西学院
から阪急電車の甲東園、南に
くだれば、甲陽園から夙川。
目神山は甲陽園の奥で、阪神淡路
大震災ではこの辺も大きな被害
を受けた。
母は、親の遺産をもとでにこの
目神山に100坪を超える宅地を
持っていたが、家族で関東に越し
てから皆、関東に住みついてしまい
関西に帰ることはなかった。
この土地は、一度住んでみたい
土地であったが、お医者さんに
買ってもらい、八王子に家を
求めたのだった。
私が手放すのを惜しがると、母は
欲しければ、稼いでまた買い戻せば
よいなどと慰めてくれた。
わからないが、自分が育ち、
移り住んだ街には、なぜか作家
と縁のある街が多い。
作家は五万といるから偶然住ん
でいる人は今も自分の住む街に
いるのかもしれないが、
今回、2人挙げたい。
1人は、遠藤周作、もう1人は
村上春樹である。
大学時代の2年生から4年夏まで
玉川学園に住んだ。
小田急線が見下ろせる坂の途中の
家で、その前に住んでいた横浜市
二俣川が、父の会社の同僚の借り
上げ社宅であったのを持ち主が
戻ってきたため、急きょ出ること
になり、広めの家を探してもらって
住んだ家だった。
その坂の登り切ったところに、広い
敷地の屋敷があり高い生垣の向こうに
はどんな家があるのかもわからな
かった。
近所の噂では、遠藤周作の家との
ことだった。40年くらい前には
彼は”狐狸庵閑話”という本を
出していて、そこで、柿生の里の
わび住いと書いているから、柿生
の先、玉川学園であったと思われる。
また、遠藤周作は、1940年頃
西宮市仁川月見が丘に住んでいた。
実家がそこのあって、慶應の予科に
通っていた頃、実家に帰るたびに
ほっとした。というようなことを
神戸っ子という月刊誌に1965
年に、思い出すことという短文を
寄せている。
私は、小学3年から中学1年まで
西宮市仁川町4丁目に住んでいた。
これも、父が年老いた祖母のために
会社で探してもらった家だったが
近くには、大きなお屋敷が多く
そのうちの一つは、敷島紡績の
社長の家。大きな外車が停まって
いた。
また、村上春樹も西宮に住んで
いて、デビューの頃の作品には
神戸の香りがする。
そのあと、船橋市の習志野台に
移り住んだが、ここも私が会社
勤めで通った工場のすぐそば。
また文化人といえるかどうか
笑福亭釣瓶の住まいは、西宮市
目神山にある。甲山(かぶとやま)
をちょうど東にくだれば関西学院
から阪急電車の甲東園、南に
くだれば、甲陽園から夙川。
目神山は甲陽園の奥で、阪神淡路
大震災ではこの辺も大きな被害
を受けた。
母は、親の遺産をもとでにこの
目神山に100坪を超える宅地を
持っていたが、家族で関東に越し
てから皆、関東に住みついてしまい
関西に帰ることはなかった。
この土地は、一度住んでみたい
土地であったが、お医者さんに
買ってもらい、八王子に家を
求めたのだった。
私が手放すのを惜しがると、母は
欲しければ、稼いでまた買い戻せば
よいなどと慰めてくれた。