TAZUKO多鶴子

ページ内の文章及び作品の著作権はTAZUKO多鶴子が有するものとし、他者がそれらを無断で転載することを固く禁止とします。

『禅』と『俳句』…『松尾芭蕉』

2007-11-25 | TAZUKO多鶴子からの伝言
   古池や 蛙飛込む水の音

             … 松尾芭蕉 …
  

雲水同様、
行雲流水の俳人だった『松尾芭蕉』は、
曹洞宗の仏頂禅師に参禅して独自の境地を深めた。
弟子の其角、嵐雪、丈草らも禅に参じている。
彼の有名な『古池』の句は、
仏頂が六祖五兵衛という居士を伴って
深川の芭蕉庵を尋ねた折りの問答から生まれた。

六祖五兵衛 「いかなるかこれ閑庭草木中の仏法」、

芭蕉 「葉々、大なるものは大。小なるものは小」、

仏頂 「近日何のあるところぞ」、

芭蕉 「雨過ぎて青苔を流す」、

仏頂 「青苔いまだ生せず春雨いまだ来らん時、いかん」、

芭蕉 「蛙飛びこむ水の音」

上記の真意は、いかん、…
有名な『松尾芭蕉』の俳句
「 古池や 蛙飛込む水の音 」
がとても奥深いと
ご理解頂けることと思う。


参考資料:『禅の本』
     発行人:高木俊雄
     発行所:(株)学習研究社

『弓道:阿波研造』…『見る』

2007-11-24 | TAZUKO多鶴子からの伝言
ドイツの哲学社、オイゲン・へリゲルに『日本の弓術』という名著がある。
大正13年、東北大学に招かれてギリシアおよびラテンの古典語を教え、
昭和4年に帰国したが、その間、ヘリゲルは弓聖と称えられた
阿波研造に師事して日本の弓術を学び、ついに東洋的な無の真髄に触れた。
阿波師範がヘリゲルに求めたのは、
的に当てることではなく、矢のほうが勝手に的に当たっていく、
そのような射であった。
この射を行うには、無にならなければならないと、阿波師範は教えた。
的を狙わずに当てる(当たっていく)という教えは、
西洋人のヘリゲルの理解を絶していた。
その目で見て狙わなければ当たらないという、
深く体に染み込んだものの考え方から解き放つために、
ある夜、
師範はヘリゲルを自宅の道場に呼んだ。
屋外の道場は暗い。
数十メートル先の的は、肉眼では見えない。
阿波師範は、その真っ暗な的の前に蚊取り線香を立てて戻り、
無言で矢を二本、射た。
一本は的の中央に、もう一本は、
その先の矢の筈に当たってそれをふたつに引き裂いた。

「この暗さでいったい狙うことができるものか、
 よく考えてごらんなさい。
 それでもまだあなたは、狙わずには当てられぬと言いはられるのか」。

 阿波のこの射を見て以来、
 ヘリゲルは疑うことも、問うことも、思い煩うこともやめた。
 そして『射る』のではなく『射られる』ことをつかんだ。
  
  阿波研造の言葉。
 「私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。
  すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。
  そうしてそれは私と一体になる。
  …的が私と一体になるならば、  
  それは私が仏陀と一体になることを意味する。
  そして私が仏陀と一体になれば、 
  矢は有と非有の不動の中心に、
  したがってまた的の中心に在ることになる。 
  …矢は中心から出て中心に入るのである。 
  それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。
  するとあなたはあなた自信と仏陀と的を同時に射当てます」
 だれが見るのか。何をみるのか。
 「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったら、あなたはもう師匠が要らなくなる」 
 …阿波研造



上記文章は『禅の本』の抜粋である。
が、しかし、上記文章の内容全てが真実かどうか…ヘリゲル自信の誇大表現の可能性も否定は出来ない。
ただ…様々なことを調べてみても
阿波研造がただ者でない人物である事実が言い伝えられている。
『射は術ではない。
 的中は我が心を射抜き、
 仏陀に至る。』…(語録より)
上記は間違いなく阿波研造のことばとして残っている。
このことばからも感じるように
やはり何かが観えていた凄い人物であることは間違いないのではないかと…。
ただし
頭が全てであると考える方々の間では現在偏見と批判の声もある…
TAZUKO多鶴子は
それも何かを見落としているような批判の声のように…
理屈で無く何かが違う様に感じる…
それは
昨日ご紹介したブログの内容と何かが通じると…
色眼鏡でみない…自然と一体となった肌で
私は感じるからである。


参考資料:『禅の本』
      発行人:高木俊雄
      発行所:(株)学習研究社

      『古武道の本』
      発行人:小池徹郎
      発行所:(株)学習研究社

『禅』と『武道』

2007-11-23 | TAZUKO多鶴子からの伝言
禅と武道の関係はきわめて深く、
とりわけ剣に道を求めたものの多くは禅門を叩いた。
その代表は宮本武蔵。
初め伯父の禅僧に参じ、
晩年、熊本の細川藩に仕えたときには春山和尚に参じた。
大悟の後は常に丸裸であった。
柳生流元祖の柳生宗矩は沢庵和尚に参じて剣禅一如を追求している。
沢庵の不動智神妙録は、この宗矩のために説き示したもの。
明治の剣聖・山岡鉄舟はまさにこの剣禅一如を体現した大居士でもあった。
日本の武道が『術』ではなく『道』なのは、
この禅によるところが最も大きい。

   …………………………………………………………

上記『禅の本』の抜粋であるが
明日は『弓道』の『見る』という文章を抜粋したいと思う。
『武道』、『弓道』の文章を読んで
TAZUKO多鶴子が過去に経験した、
心に残って消えないある方の話しを思い出した。
その文章下記を読んで頂き、
明日の『弓道』の話しを是非ご覧頂きたいと思います。

以前の仕事の関係で
TAZUKO多鶴子は麻薬事件等を扱っている
ある警察の方から色々なことを教わった。
その警察官は県下でもトップのピストルの名手で
知性だけで無く、行動力は勿論のこと
感性がとても優れている方だった。
その方に様々なことを教わったのだが
その中でも特に印象に残っている内容がある。

「…たとえ
 自分が車に乗って運転していても、
 遠くから来る車でも、
 一瞬すれ違うだけで、
 ”あっ!シャブ打ってるな!”
 一瞬の眼をみて麻薬をやっていると
 何故だかすぐ分かるんだ…」

その方が何気なく呟かれた言葉の凄さに驚いたのである。
これはいったい何なんだろうと…以前から強く心に残っている言葉なのです。
それに近いような話しが
『禅』を中心とする『武道』、
明日ご紹介する『弓道』の文章にもある。
明日ご紹介する文章を
是非お読み頂きたいと思います。


参考資料:『禅の本』
     発行人:高木俊雄
     発行所:(株)学習研究社




『禅』と『美術』

2007-11-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言

『禅』の美術の中で最も注目するのが『頂相』である。
『頂相』とは禅師の肖像画や彫刻を指す。
とくに『頂相画』は弟子が師から印可を得たことの証明であり、
師の死後は供養の対象とした関係で、
単なる肖像画以上のリアリティー、
いわば師の真面目(しんめんもく)が表現されていることが要求され、
これが美術技術上の進歩に与えた影響は極めて大であった。
今日われわれが
過去の高僧の生き生きとした姿に接することができるのは、
この伝統の恩恵である。
また、禅から生まれたものの多くは
『頂相画』でなくとも技術だけでなくその精神につながっている。

参考資料:『禅の本』
     発行所:(株)学習研究社

京都の秋…紅葉

2007-11-21 | TAZUKO多鶴子からの伝言

早くも11月末頃になりましたね~(^ ^)
近頃やっと
樹木が美しく彩られ
素敵な季節になってきたようです。
例年よりも秋を感じるのが遅いようですが…。
でも…
京都の秋はやはり見事です!
神社やお寺の周辺で紅葉を見るのは最高ですよ!
ブログ写真は今宮神社・大徳寺周辺の紅葉。
本当に奇麗で心が洗われるようです。
美しい彩りは自然からの贈り物…
感じる心が深ければ感動が感動を呼び
心の傷を癒してくれることと思います。
そして
私の心の傷も癒してくれています。
皆様も素敵な秋を感じて下さい!