TAZUKO多鶴子

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『美研インターナショナル』ホームページに『TAZUKO多鶴子ネット画廊』リンクのお知らせ(^ ^)

2007-11-20 | お知らせ
昨日、私のパソコンメールに嬉しいお知らせが入りました(^ ^)
私の作家生命に魂を与えてくれた方!
これからも私には絶対に無くてはならない
『美研インターナショナル』の『塚田良』氏からのメールです。
そのお知らせは『美研インターナショナル』
『Art Plan+net』
『TAZUKO多鶴子・坂本龍馬』
のページから
私のホームページにリンクをして下さったのです(^ ^)
今までネット上のトラブルで何度も
ホームページのアドレスを変更しているのですが、
その度に塚田氏に手間をおかけしてしているのです。
度重なることでもあり…
更に!
塚田氏は責任あるお立場で、
日々大変忙しく、夜遅くまで
ハードにお仕事されているのが分かっているだけに…
本当に申し訳なく思っていて…
それにも関わらず快く速やかに対応して下さいました。
是非、皆様もブログ写真の『美研インターナショナル』の
『Art Plan+net』のTAZUKO多鶴子ページから
『TAZUKO多鶴子ネット画廊ホームページ』にご訪問下さい。



塚田さん(^ ^)
ありがとうございます!
塚田さんの数々のご配慮が私という作家に魂を与えてくれました。
苦しむ作家の厳しい日々の生活に命を与えてくれたのです。
心から感謝!感謝です!!
これからも
どうか、どうか宜しくお願いします。

『禅』とは…

2007-11-19 | TAZUKO多鶴子からの伝言


今日は『禅』の本から
有名な話しをご紹介します。
下記をご覧下さい。


       <独座大雄峰(どくざだいゆうほう)>

     ある僧が、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に尋ねた。
    「仏法における奇特(最高にすばらしい)のこととは、
     なんでしょうか」
    「私が、ここに坐っていることだ」
     答えを聞いた僧は、ひれ伏して礼拝した。
    すると、百丈は、その僧を棒で打った。
     
                  『碧巌録』第二十六則

この話しの真意は不明で、過去様々な解説がある。
その解説を読んで
TAZUKO多鶴子は間違いのように観じる。
様々な解説が私には合わないと感じる。
真意は、とても、とても奥深いものではないかと…
奥深く真意を観抜いたものが無いので、
TAZUKO多鶴子が間違っていると感じている下記解説を
今日はご紹介致します。
下記解説を読んでお考え頂きたく思います。

   『          <解説>
    …この百丈の答えを聞いた僧も、勝手むやみにありがたがって
    平伏したのではないかという気もする。
     しかし、これは間違いのようである。
    「百丈は、その修行僧が十分会得したくせに
     さらに教えを要求していることを見抜いたから打ったのである」
    と解説している本もあるにはあるが、
     白隠慧鶴は、
    「直ちに礼拝した僧の気合いを評価したので打った」
    といっている。
     顧みれば、確かに禅問答には 
    「正答しても打ち、誤答しても打つ」という傾向があった。…』

   
参考資料:『禅の本』
     発行所:(株)学習研究社 

美とは…愛とは…品格とは…

2007-11-18 | TAZUKO多鶴子からの伝言
先日、
あるテレビ番組を見ていて気になる言葉があった。
「自分の顔が嫌なのだったら美容整形もありだと思うよ…」
最近は特に昔の日本と違った様々な変化が
とても早いスピードでグローバルに入ってきている。
その結果の言葉だと思うが…。
その言葉を聞いて、
突然ある映像が私の眼の前に浮かんできた。
いつ頃だったか覚えてはいないが
やはりある昔のテレビ番組での記憶が鮮明に…。
その内容は
顔にコンプレックスを持っている若い女性のドキュメンタリーテレビ。
父親ソックリの顔の娘。
常に自分の顔に劣等感を持っている娘の決断。
その決断は理想の顔に美容整形する…そのような実話の内容であった。
その内容で、
私の映像が鮮明な記憶で残っているのは
美しい顔になった娘の顔では無く、
整形した娘の顔を
とても寂しそうに見る父の顔…とても寂しげな目であった。
美とは何だろう…愛とは何だろう…品格とは何だろう。
その答えのようなものが
以前からご紹介してる『青山二郎』の言葉の中にある。
『森孝一』著の『人と作品<眼によって発見された人生>』、
『青山二郎』を見事に理解している内容にある。
今日はそれを一部ご紹介致します。
心の眼で読んで頂きたく思います。

『   「利休伝ノート」を含め、
 青山の書いた文章から、利休だけを拾ってゆくと、
 青山は、早くから利休の天才性に気が付いていたようである。
 利休は、東山御物や当時の名器を否定することで、
 自分の器を発見し、利休の茶を創造した。
 発見と創造の中に利休の茶道があった。
 発見も創造もない型だけの伝承の中に茶は生まれない。
 利休が、
 「自分が死ねば茶は廃れる」と語ったのは、
 そういう意味なのであろう。
 青山は、茶は器に対する愛だという。
 物を愛するということは、
 その物を評価することでもなければ、
 その物に溺れることでもない。
 心を無にしなければ、
 その物から何も会得することは出来ない。
 つまり、利休の本質もその虚心にあった。
 だから器格というものが見えたと、
 「利休伝ノート」に書いている。
 青山は、利休のそうした眼に己の眼を見付けたのである。
 青山は、茶碗には六相というものがあり、
 品格・侘び・寂びの三感と、
 量感・力感・浄感の三感、
 この三趣三感が一つになって茶碗の姿を造っているのだという。
 その姿とは、
 「単なる形態ではなく、
  物の本質が外面に表れた、
  つまり作者の内面が表現された象としての形」のことである。
 女性であるならば、
 「目鼻立ちはよいのだが、
  姿がわるいというより、
  姿がいいから顔が気にならぬという方がいい。
  要は全体だ。」
 と青山はいう。
 それは、姿さえよければ、
 目鼻立ちはどうでもいいという意味でない。
 どんなものも、完全無欠というものはない。
 だから
 「何かが何かを補って
  えも云われぬながめとなり姿となるのだ」
 というのである。            』


参考資料:『青山二郎・眼の哲学・利休伝ノート』
      『人と作品<眼>によって発見された人生』
      森孝一 著

備前の町から見た吉井川…土と備前焼

2007-11-17 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今日は岡山県備前市を通りました。
備前の町…
亡き父に…
ブログ写真周辺の吉井川近辺まで
昔、時々連れて行ってもらったことを思い出します。
そして祖父が古美術商をしていた為、
祖父から貰い受けた
備前焼の大きな壷が庭にあったのをとても懐かしく感じます。
それから
仕事の関係で陶芸作家の窯元を何件も拝見させて頂いた事もありました。
そんな様々な思い出が備前周辺にはあります。

備前焼は、1000年の歴史を有する、
日本に生まれた最も古い陶器の六つの窯(いわゆる中世六古窯)の一つで、
全国的に有名です。
備前焼の特色は、釉薬(ゆうやく)を使わず絵付けもせず、
土の味が直接あらわれているもので、
土と火による窯変を尊重しているところにあります。
窯変は、焼き物を焼く時にできる模様です。
この模様は、
窯の中での灰の降りかかり具合とか
炎の当たり具合によって生まれるものだそうです。

また備前焼には、
古来から様々な効用が言い伝えられています。
花瓶の花を長持ちさせたり、
水やお酒をまろやかに、おいしくさせる働きとか
備前焼の器にお酒を注ぐと二日酔いしにくいとか…。
取り上げればきりがありません。

その備前焼の素晴らしさは
どうも土にあるようです。
備前焼の土は、鉄分が多く、きめがこまかいことから、
美しい光沢や変化に富んだ陶器になります。
そして
高熱で長時間焼かれることで構造変化が起き、
微弱な電磁波を放出する性質が生まれたのではないか…
まさに魔法の土です。
その為
いい土はすぐに買い占められてしまい、
沢山備前焼の土を持っている=資産家
だとの事。
資産家になれたのも土の御陰です。
その土は何億年、何十億年という想像を超えた時間をかけて
今、備前に存在している粘土、
田んぼの下に堆積した粘土になって
出来上がってきたのでしょうね。

備前の土を考えると…

『砂漠の陶芸家達は日本に憧れます。
   日本は水の国、
         まるで夢のような国だ…』

そんな素敵な話しを思い出します。
美研インターナショナルが主催した『東大寺』の講演で聞いた見事な内容の話しでした。

そんな言葉からでもTAZUKO多鶴子は痛感します。

自然が日本をつくり、
土をつくり、
陶芸家をつくり、
備前焼をつくったのだと…。
そして
備前焼は
日本という水の国で
自然からのありがたい恵みなのでは無いか…と。


『松尾芭蕉』と近代の俳句

2007-11-16 | TAZUKO多鶴子からの伝言
 「 秋深き 隣は何をする人ぞ 」
 
 誰でも知っている有名な俳句である。
 そう!『松尾芭蕉』の有名な俳句。
 『おくのほそ道』は余りにも有名で
 近年もブームになったようである。

俳句(はいく)とは、五・七・五から成る日本の定型詩であり、
世界最短の詩である。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
俳句は近世に発展した文芸である俳諧連歌、
略して俳諧から生まれた近代文芸である。
室町時代に流行した連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧であったが、
17世紀に松尾芭蕉が出てその芸術性を高め、
なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、
すなわち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。
<切れ>
俳諧では、最初に詠まれる発句は、
後に続ける脇句や平句の動機となる必要がある。
そのため発句には、脇句に依存しない完結性が求められた。
そこで編み出されたテクニックが「切れ」である。
上手く切れた発句は「切れがある」と評価され、重視された。

<切れ字がなくても句は切れる>
「切れ字を入れるのは句を切るためである。
しかし切れている句というのは切れ字によって切る必要はない。
いまだに句が切れている、いないが、わからない初心者のために、
あらかじめ切れ字の数を定めているのである。
この定め字を入れれば十のうち七八の句は自然に切れる。
しかし残りの二三は切れ字を入れても切れないダメ句である、
また入れなくても切れるいい句もある。
そういう意味では四十七文字すべてが切れ字となりうる」
これが芭蕉が言いたいことであった。
つまり
切れは句の内容の問題で、
切れ字があるなしの問題ではないということである。
切れ字がないのに、切れている例としては、
たとえば
    旅に病んで 夢は枯れ野をかけめぐる 芭蕉
がある。
「旅に病んで」の後で切れている。
しかし
俳句の世界も『正岡子規』から近代流れが変わった。
やはり『松尾芭蕉』を私は凄いと思う。
今日は『松尾芭蕉』の詳細を更にご紹介します。
今回も手元に資料が無い為
『Wikipedia』を中心に書き込み致します。
下記を是非ご覧下さい。

松尾 芭蕉
(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、
現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師。
幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。
俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。
蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸を立ち東北、
北陸を巡り岐阜の大垣まで
1689年、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出、
1691年江戸に帰った。
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
の句を残して客死した
(よく辞世の句と言われているが結果論である。
「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった。
なお、
「秋深き 隣は何を する人ぞ」
は、死の床に臥す直前に書いた句である)。
享年51

参考資料:『Wikipedia』内「俳句」・「松尾芭蕉」