TAZUKO多鶴子

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奈良県馬見丘陵公園に行きました(^-^)

2008-07-17 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今日は
奈良県にある
奈良馬見丘陵公園に行きました。
ブログ写真が
その公園です。
流石に奈良の公園!
公園内に古墳があるのですよ(^-^)
やはり
奈良の文化の深さには
何度も驚かされます。

尚、
公園内にあるのは
ナガレヤマ古墳と
乙女山古墳と
巣山古墳。

鳥達の様々な美しい鳴き声に
心が温まる一時でした。

眼は言葉である…青山二郎より

2008-07-15 | TAZUKO多鶴子からの伝言
眼は言葉であると度々私は言った。
同じ様に、
耳は音といふ言葉を見ている。
して見ると、
眼にも言葉がある筈だが
人間に聞こえないのである。
人間に聞こえなければ
(喋ったり、考えたり、読んだり、しない処に)
言葉はないかと言ふと、
五官といふものは
そんなものではない。
頭脳的媒介なしに
眼は言葉を発見して行くし、
人が考へている様に、
誰の眼も一様なものでは
決してないのである。
大方は思考に趣味があって、
趣味が単なる眼玉を駆使して
例えば美術品を選ぶ。
では美術品の方から見て、
その感銘が思考や趣味を刺激するから、
美を認めるのだらうか。
その逆である。

     …青山二郎全文集より…



参考資料:『青山二郎 全文集 上』
    著者:青山二郎
    発行者:菊池明郎
    発行所:(株)筑摩書房

奈良で響く音色『コンドルは飛んで行く』

2008-07-14 | TAZUKO多鶴子からの伝言
一昨日行った奈良。
今回の奈良は
いつも以上に感動の数々でした。
ブログで公開したライトアップの美しい東大寺の感動だけでなく、
TAZUKO多鶴子の大好きな音色
『コンドルは飛んで行く』の生演奏を
奈良で聞くことが出来たのです。
その生演奏、
ブログ写真の方が
演奏されていたのですが…
話によると…
北海道から日本全国を演奏して周られてるそうで…。
CDも出されていて
見事な美しい響きの音色でした。
南米の曲にも関わらず、
何故でしょう…
奈良の風土に
とても合っていました。

奈良に響く魂の音色。
『コンドルは飛んで行く』。
太陽を神として
自然を崇拝した
インカ帝国。
神の遣いコンドルにインカの皇帝の魂が乗って
今もインカの人々を守り続けていると。
そのコンドルは
今…
絶滅危惧種に指定されています。

いえ!…
コンドルだけでなく
大型猛禽類全てが
世界中の多くの地域で
絶滅を危惧されています。
猛禽類は空中を生活の場とする生物の中で
生態ピラミッドの頂点に立ち
大型の高次消費者の地位にある為…
このことは彼らが多くの固体数を維持出来ないことを意味し
大型種の多くは広い縄張りを持ち、
その内部で狩りを行うのです。
このような生活が維持される為には
自然な条件が維持された環境が広く続いている場の存在が必要。
人間の活動は必然的に
このような条件を壊し
彼らに絶滅を
危惧することになってしまったのです。
彼らの絶滅は
人間の危機にも繋る怖れが…。
『コンドルは飛んで行く』
魂の音色。
何かを教えてくれているように…
TAZUKO多鶴子は…
思えて…
ならないのです。

奈良に行きました(^-^)…NO.2

2008-07-13 | TAZUKO多鶴子からの伝言
< 木造金剛力士像>
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。
南大門(国宝)
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。
木造金剛力士立像(国宝)
高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従来の通説とは若干異なっているが、いずれにしても、運慶が制作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ないであろう。


<参考資料> フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』