竹島海岸に親子の楽しい声が響く、いいなー夏休み、
そして今年は敗戦70年目。
私が生まれた時に私の父は戦地に行っていていた。
陸軍鳳部隊で中国戦線にいたのです。
「戦争はいかん、絶対にいかん、
人類の最悪の不幸は戦争なのだ。
戦争は諸悪の根源だった」
と父は死ぬまで口癖のように言った。
父は中国の家々に火を放ち、食料を略奪して生きていた。
作戦中子供の靴を見るたびに本国の我が子を想い、
「生きて帰りたいと願った」
しかし、同僚のほとんどは飢え死にをした。
戦闘で亡くなった戦友よりも野に置き去りにした戦友の方が多かったのだ。
妻や我が子を思う妻帯者は生き延びる確率が高かったが、
若い兵隊ほど中国の原野で手りゅう弾自決をした。
そして、今も遺骨すら帰らない
"防衛と言う名で他国の戦争のお手伝いをしたいと言うのなら、
せめて日本軍人の遺骨だけでも遺族に返してからにしなさい
またまた新たに 野に放置されたままの遺骨を作ってはならない”
先日原子力発電所が稼働を始めたが、そこを戦争の標的にしてはならない、
広島長崎の比ではない現実がそこにあることを知ってほしい。
非暴力、不服従、平和主義のマハトマ・ガンジーは言った
”握りこぶしとは握手はできない”と
外国人はいう、”今の日本は永遠に戦争を放棄した国だから素晴らしい” と、
これは戦犯国日本だからこそ永遠に言い伝えなければならないのことだと思っている。
戦後になってからも子供の遊びでは、飛行機の爆音が聞こえたら地べたに伏せろ!、
両手の親指で両耳の穴を塞ぎ、手のひらで両目を押さえろと教わった。
つまり、身体を伏せて爆風圧で内臓が飛び出ることを防ぎ、親指で耳と脳内を守り、
手のひらで目玉が飛び出るのを防ぐのだ。
そんな、不安な毎日から解放された日が8月15日なのである、
そして戦争に対するトラウマが今も日本人の中に生き延びていたのだ。
今日、私はこんなブログを投稿しているが、
”スマホを開けたら何もしないカメラのシャッターが下りた”、
なんて…、 また生きにくい世の中になっていくのかもなー。
戦後になってなってからでも、
ひそひそ話をしていた日本人、
自分の本音を述べることが苦手な日本人、
そんな日本人の私が8月15日だからこそ本音を述べてみた。
蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。
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