今日は浜松の壬生織り手織り教室は休みで
午後はウオーキングで二俣城に登った。
二俣の街を見下ろしながら急な階段で息を切らす
いきなりの50段で顎を出すのだ、
歳のせいではない、運動不足なのだ。
ストレッチをしていても実際の急登で実力は出てしまう
紅葉にはまだ早い遠州地方はつまらないと思ってきたが
これを見てみろ野菊だよ
”野菊の墓”って映画見たなー、
涙が溢れて・・・
この辺が私の恋に対する原点でもある
階段を登りきると二俣城祉入り口だ
井伊直虎の大河ドラマで徳川信康事件が
クローズアップされたが看板は朽ち果ててきたぞ!
暖かい地方だからまだ山は夏の姿を見せて
緑 緑 緑 なのだ。
大手門まで登ると石垣が現れる
戦国時代初期の野面積みである
日本の城郭でも有数の古城である
城内に入るとツワブキの花が
二俣城の秋を代表する花だ
ちょっとススキがきれいじゃない
信康も二俣城のススキと月を眺めて何を思ったのであろう
石石垣に食い込んだ巨木の根が500年の年月と
いやらしいほどの生命力を見せつけている
台風の影響であろうか、遠い歴史を刻んだ城跡を自然が
日々潰していくのも自然なのだ。
今川、武田、徳川、と遠州の要二俣城の攻防がつづいた。
今私が蒲郡に住んで、上ノ郷城主鵜殿氏と二俣城の関係が
偶然とはいえ歴史が面白い物語を与えてくれている
この階段を徳川信康は登ったのである
何を思ったのであろう
天竜川に船で関東へ逃れても良し、
秋葉山から信州へ逃れても良し、
そんな二俣城へ嫡男信康を蟄居させた家康の想いと、
娘婿を切腹させるに及んだ信長の想いと計算は
まさに軍事と政治の魂胆は一人の優秀な若者を
葬り去って行った。
二俣城から信康の廟所へ至る道は竹やぶを通りながら
右も左も逃れる道は無くただひたすら行く竹の道の果て、
現代はやれ忖度だ、やれ改ざんだと、まかり通るが
その時その時を生きる人間の思慮深さを思うと
良きにつけ悪しきにつけ時代の深さを感じる。
私は、何と考えの浅い事か、ぼーっと生きてるんじゃないよ!
と反逆児とされている信康に言われそうな想いで木の階段を下る。