TAKE-LOG 竹ログ

壬生の郷の歴史をトレッキングする

壬生織り手織り教室の休講を機会に壬生の郷の歴史トレッキングに出た

出発は本田宗一郎もの作り伝承館の建物から始まった。

この建物は旧二俣町庁舎で現在は浜松市の保存建造物に指定されている

本田宗一郎ものつくり伝承館の前は諏訪神社である、

夏に行われる二俣祭はこの諏訪様の祭典で14台の屋台が

町内引き回しでここに集合するときは荘厳である

お滝様の前を行くと徳川信康の廟所を祀る清龍寺の境内に入る

子供の頃にこの池に入って遊んだ思い出があるが

多分禁止されていた行為であったと思われる

池を過ぎると頭上に井戸櫓は見える

二俣城から水を汲み上げるために組まれていた井戸櫓である。

武田と徳川が戦った二俣の役で上流から流された筏で破壊されてしまった。

 

清龍寺の梵鐘の前に咲く紅梅を眺めながら歩く、

腹が減った本田宗一郎少年は早く弁当を食べたくて

昼の12時前にこの梵鐘を鳴らして昼飯を早く食った逸話もある

 

清龍寺の徳川三郎信康の廟所へ登る

 

 

徳川家の葵の紋がついた信康公の墓所である

 

信康と共に殉死した吉良のお初の墓が哀れを誘う、

青木又四郎吉継、中根兵左衛門政親、大久保七郎左エ門忠世、の

信康側近の武将の墓もここに納められている

清龍寺を通過すると皆原へ登る鳥羽山公園・二俣城址ハイキングコースを登る

 

森林の中の整備された静かなハイキングコースを行く

 

皆原の開けた台地の道を二俣城へ向かうと天竜川の向こうに見えるのは観音山

ここには縄文時代の遺跡もある、天竜の水と魚介や野生動物も豊富にあっただろうと思わす台地である

 

二俣城の真下に天竜川が見えるが急峻な崖が天然の防御となっていたのだ

東側の二俣川も直下を流れていて武田が攻め落とすに3ヶ月の時間をかけた総力戦があったと思わすに十分な地形である

 

やがて二俣城の本丸天守台に着く

 

遠州の要にある二俣城、戦国武将が城主になりたいと願った名城である、

私が住む蒲郡の上ノ郷城の城主鵜殿様も二俣城主にと今川義元公に願った城である

二俣城の天守台の野面積みの石垣である、笹岡城址に続く鎌倉時代の古城である、

ここで反逆者信康は切腹、二十歳の命を絶えたがその真相は

と、いつも城址を訪ねては信康のことを想う私である

 

二俣城址を南へ下ると川口の街を見下ろす堤防に出る、

ここの地名の川口は旧二俣川が天竜川に流れ込む河口であったからだ

(私財を投じて二俣の町を水害から守った現在二俣町にある丸百酒店の先祖である

二俣村名主袴田翁の話はまた後ほど当ブログで投稿したいと思う)

 

堤防上から見下ろす天竜川、ダム建設に伴い川床が下がってしまって昔の流れとは

違う流れになってしまった。

川口の堤防を歩くとこの木が見えるがこれを右折して鳥羽山城址に登る

急な車道を登ると遊歩道案内の看板が現れたら、私は車道を離れ階段を登る

上りきると鳥羽山城内に出る、ここには室町の城郭庭園があり

二俣城と一体の城であったそうであるから

二俣・鳥羽山城は壮大な城構えであったのだ。

 

鳥羽山の櫓から見た遠州平野

右端に浜松市街地のアクトタワーが見える

この眺望が二俣城が戦国時代の遠州の要にあったことがわかる

 

鳥羽山城大手門跡を通り遊歩道を下る

国土交通省と浜松市の石碑を見ながら二俣市街に下る

そして、二俣市街地に出た。

東に行けば磐田市、森町、袋井市であり

西に行けば引佐、三ヶ日、豊川市であり

南からは二俣街道と秋葉街道が通じて、

古来の山岳道は尾根沿いに通り、塩の道として信州に通じていた。

 

天竜川と山地に囲まれた二俣の町に旧陸軍中野学校があった事は、

今日歩いた城と自然の地形の中に、この街の秘密と魅力が秘められている

と思う私である。


蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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