[ヤマタケの蔵]からすぐ近くの二俣川に出て北方を見ると、
断層二俣地溝帯を含む赤石裂線の地形の裂け目と、
その北につながる北遠の山々が望める。
(小京都とたとえられる二俣川からの風景)
地球規模の日本列島の大断層[中央構造線]上にある静岡と長野県境の
青崩峠を越えて、武田信玄の軍勢は秋葉街道を一気に南下して
二俣城の攻略に取りかかった。
(峠に立てば北からは信州の風を、南からは太平洋の風を感じる青崩峠である)
信玄は遠江に進行した時点で二俣城の奪取を目的にした。
信玄の南下の意図は上洛であったに違いないが、
当面は二俣城攻略が大きな課題であった。
二俣は遠州平野の要の位置にあり、二俣を掌握することは遠江から
三河一帯への軍事活動も可能になり、上洛の夢の大きな可能性を得る
重要ポイントであった。
二俣城攻略には、武田軍の武田勝頼、武田信豊、らによって10月に始まった。
二俣城は標高90mで南北に細長く、東西は切り立った俗称城山に築かれていて、
西側は深く天竜川に切れ落ちて 天竜の濁流が城の直下の岩壁を洗い流れている。
東側も急斜面で二俣川に落ち込み、二俣川は城の東側から南側を回り込み
天竜川へ合流していて深い淵で囲まれていたと言う。
(城山の東側の急斜面)
難攻不落の二俣城を武田信玄の軍勢3万が取り囲み3ヶ月に及ぶ戦いが始まった。
この時の様子は大久保忠教(彦左衛門)の[三河物語]では
「この城は土井高くして、急斜面で、とても無理攻めは出来ない」
と書き残してある。
城主中根正照以下城兵は小勢ながらも、武田勢2万を向かえても天険な城でよく防いだ。
鉄砲を駆使しており、武田勢の小山田丹後守昌長は鉄砲に当たって戦死している。
依田昌忠もこの戦いで戦死し、城兵の中では山下綱元も戦死。
両軍多大な戦死者が出たが、小勢力の徳川軍はよく防戦した。
(二俣川と町並みの向こうの小高い森が城山)
攻める武田軍の武将山県昌景、馬場信春は、堅固な二俣城にたいして、
水源を奪う戦法を勝頼に進言した。
当時二俣城は城内の井戸と天竜川に井戸櫓を掛けて釣瓶で水を汲み上げていた。
それを察知した武田軍は天竜川上流から筏を組んで流し、井戸櫓にぶつけて
櫓を潰し水の補給を切った。
つづく
蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。
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