本間美術館を出て、 酒田市立資料館に向かって歩き出すと、ローソク店を発見。
ローソク店てあるんですね、初めてみました。 ローソクだけでやっていけるんだ!
調べると、酒田には3店のローソク店があり、元禄9年(1696)創業の老舗もありました。
ちなみに、人口1,000万の東京都では2店 !(キャンドル店は除く) 人口11万の酒田のローソク需要は凄い。
もう少し歩くと、Jazz Barが。ライブもやっているようですが、商売やっていけるのかなー・・・と余計な心配。
酒田では、音楽などでも進取的な人が多いのかな。
酒田市立資料館に着きました。 狭いエントランスホールにも、展示品が所狭しと並べられています。
左にある柱時計は、大正時代に製作されたものですが、今でも正確な時間を刻んでいます。
中央には、酒田大火で焼け残った電柱・・・そう、この資料館に来た目的の一つは、この酒田大火を
詳しく知りたいと思っていたからです。
すぐ横には、農作業のマネキン! おー「はんこたんな」のキャプションもある!
マネキンの顔が露出し過ぎと思い、目だけ見えるように”はんこたんな”を編集。 資料館の皆さん、お許しを。
展示フロアは2階なので階段を上り、振り返って撮ったもの。
今見てきた本間美術館や、明日行く、土門記念館のポスターがありました。
上には、酒田の大凧。
酒田市の航空写真がありました。 昔は、最上川の左岸に酒田の湊町があったらしいのですが、洪水の
影響の少ない右岸に移ったとのこと。
展示としては、縄文時代からの土器などもありましたが、湊として発達した以降に焦点を絞って紹介。
ただ、昔、出羽の国の国府が、酒田にあったことは重要なので述べておきます。(城輪柵遺跡)
千石船の模型。 船倉に米俵がびっしり、約千石(150トン)積めたので、語呂よく千石船と呼ばれたが、船形は弁才船と言うらしい。
この図をみると、最上川が山形県の大動脈であることが分かります。
品物で、入りの欄に”古手”とあるのがわかりませんでしたが、使い古した衣類のことなんですね。
それにしても日本三大急流の一つ、最上川を遡行するのは、大変だったろう。
この資料館に来て、もう一つ興味が湧いたのが、戊辰戦争でした。
会津藩・庄内藩が朝敵・・・・薩摩・長州からみれば、会津藩は憎い敵というのはわかりますが、庄内藩はなぜ?・・・どうやら
薩摩藩が江戸でテロ挑発を行ったとき、江戸警備にあたっていた庄内藩が幕府の命を受け、江戸薩摩藩邸襲撃の中心となったからと思われます。
戊辰戦争の説明パネルを読み終わって、浮かんできたのが映画「たそがれ清兵衛」のラストシーン。
清兵衛が、庄内藩士とし新政府軍と戦って命を落とし、その後、成長した清兵衛の娘が父を回想し、「人は清兵衛を不運な男だったというけれど、
私は、そうは思わない。 私たち娘を愛し、美しい朋江(清兵衛の妻)さんに愛され、満ち足りた思いで短い人生を過ごしたに違いない。そんな
父を誇りに思う。」・・・2002年に見た映画ですが、ラストの語りの岸恵子が、ふつふつと浮かんできました。
さて、酒田大火のコーナーに来ました。
昔から、大火が頻発したんですね。
撮影した写真の部分拡大をしたので、字が不鮮明になっています。すみません。
この頃には、いろは蔵も本間家が所有していたようだ。
また、山居倉庫の記事でも述べたように、山居倉庫は被害を免れた。 ※写真の黄色い文字は編集して加えたものです。
火元となった映画館、進取的な映画館として有名だったんだ。
大火のとき、上映していたのが「愛のコリーダ」
映画館の観客や従業員は避難して無事だったが、3日後に消防長の遺体が館内で発見された。
大火で唯一の犠牲者となった。
出火時の風向きは、西南西で、その後、西北西に変化している。
焼け跡にポツンと残る、無傷の本間家旧本邸に人々は驚いたようだ。
自衛隊の迅速な出動が、被害を軽減し、復旧を助けてくれた。
大火から2年半後、復興された酒田の街。復興は早かった。 ※本間家旧本邸の書き込みは、編集作業で付け加えました。
この酒田市立資料館は、その焼け跡に昭和53年(1978)開館した。 ちょうど、開館から40周年を迎えている。
少し、手狭になっているように見受けましたが、貴重な資料を末永く、公開していけるよう願ってやみません。
次は、すぐ近くにある旧本間家本邸に向かいます。