昨年11,12月に訪れたミュージアムのアラカルトを、前回記事でアップしました。
今回から詳細編を紹介します。 トップバッターは、印象深かった
東京国立近代美術館の所蔵作品展「MOMATコレクション」第12室
松本路子の撮影した女性アーティストの ポートレート集
です。(14作品中、9作品をピックアップしました)
では作品に。
オノ・ヨーコ (1933-)
オノ・ヨーコのこの視線!
写真が撮られた1974年は、ヨーコとレノンが別居していた時期(結婚は1969年)
1975年1月に再び生活を共にし、1975年10月9日、レノン35歳の誕生日に息子の
ショーンが誕生した(ヨーコは42歳での高齢出産)。
ショーン誕生後、二人は夫婦の役割を見直し、育児と家事をレノンが担当し、家計
とビジネスをヨーコが担当した。
ニキ・ド・サンファール(1930 - 2002)
ニキ・ド・サンファールは、穏やかな表情。
被り物や衣服にアーティストの個性を感じる。
ニキは若い頃、モデルなどで活躍したが、統合失調症を患い、アートセラピー(芸術治療)として絵を描き始め
表現による自己解放を目指すようになり、射撃絵画が生まれた。
その後、社会における女性の役割を批判的に表現する作品から、やがて、女性性を肯定・強調する作品へと転じた。
2015年に開催された「ニキ・ド・サンファル展」(国立新美術館)を鑑賞しましたが、面白いけど・・・でした。
草間彌生 (1929-)
この表情、メーク、衣装・・・撮影されたのは1985年(昭和60年)
1973年(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去すると、草間は体調を崩し日本へ帰国、入院。
これ以降、東京を活動拠点に。
小説家としての活動も始め、1983年(昭和58年)には小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を
受賞。 1993年(平成5年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として日本館初の個展を開く。これを機に世界
的に再評価する動きが高まった。・・・ウィキより
ルシンダ・チャイルズ
アメリカを代表するモダン ダンスの振付師の 1 人。 彼女は当時の現代アートの潮流であった
コンセプチュアル アートやミニマリズムをダンスの振付で表現した。
この部屋も現代アートを感じる。 ルシンダの視線が厳しいですね。
シンディ・シャーマン
シャーマンは、自らを被写体とするコンセプチャル・セルフポートレイトが代表的な作品で、
50年代の大衆映画のワンシーンに出演する女優たちのお決まりポーズに扮した写真シリーズ
が有名。アートマーケットでは、世界で最も高価な写真として取引されている。
そのシャーマンが撮られる立場。 むっとした表情が面白い。
合田佐和子
合田佐和子(1940~2016)は、高知で生まれ、武蔵野美術学校在学中より制作していたオブジェ作品を
瀧口修造に認められその後、油彩、写真、映像、舞台美術などに その才能を発揮し、60年代以降の日本
のアートシーンにおいて独自の足跡を残した。
・・・と、Webなどで紹介されている。 でも、私は昨年まで合田佐和子を知らなかった。(富山県立
美術館の瀧口修造コレクションコーナで、合田佐和子の作品は見た。)
昨年、美術展の案内で合田佐和子展を知り、興味がありました。
↑の松本路子の作品と、↓「合田佐和子展」(高知県立美術館)のメインヴィジュアルが好対照なので転載します。
合田佐和子展は、高知県立美術館のあと、1月28日から三鷹市美術ギャラリーに巡回されます。
その展覧会の公式Webサイトに、 分かりやすい説明があったので引用します。
喜びの樹の実のたわわにみのるあの街角で出会った私たち もう帰る途もつもりもなかった (合田佐和子 晩年の手稿より)
合田佐和子(1940-2016、高知出身)は、1965年の個展デビュー以来、オブジェや絵画、写真といったメディアを横断しながら創作活動を展開した美術家です。
幼少からの収集癖と手芸を融合させた「オブジェ人形」で作家活動をスタートさせた合田は、次第に奇怪でエロティックな立体へと自らの作風を変化させていきます。
69年以降は唐十郎や寺山修司によるアングラ演劇の舞台美術やポスター原画の制作を手がけるほか、70年代から独学で始めた油彩画では、往年の銀幕俳優たちのポート
レートを独自のグレーがかった色調で描き出し、「異色の女性美術家」として世間の注目を集めました。80年代のエジプト滞在を機に、90年代以降は一転してそれまで
の作風を脱ぎ捨てた明るいパステル調に変化し、内省に基づく独自の制作論の実践へと移行します。
当時の社会通念や因習にとらわれない暮らしのなかで花開いた合田の表現は、ファッションや映画、音楽などの領域と高い親和性を示し、様々な分野の表現者から熱く
支持されました。一方で、同時代の美術動向や批評の言説からは距離をとり、ひとつのスタイルに留まらずに繰り広げられた仕事は、美術の「正史」からは外れた特異
な存在であり、あくまで個人的・趣味的なものと見なされる側面がありました。
平沢淑子 1939年中国東北地方(旧満州)生まれ、2017年、愛するパリの地で逝去。
平沢淑子も恥ずかしながら初耳の作家でした。
”慶応義塾大 独文科卒。NHKアナウンサーを経て1974年パリに渡り画業に専念。
'77年よりフランス、アメリカ、日本、カナダ、ロシア、エジプトなどで個展を開催など”
変わった経歴ですが、2004年に行われたインタビューを読むと、なるほどです。
背景に自作の絵が掛けられています。 女優?の感じで、ポーズが”さま”になっています。
平沢淑子も瀧口修造や寺山修司と交流がありました。
ヘレン・フランケンサーラー (1928 - 2011)
1950年代のニューヨーク抽象表現主義者を表す「ニューヨーク・スクール」において、ほぼ唯一の女性アーティスト。
1928年にマンハッタンに生まれたフランケンサーラーは、父親がニューヨーク州裁判所の判事という家柄で、ハイソな
育ちだった。下塗りをしていないキャンバスに薄く溶いた絵の具を染み込ませる「ステイニング」画法を考案したアー
ティストとして知られる。 ・・・Webより
首をかしげて、温かい視線のフランケンサーラー。 やはり、初耳の方でした。
ブリジット・ライリー
ロンドン生まれ。ゴールドスミス美術学校、王立美術学校油絵科に学ぶ。
ルネサンス以降の巨匠や印象派の絵画、点描技法を研究し、単純化・抽象化のプロセスを学ぶことで自身の創作を深め
1961年に初めて抽象画を描く。1965年、ニューヨーク近代美術館 で開催した「応答する眼」展でオプ・アート(錯視効果
をもった絵画作品)の代表的画家として国際的に評価された。作品の多くは、色や形、コントラスト、進行、展開、反復
などの様々な要素で構成されており、幾何学的な世界を生み出している。・・・Web等から
ブリジット・ライリーも、以前、記事を読んだことがある・・・ぐらいでした。
ブリジット・ライリーの表情・・・よそよそしいものを感じます。
作品は以上です。
ところで、写真作家 松本路子、よくこんなに世界中の女性アーティストに会えたな!と驚きました。
で、調べていくと、最初にポートレートを撮った浅川マキのことを書いた手記を発見・・・以下に引用します。
(大学の)写真のサークルに入部して、ドキュメンタリー写真に興味を持ち始めた頃、浅川マキの舞台と出会い、1年ほど彼女を
追った。1969年のことだ。彼女の歌を初めて聴いたのは、渋谷にあったライブハウス「ジャンジャン」だった。黒づくめの服で、
「夜が明けたら~」と歌い出したとき、私の中で何かが弾けたような気がした。けだるく、だがどこか明るいブルースは、19歳の
女子にとって、何か深淵を覗かせてくれるものだった。
浅川マキが銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」に出演した日、出番の合間に客席の後ろでくつろいでいた彼女に思い切って声を掛け
た。それから舞台、楽屋、また旅にまでついて行って写真を撮り続けた。彼女は「しょうがないわね~」と半ば諦め顔で、受け入
れてくれた。
うーん、食らいつく姿勢が凄いですね。この積極性と粘り強さがあればこそ出来たのですね。
話は変わりますが、浅川マキがでてきて、昔、彼女のアルバム「裏窓」を買って、聴いていたことを思い出し、久し振りに聴いて
みました。 うーん、1970年代の息吹が満ち溢れている!
浅川マキ「裏窓」(1977年LIVE) Maki Asakawa - Rear Window