王安石は法律の執行者として法を理解している法の専門の人材に担当させる為に総入れ替えし、其の為大量に法律の人材を育成する必要があると主張したのだ。 彼は法律学も専門の学問だと考えていて、その上庶民の生命と財産とに密接な関係ある大事であり、それ迄は、詩の試験を通って科挙の最終合格者と為った人を役人に造り上げ事件を審理させることにしたのは盲人に道を聞くことと同じ様に良く理解もせず死刑にして仕舞うことも有得たのであったからだ。 彼は政権を握った後に、法の事件の審理を満足に出来無い者は、全く公平に判決を下すことはあり得無かったので、「明法」の科を増設して、《刑統》で大義は判決と著し、法令の試験を増設し、総ての科挙の最終合格者と各科に受かった人は全員が更に一回必ず「法令の大義あるいは裁判」の試験を受けなければならないと定めて、科挙と各科の合格者の全員が地方官を担当するかもしれないばかりか、地方官の大部分は事件の審理に責任を負わなければなら無いので、増設された試験の合格者のみを官職に任命したのだ。
王安石が法律を重視し、官吏に法を精通させる為に人材を育成したことは、紛れも無い進歩であった筈だが、守旧派の辛辣な攻撃に遭って潰されて仕舞った。 蘇軾作の詩は「万冊の本を読んでも律を読むことが無ければ、君主は尭と舜に至る術を知ることが出来無い」と輪をかけて囃したて、辛辣に風刺した。 彼らは心から、王道は覇道に優り、徳が力に優り、礼に拠る統治が法の統治に優ると思っており、甚だしきに至っては刑名に法学の字句を連ねることまで罪悪とし、王安石がやったことは君子に恥をかかせることに為ると言い切り、国を治める為には全く法律を必要とし無いと言わんがばかりであったのだ。
蘇軾には権利は無かったので、愚痴を溢すことしか出来無かったが、司馬光は政治の実権を握ると、先ず科挙から明法の一科を廃止した。 これに対する司馬光の理屈は簡単で、法令はそれに携わる役人に成る人材が理解しなければならないものであって、普通の読書人には学ばさせる必要が無く、詰り、法の知識も理解も唯統治者にのみ必要なのであって、資格の有る者が法の知識と理解を持てば良いのであって、法律の隙を潜り抜けて罪を免れる道を学ばせ無い為にも、常人に法の知識も理解もさせてはなら無いのだとした。 彼は更に「道義を知れば、法律は必要なものでは無い」とも称し、道義は法律と違い専門的に学ぶ必要が無いので、道徳が法律に対する既成の見方を変えると明示したのだ。 彼は法律自身に対しても不満の意を表し、法律を学ぶことは、「形式に流され、物事の本質を失わせ、物事を断定する書を空読みする事は、単に文章を読む力を鍛錬することに等しい」としたが、このような考えは政治に関わって無い間なら未だしも、一旦政権を握った後には如何のように官吏を官吏としての規則を守るように出来るのかと疑問視されよう? そこで明法の一科を設けて、「長いこと無能な人材を育て来た重苦しい風習」は取り除かれなければなら無かったのだ。
こうして観ると司馬光は根から法律が分らず、「法律は徒に他の人の欠点を暴いて冷酷無比な小人が条文に記された通りに人に罪名を科し、どんどん監獄に送ることに役立つものである」と心中で考えを膨らませ、「なまじ法を学んだが為に人が悪く成ることも有得るし、法律の執行は出鱈目に為されて無いだろうか?」と考えていたのだ。 こんな見方をしていたので、「法律は根本から無い方が良いのであって、刑務所は全て廃止すべきで、光談の書物の礼楽で済ませば良いのだ」と考えられよう。 法律を取り合わ無いのであれば、風習を益々重視することに為り、官吏は益々善に従うと決め付けられ、犯罪などというものも現れることが無くなるのだ。 このように司馬光自身が幼稚であった為、彼が政権を執った後は全く国内が乱れ鎮圧も出来無かったのであるが、彼は自身絶対に己の非を認めることは無かった。
字面の意味の上から見ても、王道は覇道に絶対に勝り、徳は絶対に力より高く、正常な政務担当者であれば誰でも尭と舜の時代の様で在ることを望む筈で、礼に拠る統治をすれば、当然法治を上回って、人民は最大の自由を有して、統治者は全く其の存在すら感じさせ無い様に成り、暮していく中で完全に暴力、強制が存在し無い社会に成り、更に罪を犯す者も無くなって刑務所も要ら無く成り、万人は総て温和で上品で、穏やかな社会を造れるのだ。 然し、この考え方は性善説の基礎の上で作り上げたもので、更には人々の素晴らしい理想と未来への憧れに過ぎず、永遠に適うことが出来無い構想であり、実際に実現する事は不可能だろう。
儒家の最大の欠点は、理想を現実と見誤ることかも知れない。 若しも、人々が皆完全に性善説に従うならば性善説は仮説と為らず、必然と覇道は脇に追いやれ王道が罷り通り、徳が幅を利かせ、力は必要で無く、礼に拠り統治し、法治に拠る統治は要ら無い筈なのだが、然し現実の社会では、理を説いても受け付け無い極悪非道で許すことが出来無い悪人に対しては如何に教化しようとも王道は全く馬の耳に念仏であり、これらの悪人に対しては王道の礼儀と道徳について口を酸っぱく言っても、犯罪を放任することに成るのと等しく、善人に対して横暴だと言うのに等しいのだ。 残念乍学者の中で多数を占める役立たずの学者達は、只理想を現実とするだけで現実が彼らの理想に合うかどうかに関わらず、何時も王道で徳を以って治めるべきだということを大いに説き、この面では驚異的な頑固さと自信を表してはいるが、彼らの教化能力が無批判に尊重されても、彼等に世の中に現実にいる悪人を教化して導く期待なぞ出来ようも無いのだ。
儒家の別の欠点の一つは名を欲し実が伴は無いことであった。 王道が覇道に比べて優れ、徳は力に比べて高く、礼に拠る統治は法治に比べて温和であるとは良く聞くことであり、はっきりと各々の後者に対して是と言うことは恥とされ、丸で刑罰を定めることは風習を傷つけることであり冷酷で情が無いこととし、徳について談じるのは優しさと重厚さを訓えることであったのだ。 然し、彼らは刑罰の軽重を廃止するまで愚かでは無かったことは言うまでも無く、恐らく分っていたと思われる。 この一事を以ってしても儒家には偽りがあることが見て取れる。 司馬光の世代の輩は、一方で、丸で君子ように礼を尊重して徳教を治めたけれども、婚姻の犠牲者阿雲には如何あっても死地に追い込もうと少しも同情を示さず、彼らの心の中では、妻阿雲は夫を殺して仕舞い、儒教の基本理念の礼と道を犯したので、如何しても厳重に処罰しなければならず、礼儀と道徳を犯した者を礼と道を以って許さ無かったのであり、この事実は無能な学者の論理で、事実であるならば、十分に礼と道に対する偽りからの冷酷な事実でもあったのだ。
王安石は二者が片手落ちになっては為らず、同様に重要だと主張した。 彼は王道と覇道の隔たりを縮めて、王覇共に仁義礼信を講じるものだとし、王道は心の内に秘めて、あるが儘行うもので、覇道はこれを以って名を成し、仁義礼信そして己を以ってこれを示す。 彼は政権を握った初期に措いて、直に古い制度を変えて、主として刑罰の仕事に参与した。 古い制度での刑事事件では、法廷での審査に尽きるので、大理寺が取り調べ処置をするだけで、其の担任は本省の副相が関与し無いで宰相の位の者が当たっていたので、これでは司法の独立性は保てず、罪名に対して余り重視して無いことを表していたのだ。 彼が表面に出て刑事事件に関与した時に、宰相の曾公亮は納得し無かったので、王安石は、若し法廷と為る大理寺が拷問によって取り調べるならば適当で無いと思って、中書が関与して飽く迄説諭で取り調べるべきと反駁して、重大な事件の案件に出会って、衆議しても決着が着かない時には、中書は事件に関与せず皇帝に上奏するべきで、聖人を待って裁いて貰うのだとした。 彼は帝王自ら罪名に関与するように主張したことは、彼が罪名に対して非常に重視することを表わしており、無能な学者の軽蔑する法治に対して力強い反撃を行ったのだ。
王安石は実際には功労があって過ちもある現実に必ず直面するので、法制には賞罰があるべきで、賞付き処罰も有得ると考えた。 《尚書新義》の中で、「敢えて殺戮し尽し、民を安んじることはある。 凶徳は避けることが出来無いことなので、威を我慢して済ましては為ら無い」と言う意味は、人民に対して脅して恩を売るような悪人の殺戮に対しては殺して報復し、凶暴残虐で有名になるのを必ずしも忌諱する必要は無い。 これは元々大切な真実の話で、国を治める為に推し進めるべき制度で、後に儒学者は大いに非難をし、道学者は礼の教えに有害だとした。 道学家が政権を握った後には道徳的に罪が無いとは言えず、民は誅殺を免れたのか? 実はそうでも無く、明清の世とも成ると朱理学が盛んと為り、結局更に専制的に成り、判決文に基づく獄が盛んに成り、人民は一寸したことで罪を被り、そうしたことが可能なのは、封建的な統治の道具として朱理学の特徴と言うことは出来るのだ。
例えば王安石の法治の面での思想は今日の基準からしても、大部分が合理的であるが、残念乍法治を進める最中に次々と重なる障害に出会って、貫徹し続けることが出来無く成り、更に長い間続けることも出来無かったので、其の思想に相当する理性と進歩性がより鮮明に現れることは無かったのだ。
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