魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相 第四巻の六

2008-01-11 14:11:20 | 魂魄の宰相の連載

六、遺恨の長い年月

 王安石の変法についての基本思想は正しく、目標も明確であり、法令を実行して行く為の手順も適切で、手順を進めていく方法も亦比較的適切であり、効果も明らかに出るように成ったのだが、様々な原因の為に、残念乍結果として失敗の運命となり、変法派は扼腕し嘆息した。 

 その最終的には失敗した原因を総括する為、その変法を為したことに拠る損得を突き詰めると、今日 に措いても尚現実的な重大な意味がある。 

 変法派は比較的政治の綾に疎かったので、強大で長い間続く政治力を造れず、恐らくこのことが変法の失敗の根本的な原因であったのだろう。 

 比較的常識的な観方をすれば、王安石は中小の地主と自耕家の代弁者たらんとしたのだと言われるが、このような観方をするのは今日より以前での階級的見地からの分析の結果齎されたものだと言えよう。 若し、当時の階級を段階に分けるならば、王安石が「一日すら命を繋ぐ田畑が無い」という言葉に見て取られる様に、彼は標準的な給料所得者或いは貧農・下層・中層農の何れかであった筈だが、自らは全くの給料所得者階級であると言っていたので、国家公務員の道を選ばざるを得無かったのであり、薄給で一家を支えていたのだ。 王安石は事有る毎に社会の中下層を救う立場で話しをしたのだが、然し厳密に言えば彼は中下層の代表だとは言えず、若し本当に江蘇轍が「貧民には耐えられず富民も深く苦しむ」と言ったのならば、本当に彼が守ろうとしたのは国家利益とあらゆる階層にとって合法で、公正であるように、長い意味での利益を求めたものだったのだろうと考えられる。 

 当時の情況は社会全体として貧富の格差が広まっていたのか、或いは両極端の者が少なくて中産階級が拡大していたかの何れかであり、何れにせよ朝廷と下層部の人民に行き渡る財産の分け前は大きいもので無く、総ての者を支えるようには成って無かった事は事実であり、上層の官僚や地主や豪商、即ち兼併家は贅の限りを尽くし、彼らへの富の分配は不当に高く、その上社会的貢献の意志なぞ更々無かったので、たんまり溜め込んでいたのだ(今日の日本と見比べたし)。 その上、上層の官僚の俸禄は決して高く無かった事も原因であり、彼らの収入の殆どが合法的なものでは無く、収入は恐らく彼らの業務に関連して賄賂を受け取り汚職したものか或いは副業で儲けたものであり、要するに大部分が特権に頼って得たものであったのだ(ここは現状の日本と乖離あり)。 大地主や豪商は官僚として一人二役をこなすか、或いは封建官吏と互いに結託して、自分達が正常な取引で受け取るものよりより多くの収入を得ていたので、彼等の収入は、搾取、横領、脱税などの正当では無い部分が大半を占めていたのだ。 このような不正な人の元々の収入は多く、更に特権もあったので、それに起因する負担の大部分は最下層まで回され耐えられる限界を超え、生活にも困る程であったのであり、実際、社会全体で最も豊かな階層は、最も保守的で、最も向上心に不足し、最も改革を恐れていたのだ。 

 国家の財政が益々苦しく国家が弱体化すればするほど、社会の負担の現状は益々厳しく不平等に増すばかりであったので、王安石は両方から同時に活動を進める策略を採り、一つは効率を重視して、拠り所を生産の拡大に依って社会の資産を増加することで社会全体に利益を行き渡らせ、二つ目は公平を重視し、兼併を抑えて、独占を制限して、上層の特権の階級の不合理な利益を減らすこととしたのだ。 この両面は互いに補完し合うものであったので、公平を重視せず、特権階級の不法な利益を制限し無ければ、下層部の人民が働いて生産に積極的に努力を傾ける事も望めず、更には生産を拡大させる為に必要な資金をも準備することが出来無く為り、或いは中下層の官吏に俸禄を追加発行する事すら儘成らず、そうなれば地方官吏が清廉に業務を行うことも為らずに、汚職を減らすことも約束出来無く為るのだ; 社会の資産の総量を大幅に増加させる為の生産を拡大させる努力が足り無ければ、分配を如何するかと言う事に拘るしか無く、上下間の対立を激化させて仕舞い、却って分け前がより小さいくなって、結局下層部を苦しめる事に為り、本当の公平さを得る事なぞ望むべくも無く、然も、一旦対立の激化が徹底的に行なわれたら、社会に動乱が暴発するしか無く、上下貧富の何れもが災に遭って、誰もが等しく得るものもの無くなり、最も不運に曝されるのは矢張り貧乏人となるのだ。 そこで長い期間を観ると、法律(制度)を変えるのが国家とって有利で、社会全体にとっても総ての階層に対しても有利で、富豪の階層も例外では無くて、彼らは事実上も最も基本的な利益を得る者と成れるのだ。 

 改革は間違い無く暫くの間は一部の人の利益に打撃を与えるので特権階級の反対に遭う可能性を秘めていたので、王安石と神宗はこれに備えて心構えがあったのだが、然し彼らの抵抗は予想を越えて遥かに激烈で、全く大局を顧みようともせずに、変法が当初の思惑通り行かない様にしたのだ。 

 神宗は、変法の面では甚だしきに至っては時に王安石より更に急進的となり、彼の変法に対する目的は大変簡明で、負担の不公平な現状を改変する事に尽きたのだが、朝廷の収入を増加しようとしても、下層部の負担は既に重く、然も既に貧困が極限に達していたので、これ以上掠め取る事すら無理なので、そこで標的を上層の富裕家に合わせるしか無かったのであった。 神宗と文彦博の対話の中で、双方の立場の相違を明確に表した。 文彦博は言う: 「祖先の法制が備わっているのに、態々人心を失う必要は無いのであります」。 神宗は真っ向からこれに答え: 「更に法制を広げれば、士大夫達には確かに多くの不満が出ようが、然し人民にどんな不満が出るというのか?」 文彦博は答えて言う: 「士大夫が天下を治めさせるので無く、庶民に天下を治めさせるのですか」。 

 この対話は非常に面白い。 神宗は明白に変法の目的を士大夫の階層に対して狙いを定めたものであり、下層部の庶民に対応するのでは無いということを指摘したのだが、文彦博も、皇帝は士大夫と協力せざるを得ず、庶民を代表することが出来無いと率直に神宗に警告したのだ。 

 兼併を抑える面では神宗と王安石は一致しており、然し其の法式方法と措置の上である程度違いがあった。 神宗は焦って治めようとしたので、或いは焦って朝廷の困窮する局面を改善しようとしたので、兼併の戸に対して断固として打撃を与えることを力説し、早く税を取り立てようとしたが、王安石は老練で慎重で、この階層の勢力が大きいことが分っていて、若し余りにも大きくその利益を侵犯するならば、改革への抵抗力が大きく成る可能性が有るので、そこで比較的に柔軟に対処しようと、次第に制限を加えて行く様にし、軽はずみにせっかちに為ってはいけ無いと考えていたのだ。 

 免役法の様に、神宗はの半分の優遇を減らす方法に対して不満に思ったので、「から多少の金を取って兵役を免れさすことは可笑しい」と言ったが、王安石は根気よく「時に応じて、この様にすべきです」と諭し、このようにすれば抵抗力はより小さく為り、変法を順調に進めることが出来るのであって、この種の人達は権力があるのでは無く、金が有るのであって、一度次から次へと上告したら、皇帝ばかりか恐らく本人自身も動揺し無い訳にはいか無く為り、若し皇帝の果実を上げる事に拠る得失がはっきりわかる様に為ったならば、賞罰を明示して、思い切って官吏を庶民に降ろす事を断行出来、敢えて不服を申し立てる勇気を無くさせられるのだが、その時までに更に兼併に大きな制裁を加える力を増大出来ていたならば、貧しくて弱い者達を多く救済することが、どれだけの大きい困難にぶつかるなどということも有得無かったのだ。 

 この変法は事実上変法派が神宗との同盟を結び、変法派が先代の時に中下層に一定程度の利益を表しことがあったにも拘らず、併し文彦博の言ったことは正しく当を得ており、庶民は専制制度の下では全く発言権が無かったので、そこで変法派の権力の源泉は事実上皇帝一人だけであって、変法の成功と失敗の損得は神宗一人に掛かっていたのだ。 

 この事に対して王安石は、神宗の変法への決断が一体どれだけ大きいかを見分ける為に、始めの内はあからさまに何度も神宗の心中に探りを入れた結果、神宗の思いが比較的確固たるものだと確信出来たので、彼は既に三人の皇帝を経験していたが、一生自然に任せて禄に作為を加えない儘変法への重任を毅然として引受けたのであり、神宗のような帝王に出遭えたことは貴重な好機と捉えて、辞退するなどとは更々考え無かったのだ。 

 専制独裁の社会の皇帝の権力は無論至上であったが、併し彼が民選の大統領では無い為に、文彦博の話も急所をずばりと言い当てていたので、皇帝も実際に自分の階級の礎を離れることが出来ず、彼に庶民が協力出来る訳も無く、実際に皇帝は皇族の運命や或いは士大夫の階層を決定する立場であり、専制制度は彼がこの階層と協力することしか出来無いことを運命付けていたのだ。 

 王安石は皇帝の権力が至上であることを信じ過ぎたので、彼は皇帝の支持が有りさえすれば、聖君の賢相が十分に国家の命運を決定して、出来無いことは無いと勘違いし、変法が出会うかもしれない困難について予測を見誤り、加えて神宗の覚悟が余り固められて無かったので、変法は挫折を経験し、神宗の困難に対しての理解も足り無かったことを理解するに至ったのだ。 

 変法派には士大夫階層を含み、その構成部分であるにも拘らず社会に措いて統治の地位を占めるこの階層に、変法が触れて仕舞った為、変法派内部の革命の推進力は断然不足の憂き目に遭い、その失敗は早晩の事と成った。 これも時代が運命付ける悲劇で、王安石と神宗は更なる見識があったとしても、庶民の政治参与と政治討議を政治の舞台に上がらせることは出来るべくも無かったのだ。 

 皇帝の権力に依存する為、王安石は王権が至上であることを吹聴する外無くて、専制君主制の為に大いに世論を作ることしか出来ず、君主の最高の権威を強調して、これは間違い無く後難を知りつつも危うい方法を採ったことに成り、さし当たっての危難は避けられるが、極めて大きい副作用を残して、彼が救うのは貧しくて弱い人であるのに、兼併者(皇帝は最大の兼併者)との初志は合致することが無く成り、彼が創世記の民主に向かって行くことの障害とも成り、互いに認め合っていた筈の君臣は相反する思いを主張し合ったのだ。 

 一方では皇帝に依存せざるを得ず、一方では士大夫の階層の抵抗とそれとの軋轢が憂慮されたので、法制度の改革は「殻卵を産むのであるしか無いこと」を運命付けられていたのであり、専制制度の侭で公平で、自由な、豊で活力と効率的な新しい制度を孕み育てたいと考えることは、旧体制の前提を外すこと無く新しい体制を創造しようとすることなので、どれほど困難かは一目瞭然であった。 

  変法が皇権を如何様にも出来無いことは当然で、更には士大夫の特権的地位を変えることも出来ず、こんなことでは実際は政治の領域まで深く入り込むことが出来ず、改革は経済の領域でしか行うことが出来無かったのである。 王安石が政治上の改革をしたく無い訳は無かったのだが、彼は探りを入れ乍極僅かな改良をゆっくり進めて行く以外無かった。 若し科挙を改革しようと下層部の書生により多くの機会を与える為、学校を興したならば、国家の為に変法を進めることが出来る多くの人材として余力を以って育成する事が出来たのだ。 公官の古い制度は災いを齎すので、昇進制度を改革しようとするならば、単に年齢と資格・経歴などで見ず、年功序列を止め、中下層の官吏の中にも確かに有能な人はいるので、才徳の政治的業績の優劣で昇降を与えて破格の抜擢をして、彼等の登用を積極的に行うべきなのだ。 

過去にずっと小役人には棒禄を満足に支払は無かったので、汚職でもし無ければ生計を立ることが出来なかったのであり、若し、廉潔にしようと少しでも読書人と胥吏の間の格差の障壁を打ち破ろうと棒禄を上げられ、更には胥吏であっても大臣に成れる機会を与えることが出来たならば、胥吏の社会的地位は高まり、その上、中下層の官吏の俸給をも引き揚げることが出来たなら、より廉潔が守られる様に成るのだ。 これらの措置は間違い無く地方官の治績・行政のやり方の総てに対し、正しく有利に働き、政府の所管の行政の効率をも高めた筈なのだ(この意見には賛成しかねる)。 

 然し、これらの改革は専制制度自身を揺り動かすことは出来ず、階級制度をも変えることすら出来無かったのだ。 上層の官僚主義的な富豪は経済の利益一点の損失を受けただけで、彼等の政治的権力と特権権的地位は不動の儘であったので、然したる動揺は無かったのである。 尤も、王安石が王権を後ろ盾に士大夫の階層のみの幾つかの特権の制限を打出したことは、神宗が変法の条件と前提を支持することから、彼らが敢えて真っ向から反対する重要な原因とはなら無かったのだが、これらの改革の結果は上層の有するいくつかの特権と経済の利益をただ中央政権に回収しただけに終り、其処からの利益は下層部に転換することにはなら無かったのだ。 改革は専制制度を一層強化して、権力を一層集中させて、国家全体を皇帝一人に更に加重に担わせる結果と成ったと言えなくも無い。 

 神宗は愚昧で騙され易い皇帝では無く、彼が変法を支持せざるを得ない十分な環境下にあったのであり、自らも目的としたのだ。 皇帝の権限を強化することを彼は断固として支持したので、これに反対する者は相手にしなかった。 彼は何度も庶民を代表して、庶民の利益だけを護る様に装い、丸で本当に庶民と同盟を結んでいる様に見せ掛けたが、本当は上層の士大夫の特権を制限する為の口実にしただけで、制度改革によって齎された利益と権力は全て彼に手渡され彼の支配下に入ったのだ。 改革の前段階に措いて王安石の殆ど如何様な箴言も計画も神宗が聞き入れたのは、一つは王安石の行動の全てが皇帝の権力を守るものだったので、彼と志が一致すると思った為で、二つ目は王安石が富貴を望むことが無いことを知っていて、私心を持つことが無い人柄と能力を十分に分かっていた為で、三つ目は彼自身政治経験が足り無い為で、能力の上で王安石に及ばないと感じており、その上当時の財産権、職権の多くは大富豪が独占し官僚主義的に仕切られていたので、王安石などの人の力強い援助が無くては、彼も成果を挙げることが出来無かったからなのだ。 

 神宗は一方では「朕と安石とは一人の人間だ」と公言し、王安石を大変尊重し、彼には大きい権力をも与えていたが、一方ではまた祖先の警告を確りと心に刻んでいて、「異論は相掻き混ぜる」を実行して、政権側にある中で密かに中枢を管理させる為ずっと文彦博、馮京などの古党を任用することで王安石を牽制し、また司馬光などに対しては、つかず離れずの態度を摂って、そうすることで巌然として影響力と地位を維持したのだ。 王安石の権力は大きいが、万事神宗と相談しなければなら無くて、単独では決してどんな権力も振るえ無かった。 神宗と王安石の関係は歳月のように、月は迚も明るいが、その輝きは完全に太陽が秀でると言うものであった。 

 旧党の多くは王安石の独裁を攻撃したが、実は本当の独裁者はずっと神宗で、只王安石はより多く表舞台に立っていただけだ。 王安石は二度目の宰相の位を辞退したのは、彼が惜しくも愛子を失ったことと大いに関係はあったが、神宗と変法に対して意見が分かれて行ったことに大いに関係し、更に重要なのは神宗が国の政治を一手に握る意図があると王安石が意識したので、神宗への信頼が弱まって仕舞い、実際にも王安石と神宗の違いは次第に現れて、変法は彼が予想していた軌道を押し続け難く進められていたからだった。 

 神宗は王安石が退職した後に措いても、依然として新法を推進してはいたのだが、然し規模は極端に縮小して仕舞い、更に重要な基本思想と推進の方法は全く大きな変化があったのだ。 富国強兵は二人の共通の目標であったのだが、どの様にこの目標を達成するかと言うことに対しては、二人に相違があったのだ。 王安石の主張は生産を拡大させることで収入を増加することを主としていたが、神宗は下から税を取り立て、同時に支出を減らすことを強調したのだ; 王安石は集権を強調したが、それは飽く迄効率的に公平を促進することを通じて、社会が公平であることを実現する為の手段と名目として利用したものであったが、神宗は権力の集中が庶民の利益と為るということを口実にして、集権そのものを目的としたので、上層の士大夫と富豪の手中の権力を皇帝に取り戻したのだ; 王安石は自由経済を主張して、自由経済を通じて夫々の階層、夫々の業界の生産を積極性に発展させるように仕向けて、社会の資産を大幅に増加させ、国家が本当の意味で豊かに成るように、根気良く時間を掛けて国を富まし兵を強くして行くことを目指したのだが、神宗の富強に対する気持ちは切実で、改革の実現を焦る余り、彼は生産を通じて豊かに成れるのかと疑問を持ち、更に辛抱強さに欠け、彼は重税を課して搾取することに依って財産を中央に集中させると主張したので、そこで変法の後期には完全に国家が経済を独占するように施行し、富の独占を期待して重税を課して搾取することを通じて朝廷が迅速に資産を増加するように仕向け、強兵の資本としても、出来る限り早く西夏、それから遼寧国を征服するように図ったのだが、後にこのようにすることで齎される深刻な結果を敢えて考慮することは無かったのだ。 神宗は国を真に富まし、兵を真に強くということを焦った為、雪辱を期そうと、焦って戦いを仕掛けたが、将軍を信じず、宦官を重用したので、失敗は必然のこととなったのだ。 

 神宗との多方面での深刻な相違の為、王安石は民主を実行することが考えられずに、亦、士大夫の階層の見識がある人士には誠実な者が少な過ぎ、現実に皇帝の権力を捉えることも出来無く、変法派内部にも王安石のような公正無私な君子は少なく、変法も最終的には失敗の運命は殆ど免れ得るもので無かったのだ。 変法の失敗では、寧ろ神宗がより大きい責任を引き受けざるを得ず、其の失敗の根は何と専制制度に在って、この失敗の原因は専制制度に内在する悲劇性が顕れた結末を迎えざるを得なかったのだ。 

 変法を上から下まで浸透させる為には、皇帝の権力に頼ることしか無く、そこで自らの言動が矛盾する現実は免れ得無かった。 王安石が公平を提唱して兼併の抑制を主張するのに、朝廷の兼併で上層の富豪の兼併に取って代わって、兼併で兼合を破壊することしか出来ず、変法に従って生産を拡大させて齎された巨額の社会の財産が実際には庶民にはほんの少しばかりしか分配されず、富豪の手から集中的に朝廷の貯蔵庫までへ只管運び込まれるだけで、これは全く王安石の初志に合う事では無く、恐らくは神宗の変法を支持した動機に関係があったのだ。 王安石は何度も君主の権力を強調したが、その本意は変法への力を補強として利用したものであり、併し本当は帝王に独断をさせたく無かったのだが、ところが神宗が本当に独裁を願っていたなぞとは思いも付か無かったのであり、互いに王安石の二回目の退陣を待った後に、神宗は自分の羽毛は既に抜け変わる時機だと感じたが、第二の王安石のように全て自分の意に添って仕える人材は絶対に探し出せ無いと感じると共に、神宗の能力は事実として全く王安石と比較することなぞ出来様も無く、そこで変法運動は大きく後退を余儀なくされ、おまけに何度も西夏には負け、富国強兵の目標は実現されることは無く為り、そのことが保守派への新法を廃止する口実と為ったのだ。 

王安石は法治を強調しが、それなのに立法権は完全に皇帝にあって、然も皇帝は自分で制定した法律の制約を受けるべきで無いと考えており、それが君主を絶対に犯すべきで無いとの考えを助長し、このような法治では法律の権威を尊重することが出来る筈も無く、事実上未だある種人治であり、全く有害な人治と成るところも有り、「人を救済する為には、祖法は不充分であるのに、天は変を恐れ」、何を持って帝王を制約する? 所謂道義は空論と見なされるべきで、君主がきっと聖明であると言う虚構を前提として総てを担保に取られるならば、賭け金は少し大き過ぎて、博打を打つようなものと為る。 

 歴史の証明として、中国では「新しい権威主義として」の類として「独裁を認めよう」と施行するのは完全に通用し無いことなので、独裁の手段に頼って民主を推進して、兼併で兼併を抑止するのは、全く偏った遣り方であり、民主を実現することと逆行することで、逆により徹底的な独裁を招ねいて仕舞うかもしれないのだ。 

 王安石の思想は当時に措いては余りにも先進的過ぎるするものであって、当時の人は理解することが難しく、譬え現代人であっても完全に受け入れることが出来難いものであったのかもしれ無い。 彼が先王の道を相標榜する為に、世の中に喧伝という手段を採ったことは如何にも近代的手法と言えるが、将に近代的な思想をも超えたのは、正に経済の面にあったのだ。 様々な角度から見ると、王安石が公平を実現しようと兼併を抑制したことは、社会の平等の意味合いを含んで提唱されたことで、更に自由経済を推し進めるのは、平等の障害と為る独占に反対する意図があったからだ。 経済を独占するのは事実上ある種権力経済(或いは政府の経済)で、非経済的要素を持ち、経済を停滞させ、長い目で観ると経済発展を完全に阻害するものと為るのだ。 王安石は独占の害を十分に知っていて、彼は富豪の兼併に反対するばかりか、国家の独占にも反対したのであり、自由貿易を力強く主張したのだ。 

 惜しむらくは王安石の時代にあっては、自由経済社会を推進する為の基盤も、技術に依る援助も全てのものが不足していて、彼の改革に役立つものを提供出来る段階では無かったのだ。 中小の商人と一般の消費者の発言権は抑えられていたので、彼らの意見は反映することは無く、更に歴史に書くまでのものも無く、工業も未だ芽吹きの状態にあって、農産物の供給も不足し、商業化も今一の状態で、文化教育も産業化することも出来ず、そこでは社会が全く自由経済の価値を理解することが出来無かったのは当然のことであったのだ。 

 青苗法は近代的な銀行法の原形で、免役法は職業の分業を強化して、手実法は財産の申告及び実名制と類似していて、王安石の変法運動の基本思想と経済の措置は総てが全く先進的であったので、余りに現実の自給自足経済型の農業に代表されるような全体の社会に適応し難い先進的な経済と見なされたのだ。 勿論、先進的という其のもの自身が良く無いと言うのもでは無く、商工業に何らかの援助をして立ち上げ易くして、商工業の経済を政策により指導をし、それに依って社会全体の経済の商品化を動かすようなことを積極的に展開し、新法を貫徹し続けていたならば、最後に社会形態の転換を完成出来ていたのかも知れないのだ。 

 併し、儒家思想に代表される古い観念が余りに根強過ぎる経済的土壌にあって近代的経済への転換を成し遂げるのは、全く困難に過ぎることであったのだ。 神宗と王安石は最終的に「人心を変える」の効果を政治の手段を通じて達成するように新学(これ自身が採用する価値が無かった)を推し進めることを強制することを望んだが、不可欠と為る経済的情況の支持が無ければ、このような変革は雨が上がって地表が湿るだけのことと成り、経済的現実に深く入り込むことも出来ずに改革を持続させることは不可能と為ったのだ。 彼らは思いを遂げることが出来無かったばかりか、守旧派は相手の言論を逆手に取って、見解の矛盾をついて、思う存分に計らうことが出来て、司馬光などの古い党の輩が実権を握ると、急いで新学を解体し始め、政治的手段で新学を抑えたのだ。 

 法律(制度)を変えるには政治の基礎は不安定で、基本思想は一様で無くて、経済的土台も不足していたので、況して反対派の力は余りにも強大で、王安石は最大の努力を尽くしたけれども、矢張り情勢を引っ繰り返すことが出来無くて、彼は最も華やかな時期に決然と引退する外無くて、江寧に帰って定年退職の生活を始めた。 新学は本質として現実に経世に役に立てる為の学問であったので、変法は事実上新学の実践を継続することであったことから、変法の失敗は同時に新学の失敗を意味したのだ。 王安石は儒学が駄目だと痛感し、彼は絶えず体験した試練を通じて、総合各家の創建した新学を先王の道を名目にしたのだが、結局、彼は儒学(新学と儒学との連携を断ち切らすことが出来ず)を改造することに対して徹底的に自信を失って、最後に完全に彼の心中で深い思い入れを持つ様に為った仏教学に転向することに為ったのだ。

 ここで、『魂魄の宰相』第四巻は完了です。次回からは第一巻から書き込んでいきますので通読してくれることを願っています。


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