魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【思想的には完全な左派の伊藤義彰氏の神武東征の史実論の魚拓】

2017-07-09 21:54:36 | 歴史

第一代天皇とされ、現天皇家の祖先とされている神武天皇については、いわゆる「神武東征」説話が古事記・日本書紀にかなり詳しく語られています。現在ではこの「神武東征」説話が全て作り話とされ、従って過去の歴史事実を何一つ反映したものではないとされており、それを証明するための研究が盛んに行われて、それ相応の成果を収めているやに見えます。すなわち、「神武架空説」は現在の常識であり、定説となっています。
   作り話だという前提で古事記・日本書紀の語る「神武東征」説話を一読すると、誰もが感じるのではないかと思いますが...、何故?と首を傾(かし)げたくなる二つの不思議に出会います。しかも定説では二つの不思議に対する明確な答えが示されていないように思われるのです。
   一つは、何故、こんな話をわざわざ造作するのか、造作しなければならないのか、というような話がいくつも出てくるのです。神武を初代天皇として相応しい尊貴な徳の高い人物として造作すればよいものを、何故か、騙し討ちや残虐な殺戮場面を何度も描いて、むしろ残忍非道な人物に仕立て上げているようにさえ思えるのです。神武の後を嗣いだとされる綏靖天皇は、異母兄を殺して二代目に収まっていますが、何故、こんな話をわざわざ造作する必要があるのか理解に苦しみます。古事記にいたっては、神武天皇の死後、その子(多藝至美美命 たぎしみみのみこと)が神武の正妃だった継母(伊須気余理比売 いすけよりひめ)を自分の妃にした話まで載せています。綏靖(すいぜい)は、この異母兄であり、母(伊須気余理比売)の夫(義理の父)である多藝至美美命を殺して二代目の天皇になったとしているのです。こんな話までどうしてわざわざ造作したのだろうと不思議でなりません。
   二つは、「神武東征」説話には古事記・日本書紀が編纂された奈良時代にはなかった地形や、その地形にまつわる地名が出てくるのです。奈良県と大阪府の境をなす生駒山の西麓(大阪府側)のクサカ・タテツなど現在でも残っている地名です。これらは瀬戸内海を東へ航行してきた神武が、船を停泊して上陸し、長髄彦と戦い、敗退したところにまつわる地名として出てきます。地名の残存率はかなり高いとされていますから現在まで残っていても何の不思議もありませんが、問題は、神武が停泊・上陸した地点が、奈良県と大阪府の境にそそり立つ生駒山の西麓だとされていることであり、クサカ・タテツなどもこのあたりの地名だということです。つまり神武は生駒山の西麓まで船で行き、クサカ・タテツの地名の残るところに停泊・上陸して長髄彦と戦い、再び船で大阪湾に逃れたことになります。生駒山西麓の地域から大阪市の上町台地にかけて広がる平地を河内平野と言いますが、神武は大阪湾から生駒山の麓までこの河内平野を船で往復したことになるのです。現在の地形からそんなことが想像できるでしょうか。同じことは奈良時代にも言えることであって、古事記・日本書紀が編纂されていたころも河内平野は既に陸地であって、大阪湾から生駒山の麓まで船で行けるはずもなかったのです。船で航行することなどおよそ不可能な河内平野を大阪湾から生駒山麓まで船で往復したなどというような話をわざわざ造作する必要がどこにあるのでしょうか。
   以上、二つの不思議が、「神武東征」説話が造作されたとする歴史学の常識・定説に納得できない理由です。


 

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