魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

◆◆【我「老子」の私見を綴る】◆◆同異第四十一

2012-05-19 14:08:44 | 学問

同異第四十一

上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、大白若辱、廣徳若不足。建徳若偸、質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且成。

上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。中士は道を聞きては、存するがごとく亡うが如し。下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。笑ざれば以って道となすに足らず。故に建言にこれあり。明道は昧きがごとし。進道は退くがごとし。夷道は纇しきがごとし。上徳は谷のごとし。大白は辱のごとし。広徳は足らざるがごとし。建徳は偸なるがごとし。質真は渝るが如し。大方は隅なし。大器は晩成す。大音は希声なり。大象は無形なり」。道は隠れて名なし。それただ道は、善く貸しかつ成す。

 智慧を持つ聖人は、懸命に「大道」を知ろうとする。程ほどの智者は、「大道」を知るも曖昧である。大抵の者は、理解出来ずに笑って誤魔化すしかない。このように「大道」の理解度に段階的な差があることが無ければ、其の理解度に従って順次「大道」を広めることは出来なかったであろう。此処に古より言い立てられたことがある。「『大道』を知り尽くそうとする聖人は、精魂傾けて「大道」に従えば従う程其処から離れて行くようで愚昧に見えるが、元々「大道」は特別なものでは無く、極普通に従うことが出来るものである。上徳は本来地に万遍無く豊穣を齎す谷のように人々に安寧を齎すものではあるが、徳を見せ付けては恥となり、徳で満ち溢れさせば却って足るを知らさず。大徳を打ち建てんとする人は一様に謙虚であるが、純朴な人こそ教導しやすいものである。ゆったりと落ち着いて事に当たれば困難も克服出来る。大事を成すには時間を掛けて漸く完遂出来るものである。聖人はくどくどと教えを説くものでは無い。『大道の見事さ』は具象出来るものでは無い。」「大道」は隠れて眼で見えず、天地の出来た前からあるものなので名など無いのだ。言わせて貰えば「大道」は万物に貸し与えられているべきものであり、だからこそ「大道」は成し遂げられるべきものである。


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