【国民の福利を向上させる社会を創る経済の仕組み(其の1)】☜左クリックして開くべし
【国民の福利を向上させる社会を創る経済の仕組み(其の2)】☜左クリックして開くべし
公的機関の事務職員は65歳以上の年齢の人を採用。国民の福利に関係する仕事には法律や規則で一律に処理出来無いことも多く社会経験豊富な人材活用は有益であり、年金支給を抑えられるばかりか労働者人口の実質増加にも有効である。更に、高齢者はそう長く努められないので、セクショナリズムの解消も期待出来る。民間でも取り入れゝば、全年齢型人材活用社会を実現出来る。兎に角、学歴崇拝と新卒貴重主義を生む学制は辞めるべき。口だけの再チャレンジ社会で無く、教養や能力向上を年齢に関わらず身に付けられる社会に “ 戻す ” べきである。義務教育は現在の小中学校で十分である。身体を動かし労働して糧を得る人類本来の生き方を若いうちに身に付けるべきである。社会は人間の為にあるもので、社会が目指すべきは経済の効率化で無く人間育成の効率化を目指すべきである。特殊な犯罪は確かに存在するが、犯罪の多くは社会制度の歪みから生じる犯罪者の「絶望感」から生じるものである。犯罪者の「投げ遣り」な生き方は、若いうちに其の後が決まる社会から生まれる。政治屋は口を開けば「改革」を叫ぶが、口先だけで何の為の誰の為に何を目的に改革するか「心」が無い。今日、多くの国民が望むのは先ず、「安定した暮らし」と「将来への不安を取り除くこと」である。進歩より、安心感なのだ。其れには、若いうちに将来を固定化される社会を変えるべきであるのだ。教養とは、精神文化一般に対する理解と知識をもち,人間的諸能力が全体的,調和的に発達している状態。教養の内容は,その所有者が存在する社会の文化によって異なる。詰まり、社会で生きて行く為の適応能力の素養とも言えて、教育や学問で全て学べるもので無く、寧ろ実社会で学び身に付けられるのだ。
経済の語源の「経世済民」は、「中国晋代の書『抱朴子』〈外篇〉にある〈経世済民〉に発した略語であったといわれる。『経世済民』とは,『世を治め民を救ける』という意で,現在いうところの,政治に関わる諸々の事柄を指していた。…」経済は人間社会の進歩?の為で無く、元々臣民の救済の為のもの。然らば、此のシリーズの最初に掲げた経済の定義は極めて限定された概念だったと言える。今衆人が感じて居る経済的格差が拡大した現在の閉塞感を打ち破るには、衆人の安心感を脅かす否定的な事態によって齎される様々な社会的弊害を無くして、安心した暮らしを取り戻す仕組みの再構築を急ぐべきなのだ。
弁護士等事務的な仕事の資格試験も社会経験の多い一定の年齢以上の年齢制限を設けるべき。此の時、社会経験が長いことによる柵の排除を如何判定するかが問題と成ろう。例えば、弁護士試験資格を60歳以上にすれば、裁判官や検察官の弁護士への天下りも無く成に、法曹間の仲間意識の可笑しな判決も無く成る。
明治維新がマイノリティの反乱だと知っているか? 松下村塾は秀吉の大陸遠征後に連れて来た朝鮮人下士郷士松本村に在った。伊藤博文も、明治天皇の崩御によって殉死した彼の乃木将軍も朝鮮下士の出だ。ちゃんと歴史資料に書かれてる。詰まり、日本は維新の時に朝鮮人下士に乗っ取られて居たのだ。秀吉軍が連れて来た朝鮮人が日本の磁器を日本に教えたのでは無い。奴等は連れて来た各藩揃って、奴等の食い扶持として磁器を焼かせた。当時の李朝は白磁は作れ無く、全て青磁であった。白磁と青磁では土も窯も製法も全く違う。 辰砂は中国の所謂釉裏紅と同じ技法。李朝に於いては,"専ら白磁が宮廷の什器として用いられ,其の生産は厳しく監督された"が,一方民間では,粉青沙器という白釉陶が発達した。粉青沙器は高麗青磁の伝統を受けて生まれたものであり,初期に於いては白化粧した器に青磁釉を翔けたものを焼造していた。
我々日本民族は、今こそ日本民族に此の日本国を取り戻さねば成らんのだ。勝海舟は確かだが、恐らく坂本龍馬も出は江戸後期隆盛した商家が、侍株を買った最下層の扶持の寡い下士であった。詰まり、此奴等は口先三寸日本を売った下衆である。よって、明治維新は日本のマイノリティを中心に等巻き込んだ反乱だったと観るのが順当である。歴史を学び直すべき。我の父母の先祖共碌は無かったが、両家共苗字帯刀持ちであった。武士と町人や農民の境は言われている程厳格では無かった。将門は平素百姓⇒元々、秀吉の刀狩り以前は士農工商は無く、農民と雖も武士の心得はあった者は少なく無かった。近藤勇は郷士。
松下村塾 - Wikipedia 松下村塾は、江戸時代末期(幕末)に、長州 萩城下の松本村(現在の山口県 萩市)に存在した私塾である。萩焼(朝鮮郷士)☜萩焼資料館 萩焼の歴史 | 古萩から現代萩焼まで収蔵・ …
萩焼の歴史 - 萩焼資料館☜左クリックして開くべし
萩焼の起こり 慶長9年(1604年)、広島から萩に移封された萩藩初代藩主毛利輝元の命により、朝鮮人陶工「李勺光(山村家)」「李敬(坂家)」の兄弟が松本村中の倉に開窯したことが始まりといわれています。
我は排外主義者だが、人種差別者では無い。人類は互いに協力し合ってより良い世界にして行くことには、全く異論は無い。然し、各民族はお互いのアイデンティを尊重すべきで、各民族が自らの民族のアイデンティを強く保持すべきであり、そうでなければお互い刺激し合わ無い。刺激はより良い社会を創る。
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