日本経済の破綻への私見 第八回
前回は、我ながら文にまとまりが無く、知劣で意味不明な文に終始してしまった。反省して、今回からは読者が理解できる文になるよう努力したい。このブログでの投稿小説「魂魄の宰相」を掲載するに当たっては、私なりの意図があった。この書は小説ではない。ある意味、啓蒙書なのだ。王安石は拡大生産の視点から経済の発展を目指したのだが、この視点で経済を考える者がい無いほどこの視点は斬新のものだったのだ。
経済政策は分配を如何為していくかに尽きるものだと言われている。当時の守旧派は、生産は固定化されたもので、有限の資源の中で分配を考えるしか無いとの考えに凝り固まっていた。守旧派はと言うよりも、王安石以外の総ての者がそう考えていたのだ。
生産に関する技術革新が無ければ、一定の労働での生産物の増大は見込まれまいが、石器から鉄器へ、人力から牛馬を使った耕作へと技術革新が順次されて来たのだ。其のつど耕地面積は増え、単位労働者あたりの生産力も飛躍的に上がって来た。王安石以外はこのことに気付かなかったのだろうか。否、気付いてはいたが、これを肯定すれば、彼らの拠って立つ道学の原理を破綻させかね無い自己保身の思惑が働き、天地がつくり給うものは一定であるとと言い続けるしか道は無かったのだ。
高齢者の人口比率が高ければ、高齢者が社会の担い手になっていかねばなら無いことは前回に述べた。しかし、環境が現状に止まるならば高齢者の生産力は、低く抑えられた儘で、高齢者の貢献度はそれほど期待出来ない現実がある。また、経済の発展を効率化を金科玉条と捉える考え方も変えなければなら無いのだ。
高度の技術革新を期待できる現代にあっては、効率化の問題はミクロ経済の分野での原理に留まり、経済政策の面で効率化を前面に押し出すことは、必ずしも、社会全体の経済的福祉に貢献するものとは、なら無いのだ。続く
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